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灰原と離れて事務所に向かった量子は、扉を開けるとアルゴン博士とリーが座っており、サトーはリーの膝枕で眠っていた。その寝顔は、確かの病院で見たあの少女だった。来ている服が違うだけでまるで別人に見える。ギャルソンのときは髪の毛もしっかりとセットされているというのも別人に見える理由かもしれない。
「あんたがやったの?」
彼は「はて、なんのことでしょう?」と言って立ち上がった。その瞬間、量子がアルゴン博士の胸ぐらをつかんで壁に押し付けた。今まで、どこにこんな力が眠っていたのかというくらいの力が出たことに、量子自身驚いた。
ペストマスクの目の部分は黒く塗られているのか中が見えなかった。しかし、彼は盲目のような動きではない。サングラスのようなものだろうか。
「あんたがやったのかって訊いてるのよ」
「どの件のことですか?」
「そのふざけたマスクを取りなさい」
量子がマスクを掴んで引き剥がそうとする。アルゴン博士はそれに抗うように、量子の手を掴んだ。彼に掴まれると、不思議と力が入らなくなった。
「ふざけてはおりません。そして、このマスクは取れません」
「ふざけないで」
「ふざけてはおりません」
アルゴン博士が繰り返した。その態度に、量子の怒りはさらに燃え上がった。もう一度マスクを掴むと乱暴に引っ張った。
「痛い痛い。やめてください」
マスクはゴムのような奇妙な感触だった。まるで直接顔から生えているみたいだった。いくら引っ張っても取れる様子がない。それどころか、このまま首ごと引っこ抜いてしまうような予感がした。
「どうなってるのよ」
「これが私の素顔です」
「うそ」
「本当です」
量子の記憶の中の白マスクはこんなふざけた仮装をしていなかった。それに、鏡百合もそんな事を言っていなかった。こんな怪しい人間がいたら、嫌でも誰かが証言するだろう。それに、監視カメラにも映っていなかった。
量子はアルゴン博士を乱暴に突き放した。彼の細長い体が壁にぶつかって大きな音を立てた。アルゴン博士が咳き込む。リーは覚めた目でその様子を見ていたし、サトーはこんなにやかましいのに寝息を立てている。彼らの仲間意識はどうなっているのだろう。
「でも、あんたがアルゴン博士なんでしょ?」
「いかにも」
そう言って胸に手を当てる。その仕草にカチンと来て、量子は無言で殴ってしまった。
「暴力反対です。あなたはひどい人だ。私は味方だと再三申し上げているのに」
殴ったあとに我に返った量子はハッとして「ごめん」と謝った。
「でも、アルゴン博士は五年前に私の家族を殺した極悪非道の殺人鬼のはずでしょ」
量子が言うと、アルゴン博士とリーは顔を見合わせて笑った。
「シェフってば殺人鬼だったの〜?」
リーが両手を口に当てて大げさに驚いてみせた。体が大きく揺れたことでサトーも眠りから目覚めたようで、状況がわからずキョロキョロと目を動かしている。
「ふっふっふ。バレてしまっては仕方がない。そう、私こそ、今世紀最悪にして最狂の殺人鬼……のはずないでしょう。なんでそんな事になってるんですか」
「鏡百合が言ってた」
「何ですか、それ」
とぼけているようには見えなかった。しかし、そうなると一層混乱してくる。
「じゃあ、あたしの敵は誰なのよ。誰が量子花弁をばらまいて量子汚染症を引き起こしているの?」
癇癪を起こしたように甲高い声で量子が吼える。
「敵、ですか」
アルゴン博士が量子に向き直る。
「信じてくれとしか言えませんが、私はあなたの味方です」
「嘘! もしそうだっていうなら、証拠は?」
涙目でアルゴン博士を睨みつける。アルゴン博士は頭を振った。
「証拠はありません。だから、あなたの判断に委ねます」
「ずるい……」
量子は頭を抱えてしまった。
「どうした?」
扉を開けて入ってきたのは灰原だった。それと同時に強烈な臭いが鼻をついた。
「臭いっ。何よ、肥溜めにでも落ちたの?」
「肥溜めなんて見たことあるのか?」
当然、量子は肥溜めなんて見たことはないが、灰原から臭って来るのは糞尿や腐臭の類である。
「それより、そっちはどうだったんだ?」
「どうって?」
「収穫だよ。聴取したんだろ?」
量子の混乱も知らずに聞いてくる灰原に苛ついた。それに彼の体から漂ってくる臭いに我慢ができなかったことも、余計に量子を苛つかせた。
「そんなに知りたいなら、自分で聞いたら!」
怒鳴りつけるように言うと、量子は部屋から出ていった。




