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車に乗ると、昨日の料理の匂いが残っていた。前頭葉のコンフィに使われていたソースの匂いだ。腹が鳴る。
「それより、体調は大丈夫なの?」
心配顔の量子が尋ねる。その顔を見て、灰原はうんざりした。無意識に頭をトントンと指で叩いている。その様子を量子は気になったが口には出さなかった。
「ああ、大丈夫だ。あのレストランで殺人事件が起きた。ゴミ箱を漁っていたホームレスが死体の一部を見つけたんだそうだ」
死体、と聞いて昨日食べた料理の記憶とリンクする。あの肉が人間の肉かも知れいないと考えただけで、胃液が込み上げてくる。隣を見ると、量子が青い顔をしていた。
「おい、ここで吐くなよ」
そう言われて、量子は無言で窓を下ろすと顔を外に出して吐いた。先程の灰原の嘔吐を見ていたからだろうか、その時からすでに少し気分が悪かった。
「おいおい、危ないぞ」
量子の嘔吐物が後ろの車に飛んで行った。後ろの車がクラクションを鳴らしてくる。灰原がため息をついて、車を脇に停めた。後ろの車の運転手も文句を言いたいのだろう、すぐに停めて降りてきた。よれたスーツを着た、壮年男性だった。
「すみませんね。車のクリーニング代はここに請求してください」
屈強な見た目の灰原が降りてきたのを見て、一瞬男性はたじろいだが、彼の怒りは挫けないようだった。目を吊り上げて怒っていたが、灰原が差し出した名刺を見て、一瞬にして態度が変貌した。
「け、警察?」
灰原が頷いた。確認するや否や、彼は脱兎の如き早さで自身の車へ滑り込むと、慌ててアクセルを踏んで行ってしまった。
「何かやましいことでもあったのかな」
すっきりした顔で降りてきた量子が、遠ざかってゆく車を眺めながら言った。
「お前なあ。俺たち公務員は、住民からのクレームに敏感なんだぞ」
「あいつ、あのレストランと同じ匂いがしたね」
「はあ?」
量子はバカにしたように灰原を見た。暑さで一つひとつのことにイライラする。灰原はイライラを発散させるかのように思い切り車の扉を締めた。量子が助手席に乗ると、シートベルトもしないうちから乱暴に車を発進させる。
「もっと優しく運転してよ。今度は車の中に吐くからね」
量子はまた吐き気が戻ってきたように感じた。灰原はその言葉を無視する。
「常連客同士が殺し合ったらしい」
「ええ? だって、昨日はあんなに静かだったじゃない」
「殺人事件は今日だからな。昨日はまだ事件が起きていなかったんだろうよ」
「でも、ゴミ箱から死体が出たんだよね?」
「死体の一部な」
「なんでゴミ箱から?」
「殺し合った客を片付けるのに捨てたと、店員が供述したらしい」
「そんなバカな。事件を隠蔽しようとしたってこと?」
「さあな。でも、実際、殺し合った客のDNAと一致したらしい」
「隠蔽しようとしたと仮定して、それをそのままゴミ箱に捨てる?」
「まあ……好意的に解釈すれば、飲食店だし衛生的にそのままにしておけなかったんだろう」
「もしくは、証拠隠滅ってこと」
量子が灰原の言葉をついだ。灰原は頷く。
「そんな感じじゃなかったのになあ」
昨日見た店内を思い出す。人が殺し合うような場所には思えない。とはいえ、あの迷惑女や全身傷だらけのギャルソンがいるのだ。おかしなことが起こっても不思議はない。しかし、どう思い出してみても、あのギャルソンがサトーだとは思えなかった。店の中は暗いし顔もよく見えなかったけれど、あんなに健康的な雰囲気の少女ではなかったはずだ。
「それで、お客さん同士が殺し合ったってこと? 素手で?」
「いや、店のカトラリーを使ったらしい。それがな……」
灰原が言葉を切って顔を顰める。言うかどうか逡巡しているような顔だ。
「なに? 早く言ってよ」
「今度は吐くなよ?」
灰原が念を押すように言った。
「もうさっきので全部出ちゃったよ。それに、これ以上のインパクトなんてないと思う」
量子が自信ありげに言うが、灰原は口を開かなかった。
「何よ、信用してないわけ?」
量子が灰原を睨みつける。灰原はおもむろに窓を開けてから言った。
「フォークでお互いの目玉を抉り合ったらしい」
その言葉を聞いて、量子がえづいた。しかし、すんでのところで吐瀉は我慢した。
「うええ。何それ……」
「それだけじゃないんだ」
「まだあるの? 勘弁してよ、もう」
「先に死んだ方の脳を、もう一方の相手が食ったらしい」
そこまで聞いて、再び量子は嘔吐した。今度は間に合わず車の中で吐いてしまった。幸いだったのは、先程吐いた分で、元々胃の中に残っていたものはほとんど吐いていたので、2度目の嘔吐は量が少なかったことだ。
「何よそれぇ……」
量子は涙目になった。
あまりにも猟奇的すぎて、灰原は信じられなかった。まだ現場を見ていないので、誰かが大げさに言っていると思っていた。
信号が赤になった。灰原は後部座席に転がっていたタオルを掴むと量子に投げつけた。量子は言葉を発する気力もなかった。
「なんでそんなこと……」
「それを調べるんだよ」
「そんなの、捜査一課の仕事じゃん」
——殺しは一課。それが警察の常識だ。その常識をすっ飛ばしてオカルト課に直送されてきた時点で、答えは出ているようなものだった。誰も触りたくないのだ、この事件に。
「それが、どうもその事件が起こる前、それぞれの連れが黒い花がどうのこうのって言ってるのを聞いたらしい」
「量子花弁?」
灰原は頷く。
「おそらくな。それに、手口から言って、これは単純な殺人事件じゃない。おそらく、また操られていたに違いない」
「だから、面倒になる前に押し付けられたんだね」
量子がイタズラっぽく言った。灰原はムッとして乱暴に車を発進させた。量子ではなく、警備局長の顔を思い出して怒りがぶり返したのだ。先程の電話でも、さも簡単なことのように事件の捜査を押し付けてきた。彼にとって、クォンタム犯罪は警察が本腰を入れて取り組むものではないと言うことだ。そうやって軽んじられていることに腹が立った。無意識に機械脳である方の頭に爪を立てた。




