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レストランへ行った次の日、朝からやけに静かだった。むしろ、そういう日こそ凶悪な事件が起こるものだ。灰原の予感が当たったのは、もう定時を過ぎた頃だった。
だが、狂い始めたのは、その半日も前からだった。夏は日が長い。うっかりしていると、知らないうちに時間が経っている。ル・セルヴォ・ノワールを調べろという警備局長のメールも、何を調べれば良いのかわからないし、やる気が起きない。
灰原はまだ昨日の料理の影響が残っていて頭がぼんやりしていたが、それが料理のせいだとは気付いていなかった。眠気覚ましにコーヒーでも飲もうと思って立ち上がった瞬間、足がふらついた。
——一体何だ。
灰原の屈強な体は、これまで貧血のような症状を起こしたことがないはずだった。これも、機械脳のせいだろうか。昨日の料理を食べてからどうもおかしい。
灰原はコーヒーメーカーのボタンを押すと、ストレッチをした。いつもならコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐるはずだが、今日は焦げ臭いような気がした。出来上がったコーヒーを口にすると、灰原は「なんだこれ」と言って吐き出した。泥水のような味がした。コーヒーの粉が古くなっているに違いない。だから香りもおかしかったのだ。
「なんだよ、まったく」
誰もいない部屋で灰原がひとりごちた。ちょうど昼休みだ。コンビニに弁当を買いに行くついでに缶コーヒーでも買えば良い。
灰原は乱暴に財布を手に取ると、ズボンのポケットにねじ込んで外へ出た。部屋の中の快適な室温と違って、容赦のない熱気が肌を焼いた。街はいつもと違って見えた。言葉には出来ない違和感のようなものがあった。やけに生々しい夢を見ているようだ。この匂い、どこかで嗅いだような気がした。
——あれだ。海馬のカルパッチョだ。
昨日食べたレストランの料理の匂いがフラッシュバックした。無意識に涎が垂れてくる。腹が鳴った。
灰原は足早に買い物を済ませると、コンビニを出た。腹が減って仕方がなかった。
コンビニから戻ると、灰原はすぐに弁当を電子レンジに放り込んでボタンを押した。腹が鳴る。
「灰原さん、コンビニ行ってたの。お土産は?」
量子が来ていた。しかし、腹が減りすぎて、それどころではない。灰原が無視したことで、量子が不機嫌な顔をした。
袋の中から缶コーヒーを取り出す。腹も減っているが喉も乾いている。焦ってプルタブを起こそうとするがうまく開けられない。ようやく空いたのでかぶりつくようにコーヒーに口をつけた。その様子を、量子は怪訝な顔で見ていた。
「うわ、なんだこれ」
先ほど飲んだコーヒーと同じ味がした。つまり泥水だ。ハズレを引いたのだろうか。いや、でもいつも飲んでいる商品だ。異物でも混入しているのだろうか。
空腹が抑えられない。電子レンジを見ると、まだ温め終わっていなかったが、我慢できずに扉を開けた。中途半端な温もりを手に感じる。包装を剥ぎ取って、手づかみで食べた。
「え、ちょっとちょっと、大丈夫? 何してるの?」
こんなワイルドな灰原の姿を、量子は初めて見たので慌てた。狐憑きになったのかと思ったほどだ。
「おえっ」
灰原は弁当を床に吐き出した。味が全く感じられなかった。砂を噛んでいるような食感である。
——どうしちまったんだ、俺は。おかしくなったのか?
「え、本当に大丈夫……?」
量子が心配するのを横目に、ふらついた足取りで灰原は手洗いを目指した。
蛇口から流れ出る水で口をすすいだが、その無機質な液体すら鉄錆のような味がした。灰原はせり上がる不快感を喉の奥へ押し戻しながら、無意識のうちに機械化された左脳の側壁を、指先でトントンと叩いていた。
頭蓋を削り取り埋め込まれた、カーボンナノチューブのヒートシンク。その迷宮のようなスリットの奥底で、Memory-Xが粘り気のある泡音を立てている。排熱孔から立ち昇る蒸気にはいつものケミカルな臭いは欠片もなく、焦げ付いたカラメルのような甘ったるい異臭がまとわりつく。
そうして、味のない一日が暮れた。窓の外はまだ明るいのに、時計の針だけが定時を過ぎている。
デスクの電話が鳴った。灰原はデスクまで這ってゆくと、受話器を取り上げた。すると、すぐに緊迫した声が聞こえてきた。
「なんですって?」
量子は電話の声を意識的に聞かないようにしていたが、灰原が大声を出したので驚いて振り返った。受話器を持ったままの灰原と目が合う。
「はい、はい……急行します」
灰原はフックスイッチを手で押してから受話器を下ろすと、信じられないようなものを見るような顔で量子を見た。
「おい、今日は残業だ。あのレストランで事件が起きた」
「え、レストランって……」
「る、る、るせゔぉ……」
「ル・セルヴォ・ノワール」
「ああ、鬱陶しい。そこだ。行くぞ」




