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外はもう夏が間近に迫っていて、特に今日はまだ夏前だというのに直射日光が肌を焦がすようだった。下からもアスファルトが反射した熱が容赦なく攻撃してくる。まだ湿度がそれほど高くないのが救いだったが、それでも半袖のワイシャツに汗をかいていた。
「おじさんの汗は臭いから離れて歩いて」
量子が鼻をつまみながら、追い払うように手を振る。彼女はフリルの付いた日傘を差しており、涼しげな服装をしていた。自分と違ってスーツではないのが、灰原は羨ましかった。
レストランに到着すると、『Close』の看板が出ていた。
「ほら、何かの間違いだったんじゃないか。間違い電話とか」
「そんなはずないよ」
量子は構わず入り口に手をかける。扉はスムーズに開いた。
「ほら、開いてる」
そういうと、量子は店の中へ飛び込むように侵入した。量子に続いて戸口の境界線を跨いだ瞬間、熱気は遠い残像になった。底に冷たさをもつ、青いそらのような空気。灰原は思わず息を呑んだ。この店だけが、世界から隔絶された空間のように感じた。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは黒服のギャルソンだった。スラリと背が高く、少年のような声をしていたが女性だろう。どこかで聞いたような声だ。随分若そうだが、マスクのおかげで顔はよく見えなかった。首筋など少しだけ見える部分から病的なほど痩せているように感じるが、服の生地の質感や、ギャルソンエプロンのおかげでうまく体のラインが隠れている。とはいえ、彼女の服装には違和感を覚えた。店の中は冷房が効いていて、生き返るように涼しかったが、彼女は少しも肌を見せないように、長袖のシャツに手袋を着用していたからだ。マスクから見える目元が異様に白い。彼女をみて、映画で見た吸血鬼を想起した。店の中が暗いのもホラー映画のようだ。
「どうぞ。足元が暗いので気をつけて」
ギャルソンが量子の手を取って案内する。量子は驚いたようだが、嫌がっている様子はなく、むしろ頬を赤らめていた。風営法、という言葉が頭に浮かんだが、頭を振って打ち消した。
店の中は薄暗く、間接照明だけが照らされていた。案内された席は店の真ん中で、他のテーブルに客はいなかった。
「今って営業中なんですか?」
灰原が尋ねる。ギャルソンが灰原に微笑んだ。
「この時間にお招きするのは、特別なお客様だけです」
「特別って……俺たち、別にここの常連ってわけではないし」
そういうと、ギャルソンが量子の鞄を指差した。
「招待状をお持ちと聞いています」
「招待状?」
灰原と量子は顔を見合わせて首を捻った。直後、量子はあっという顔をして、鞄から封筒を取り出した。それは、あの日病院の地下で拾ったものだった。それを見せると、ギャルソンは頷いて、その招待状を鞄に戻すように指示した。
「大切なものなので、失くさないように」
言われなくてもわかっていることだが、量子はぎゅっと鞄の紐を掴んだ。体から離したくなかったから預けることはしなかった。
一度奥へ引っ込んだギャルソンが、今度は飲み物の瓶を持って戻ってきた。
「メニューは? 酒なんて頼んでないぞ」
灰原が批判めいた口調で言うと、ギャルソンはふふふと笑った。
「ご招待コースは内容が決まっております」
「高いんじゃないだろうな?」
「ちょっと、やめなよ。恥ずかしい」
疑うような灰原の肩を量子が殴った。
「なんでだよ。頼んでもないもん食わされて、ぼったくられたら嫌だろ」
二人のじゃれあいにギャルソンは再びふふふと笑った。
「お代は要りません。ご招待ですから」
その言葉に、今度は灰原は顔を赤らめた。照れ隠しに注がれたばかりのシャンパンを一気飲みする。
「いい店だな。この酒もうまい」
「職務中だから飲めないって言ってなかった?」
量子に突っ込まれて灰原は「あっ」という顔をした。その顔が間抜けすぎて、量子は笑いが止まらなくなってしまった。
酒を一気に煽ったせいか、灰原はクラっときた。最近酒を飲んでいなかったとはいえ、あれだけの量で酔ってしまうとは情けなかった。
無料と聞いて灰原が馬鹿みたいに酒を煽るものだから、量子は恥ずかしくなった。
「ねえ、もうやめなよ」
まだ前菜も来ていないのに、灰原はボトルを空けるほど飲んでいた。いつもの彼らしくない。
「本日ご提供させていただきますのは、記憶のフルコースでございます。まず、前菜に海馬のカルパッチョです」
記憶のフルコース——院長の意識の中で聞いた言葉だ。そして、五年前にもサトーの意識の中で見た。
五年前にもサトーの意識の中で——ハッとして量子は顔を上げた。ギャルソンはサトーだ。驚いて灰原のその事実を伝えようと思ったが、彼はすでに酔っ払っており、話しどころではなかった。
サトーがニコリと微笑む。あの病院の時の様子とは全く違った。人はここまで変わるものなのか。服装とマスクのせいですっかり騙された。
まあいい。彼女が何者だろうと、今日は食事をしに来たのだ。記憶のフルコースの実物を見るのは初めてだ。楽しみにしていたのだ。
配膳されるなり、灰原が口いっぱいに頬張って「うまい」と唸った。マナーも何もない様子に、量子は恥ずかしくなったが、他に客がいないのが幸いだった。
「海馬ってなんだ? 馬の種類かな」
海馬が脳の一部であることを知ったら、灰原はどう思うだろうかと考えながら美味しそうに頬張る姿を、量子は眺めていた。
「お前は食わないのか」
灰原がカルパッチョを口に含んだまま、フォークで量子の皿をさす。すでに灰原の皿は空になっていた。海馬のカルパッチョと聞いて、まさかこれが本当に海馬のはずはないと思っているが、それでも意識の中の世界のことが気になってしまう。
「行儀が悪いからやめてよ」
量子は手を振ってそれをやめさせた。
「なんだよ、お前が来たがったのに」
灰原がむすっとした顔で口の中に入ったままのカルパッチョを飲み込んだ。灰原を見て、悩んでいる自分がバカみたいに思えた。量子も一口含んでみた。ちょうど良い塩気と、滑らかな舌触りが新鮮だった。瞬間、頭の中で何かが弾けたような感覚があった。
瞬間、世界が急に色づいたように感じた。数秒前までの自分は色褪せた世界にいて、今初めて色を見たような感動。見下ろしてみると、料理が先ほどまでと違って見えた。皿の上には、透明感のある薄切りの食材が美しく盛り付けられており、特に花びらのように並べられていた。一枚一枚、絹のように薄く透き通る身は、淡い桃色に染まり、そのはかなさがかえって官能的な輝きを放っている。まるで白磁の肌にそっと舞い降りた桜の花びら、あるいは明け方の空に漂う薄雲のようだ。光を宿してきらめく表面には、微かに施された飾りが星屑のように瞬き、見る者の心を惹きつける。中央に寄せられた身は、幾重にも重なり合い、蕾から今まさに開かんとする一輪の薔薇を思わせる。その優美な螺旋は、生命の息吹と繊細な技巧が織りなす芸術であり、視覚だけでなく、触れることのできない柔らかな感触までもが伝わってくるようだ。周囲に広がる身は、さざ波のように緩やかにうねり、やがて来るべき美味の予感を広げている。皿の白さが食材の清らかさを際立たせ、この一皿がもたらすであろう至福のひとときを静かに語りかけてくる。
一口食べただけなのに、賛辞の言葉が洪水のように頭に溢れてくる。そうして、口に運ぶ手が止まらない。あれだけ灰原のことを蔑んだことも忘れて、量子は口いっぱいにカルパッチョを頬張った。
これは、ただの料理ではない。五感を揺さぶる高貴な芸術。口に運べば、きっと淡雪のようにとろけ、春の霞のような余韻を残す。意識の中に言葉が広がり、みたこともないような風景が脳裡に映し出された。そうか、これが記憶のフルコースなんだ。誰のものかわからない記憶のようなものを体験できる。それが人気の秘密なんだ。
黒い水が満ちるように、誰かの幸福な記憶が流れ込んでくる。
──これは自分の記憶ではない。
そうわかっているのに、涙が出た。




