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車の中で、灰原は不機嫌を隠そうともしなかった。
「まだ事件の報告書だって書き上がってないんだ。上からせっつかれてるんだからな」
ぶつぶつと文句を言うが量子は聞き流した。彼の説教はいつものことだ。
病院につくと、警備員はやる気を失っており、灰原を見ると手をひらひらとふった。
量子は車を降りて勝手に病院へ入ろうとする。灰原がその後ろを追いかけた。
「いい加減、教えてくれても良いんじゃないか。言っておくけどなあ、俺はお前の上司なんだぞ。ここに入るのだって、所轄の許可を取るのが大変だったんだぞ」
「話せば、あのジジイに筒抜けになる」
量子は振り返らずに言った。
病院に入ると、看護師や職員たちが忙しそうにしており、誰も量子たちのことなど気にするものはいなかった。休業に際して彼らがやらねばならないことは二、三日の残業ではどうにもできないほどの仕事量なのだろう。案内図を見ると、地下への階段は表示されていない。外来に案内するような場所ではないということだろう。そうなると、バックヤードから降りるしかない。
バックヤードに入ると、シンとしていた。突き当りに簡素なエレベータがあり、呼び出すと地下へのボタンがあった。
「地下なんてあるのか。よく知っていたな」
エレベータはガタガタ揺れて乗り心地が悪かった。患者用のエレベータはもう少しマシなはずだろうが、表では階段ばかり使ってエレベータは乗らなかったことに気付いた。
エレベータが地下に到着すると、ぎこちない動きで扉が開いた。地下は薄暗く、院長の意識の中の罠を思い起こさせた。だからだろう、量子は足を踏み出すのをためらった。
「どうした? 降りないのか?」
先に降りた灰原が量子を振り返る。
「降りるわよ」
不貞腐れたように言うと、思い切ってジャンプした。床はたしかにあり、崩落する予感はなかった。それだけでもホッとした。
「ここに、なにか手がかりがあるみたい」
「あるみたい、ってお前な……」
呆れたように灰原が振り返る。そう言われるのはわかっていた。自分だって、もし逆の立場だったらバカにしていたに違いない。
「だって、そう言われただけだもん」
「誰に?」
「わかんない……」
「わかんないって……お前……」
これみよがしに大きなため息をつくと、灰原は面倒くさそうに廊下の先をみた。文句は言うが、量子を疑っているわけではなさそうだった。彼女がどれだけ過酷なのか、前任者だからわかっているのだろう。他人の意識の中で知覚できることは、言葉に表すことも難しい。
「じゃあ、どういうものかってことくらいはわかるだろ?」
「それもわかんない……」
さすがの灰原も絶句した。こう言ったら、絶対に来てくれないと思ったから言いたくなかったのだ。
「でも、でも、絶対手がかりになると思う」
「何を根拠に」
自分でも半信半疑だった。しかし、これ以上呆れられたくなくて話を大げさに言ってしまった。
「それはもちろん量子汚染症のだよ。ほら、この病院から二人も出たわけじゃん。それに、飛び降りた患者だって……」
量子は言葉を止めた。まだ、迷宮の話はしていなかったからだ。
「飛び降りた患者がなんだって?」
「ま、まあほら。何かあるはず」
「まあな。二人の意識に入ったのはお前だけだからな。そこで見たのなら、何かあるんだろうよ。さっさと探すぞ」
灰原は面倒くさそうに廊下を進んだ。
地下は地上と違って、部屋がいくつもあるわけではなく、まっすぐな廊下に二部屋、突き当りを右に曲がった先に一部屋あるだけだった。最初の二部屋は消耗品の備蓄が積まれており、埃っぽかった。
残りは一部屋だ。
——これで何もなかったら、あのペストマスク野郎を逮捕してやる。
量子は手錠を持たされていないし、もちろん逮捕状を請求することも出来ない。
最後の部屋にたどり着くと、手前の二部屋に比べて物々しいセキュリティを抱えていて、量子と灰原は顔を見合わせた。こんなにボロい地下に似つかわしくないセキュリティシステムだった。
「おいおい、これも聞いてたのか?」
灰原が扉を叩いた。頑丈そうな手応えで、壊せそうになかった。
扉の横には網膜認証システムのためのカメラが埋め込まれていた。網膜スキャンのためにどこに何秒立てば良いかなどの注意が貼られていた。灰原がおもむろに自分の目を近づける。当然のごとくエラー音が鳴った。
「まあそうだよな」
灰原は自嘲気味に笑った。
「だったらやめときなさいよ。警備員が来るかもしれないじゃない」
「来たっていいだろ。俺達は警察なんだし、追い出されようともう調べる場所はないんだから。やらなきゃ損だぜ。お前もやってみろよ」
そう言って、灰原が量子をカメラの前に突き出した。量子は渋々左目をカメラの前に出すと、すぐにエラー音が鳴る。
「当たり前じゃん」
顔を赤らめて量子が怒った。
「しゃあねえか。さ、帰ろうぜ」
灰原が諦めたように頭の後ろで手を組んだ。来た道を戻り始める。
しかし、なぜあのペストマスクの男は量子をわざわざこんなところに送り込んだのだろう。意味がないとは思えなかった。そう考えたとき、ふと思い当たることがあって、試してみることにした。
システムに承認されて、扉が開く音で、灰原が驚いて振り返った。
「え? 何した?」
量子がカメラから右目を離した。思った通り、電子化された『観測者の右目』なら承認された。それは網膜の模様を読んでいるのではない。その奥の、量子化してしまった層を読んでいるのだ。誰であるかではなく、何であるかを問う鍵。あのペストマスクの男が言っていた「本当の観測者」とは、そういうことだったのだ。
「私は招かれた客ってことよ」
「招かれざるではなくて?」
開いた扉から中に入ると、中は静かだった。何に使うのかわからない、タンスみたいな機械が整然と並んでいた。部屋に入るとすぐ目の前の机の上に封筒を立てかけられるサイズのスタンドがあり、封筒が一封立てかけられていた。封筒には「Memory-Xは観測者への招待状です」と書かれていた。署名を見て量子が目を見開いた。
『Dr. Argon』
その名前を見た瞬間、封筒を持つ手に力が入った。封筒がグシャリと曲がったので、灰原が慌ててたしなめた。やはりアルゴン博士が白マスクなのか。どうして、アルゴン博士は量子がここに来ることを知っていたのだろう。もしかして、あのふざけたペストマスク野郎がアルゴン博士なのか。もしそうなら、間抜けな自分に腹が立つ。敵が自分をおちょくっていたのだ。
ただ、あのペストマスクの男を見ても、あの記憶の中の白マスクと同一人物だと思えなかった。
封筒を傾けると、中からコロリとMemory-Xの小瓶が現れた。それを見た瞬間、右目が痛んだ。
量子が悲鳴を上げると、灰原が慌てて駆け寄ってきた。
「どうした。攻撃されたのか?」
あまりの激痛に、返事ができない。パニック発作のように、呼吸がうまくできなくなった。痛みの合間に、右目が量子花弁を投影する。黒百合町の実家、血まみれの両親、白マスク——次々に場面が浮かぶ。
映像が見えなくなると、右目の痛みもおさまった。右目から血の涙が流れる。
「おいおい、大丈夫かよ」
灰原が心配そうに覗き込む。ポケットからくしゃくしゃのハンカチを出して、量子の血を拭った。汚くて嫌だったけれど、抵抗する元気もなかった。
「これ、Memory-Xじゃねえか。どうしてここに? 九条博士がここにいたってことか?」
「戻ろう」
量子が言うと、灰原は彼女に肩を貸した。外に出るとき、スタッフが奇異の目で見ていたが、声をかけては来なかった。なぜなら、受付であの迷惑女がまた騒いでいたからだ。まだ諦めてなかったのか。一瞬良いやつかと思ったが、迷惑女はやっぱり迷惑女だった。
帰りの車の中で、量子の右目が突然発光した。さらに、首筋のニューロンコネクタから黒い芽が発芽した。




