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メンタル・ポルノ 量子的食脳  作者: よねり
第2章「特別捜査官」

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 量子は眠かった。だが、屋上を早々に離れたのはそれだけではない。あの女と一緒にいたくなかったからだ。お人好しな灰原は彼女を受け入れるだろうが、量子は無理だった。女だからこそ、女のことがわかる。あの女は危険だ。彼女との付き合いはデメリットになる。男はなぜそういう損得が計算できないのだろう。ちょっと胸が大きいくらいで鼻を伸ばして、みっともない。

 屋上から二階に降りて食堂を通り抜けると病室だ。灰原とは別に臨時職員用のキーカードを預かっていたからある程度は好きに歩き回れる。病室に空室があることは事前に院長に聞いて知っていた。そのうちの一つに忍び込む。その部屋にはベッドフレームにマットレスしかなかったが、それで良い。快適過ぎたら起きられなくなる。携帯電話でアラームをセットすると、量子は頭の下に腕を組んで寝転がった。寝心地は良くも悪くもない。

 化粧を落としてから寝ないとな、と思ったが化粧落としを持ってくるのを忘れた。それに、化粧し直すのも面倒だ。このまま寝てしまおう。

 今日は疲れた。ウトウトし始める。ああ、このまま眠りに落ちるな、というふわふわした感覚。覚醒と睡眠の半ば。心地よい船出のとき。その最中、不意に首筋が熱くなるのを感じた。この感覚は他人の意識に入り込むときの感覚に似ている。なぜだろう。今はマシンと接続しているわけでもないのに。

 確かめようと思ったが、体に力が入らない。まるで金縛りだ。脳だけ起きて体が置いていかれる、あれ。落ち着け、ただの生理現象——そう自分に言い聞かせながら呼吸する。

 目が開いた。いや、目が開いたという夢を見ているだけかもしれない。どちらにせよ、目にうつっているのは病室の天井である。しかし視界がおかしい。どうも右目しか見えていないようだ。

 なにか不快な音がした。相変わらず首は動かないので目玉だけ動かして確認しようとする。どうやら、音は病室の隅の方から聞こえているらしい。目を凝らしてみると、何かが動いている。白い——患者服の女だ。女が天井を這っている。

 サトーの言葉を思い出す。天井で首を吊っている女。あれがそうなのだろうか。女はゆっくりと量子の寝ている方へ這ってくる。首が動かせないので顔を見ることができない。女は量子の真上まで来ると動きを止めた。何をする気だろうと思った瞬間、女の足が降ってきた。いや、首を吊ったのだ。足が鼻先をかすめる。さらに、上から黒い花びらが降ってきた。

 ——量子花弁だ。

 つまり、これは夢に違いない。

「りょうこ」

 吊り下げられた女から声がする。姉の声だ。

「お姉ちゃん!」

 声は出ない。

「私たちは実験体……でも、鏡の表裏なのよ」

「どういう意味?」

 眼の前の空間に巨大な砂時計が現れた。ゆっくりと逆さまになる。完全に逆さまになると、場面が変わって幼少期の栞が目の前に立っていた。

「お姉ちゃん。お姉ちゃんなのね」

 声をかけたいのに、声が出ない。駆け寄りたいのに体が動かない。

 姉の栞は量子に微笑みかける。

「私たちは実験体……でも、鏡の表裏なのよ」

 再び同じことを言う。

「お姉ちゃん!」


 量子は勢いよく体を起こした。思いの外大きい声が出て驚いた。部屋中を見回してみても、首を吊った女も砂時計も栞もいなかった。夢だったのだ。今が現実である証拠に、先程まで右目しか見えていなかったのに両目が見えている。

 どこから——?

 右腕になにかの感触があった。見ると、点滴が繋がれていた。

 ギャッと叫んで無理やり点滴の針を抜く。針の跡から血が流れてマットレスを汚した。

 枕元のアラームが鳴る。三時間経ったのか。

 一体、いつの間に点滴を刺されていたのだろう。全く気が付かなかった。薬剤を見ると、灰原が持ってきたあの点滴バッグと同じものだった。なぜ起きなかったのだろう。誰が投与したのか。

 いや、探すまでもない。量子がここにいると知っているのはあの男だけだ。

 量子は部屋を飛び出すと、院長室に駆け込んだ。院長は椅子に座ってうたた寝していたが驚いて飛び上がった。

「な、なんだねノックもせずに」

「良い度胸じゃん。これ、やったのあんただろ」

 点滴バッグを投げつける。答えを聞かなくてもわかるくらい青ざめた顔で、院長は量子を見返した。

「ち、ちがうんだ」

「何が違うの?」

 院長を睨みつける。

「黒い花が……黒い花の匂いがしたんだ……」

「はあ? なにそれ」

「匂いがしたと思ったら衝動が抑えきれなくなって……ああ!」

 院長は立ち上がると量子に向かって突っ込んできた。彼の太った体で思い切りタックルを食らって、量子は一瞬呼吸ができなくなった。その間に、院長は部屋を出て行った。

 まずい、屋上へ行く気だ——。

 量子もあとを追いかけようとするが、体にうまく力が入らない。ようやく力が戻ったときには院長の姿は見えなくなっていた。慌てて屋上への階段を登る。慌てなくても、屋上には灰原がいるはずだ。彼が取り押さえてくれているはず。

 屋上への扉を開くと、灰原が驚いた顔でこちらを向いた。隣にはあの女が一緒だった。なぜだかイラッとした。

「なあにイチャツイてんだよぉ、おっさん。院長が来たでしょ? 捕まえた?」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔のまま、灰原は屋上に視線を巡らせた。

「いや、来ていないが」

「はあ? 嘘でしょ?」

 しまった。先入観でここだと思い込んでいた。別のところから飛び降りることだってできるだろうし、飛び降りなくても彼なら医療機器で自殺を図ることもできる。

「もう、バカ、ハゲ、クソジジイ」

 そう言うと、量子は飛ぶように階段を降りてゆく。二階まで降りたところで、大きな音がした。音のした方へ走ると、処置室と書かれた扉が開かれていた。

 量子が処置室に飛び込む。

「やめろ、この」

 院長が何者かと揉み合っていた。近づくと、あの警官だった。

「おいてください、院長。死んじゃ駄目です」

 院長が持っていたのは手術用のメスだった。精神病院なのにメスが必要なのかと思ったが、以前はここは総合病院だったことを思い出した。

 警官が力負けして、部屋の反対まで吹き飛ばされた。人間とは思えない力だった。量子も院長に組み付くが、すぐに吹き飛ばされた。

 院長がメスを持って近付いてくる。

 もうだめだ——思った瞬間、迷惑女が入ってきて院長にタックルした。あの豊満な肉体で躊躇なく体当たりしたものだから、今度は院長が吹っ飛んでゆく。院長が手からメスを取り落とした。

「手錠! 早く!」

 弾かれたように警官が起き上がって、手錠を腰のホルダーから取り出して院長の後ろ手に嵌めた。それでも院長は落ち着くことなく、白目をむいて獣のような声で叫んだ。なにかに取り憑かれたようだった。

 宿直の看護師が騒ぎを聞きつけてやってきた。事情を説明すると、鎮静剤を院長に注射した。きっと、暴れる患者が多いのだろう、慣れた手つきだった。院長はすぐに大人しくなった。

「助かったわ。ありがとう」

 量子が迷惑女に礼を言うと、女はフンッと鼻を鳴らして量子を見下ろした。それにイラッとして、いつの間にか駆けつけていた灰原に八つ当たりをした。

「もう、本当に使えないわね、エロジジイ」

「え、エロジジイって……悪かったな使えなくて」

 灰原はムスッとした顔で院長の顔を覗き込んだ。

「今日は尋問は無理だな。署に連れて帰ろう。それにしても……」

 灰原が警官を振り返る。

「どうしてここに?」

 尋ねると、警官は立ち上がって綺麗な敬礼をした。

「新たな被害者が出ないように見張っておりました!」

 手柄に飢えた顔だ。刑事になりたての頃の自分を見ているようで、灰原は強く叱れなかった。

「独断だろ。いくら手柄がほしいからって、ほどほどにしとけよ」

「はいっ」

 元気の良い返事だ。

「君のことはちゃんと伝えておくから」

「ありがとうございます」

 耳が痛くなるほどの大声だった。

「はあ。それにしても、よかった。今日はこれでゆっくり休めるな」

「何言ってんのよ。これからじゃない」

「え?」

「こいつの意識に潜るのよ」

 あっという顔をして、灰原は院長と量子を交互に見る。

「ほんとに馬鹿ね」

 量子がため息をついた。


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