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「嘘でしょ……」
現実世界に戻った量子を待っていたのは、昏睡状態の鏡百合だった。
「だって、彼女は自分でここにきて……」
九条博士が眉間にシワを寄せて頷いた。
「まさか、あの薬……」
灰原が慌てて彼女の飲んでいた薬を探す。
「そうだねえ。その薬かもしれないし、まあ、他に考えられるとしたら、誰かに時限爆弾を仕掛けられたってことだねえ」
「時限爆弾?」
「この装置のことを知っていて、我々が彼女を調べたら発現するようにしておいたんだ」
「そんな器用なことできるの?」
「さあね。量子花弁のことだってよくわかっていないんだ。そういう性質があるってことだろう」
「じゃあ、天才のあんたよりも頭が良いってことだ。あんたにもわからないんだもんね」
挑発的に言うと、九条博士がジロリと量子を睨みつけ、量子の首を捕まえた。そのまま壁に押し付け、臭い息がかかるまで顔を近づけた。
「ふざけるなよ、小娘、この私を超える天才など存在し得ない」
反論したかったが、強く押さえつけられて声が出せない。引き剥がそうにも、びくともしなかった。喉が潰れそうだ。
「博士!」
灰原が割って入る。あの灰原をもってしても、九条博士を引き剥がすのに苦労していた。どうしてこんな骨と皮だけの老人にこんな力があるのかわからない。
「おちついて、博士」
九条博士は獣のように歯をむき出しにして量子を威嚇する。二倍くらい体の厚みが違う灰原が、やっとのことで量子から九条博士を引き剥がす。その光景は異様だった。量子は咳き込みながら必死に呼吸をした。
「お前はちょっと向こうへ行ってろ」
灰原が叫ぶ。ガタイのいい彼が押さえつけるのに必死だ。量子はふらつきながら部屋の外へ出た。
コンソールルームを出ると、鏡百合が担架で運ばれてゆくところだった。彼女は量子汚染症だ。姉と同じ病院に運ばれることになる。ついでに彼女の荷物から見つけた薬を一緒に渡す。成分を分析すれば、量子汚染症の原因がわかるかもしれない。
「さっきは意識世界で量子花弁を見たんだろ?」
部屋から灰原が出てきた。
「ええ。モニタからは見えなかったの?」
「見えなかった。お前がおかしくなったのかと思ったよ」
「ぶっ飛ばすよ?」
量子が灰原を殴る真似をする。喉の痛みで声がかれてうまく発音できなかった。
「でも、どうして、モニタに映らなかったんだろう」
「それもそうだし、今回はイレギュラーが多すぎる。犯人は俺達の一歩も二歩も前を行っている」
「それ、九条博士の前で言ってみなよ」
「やめてくれ」
灰原がうんざりした顔で手を降る。
部屋に戻ると、九条博士が難しい顔でモニタを見ていた。先程の意識世界の録画だ。怒りは収まったようだ。彼の怒りは瞬間沸騰するが、収まるのも早い。
「君はここに量子花弁があるって言っていたねえ」
九条博士がモニタから目を離さずに言う。
「ええ。いつの間にか目の前に花が咲いていて、それを回収しようと思ったんだけどできなかった」
「ふうむ」
九条博士がため息混じりに顎に手を当てる。なにかつぶやきながら、部屋中を歩き回る。先程の狂犬病のような彼とは別人のように落ち着いていた。彼のことを知らなければ、なにか違法薬物でもやっているのではないかと思うだろう。
コンソールにメールの通知が表示された。
「君たちが持ってきた点滴バッグの分析が終わったみたいだぞ。これは、ううむ。普通だね。何の変哲もないただの点滴だ」
一瞬、なんのことかわからなかった。意識世界の点滴バッグを思い出した。
「俺が持ってきたんだ。少女に打たれた点滴だ」
「それって、中に量子花弁の粒子が入ってなかった?」
量子が勢い込んでモニタを覗き込む。
「はあ? 君は馬鹿か? ああ、馬鹿だったな。量子花弁が現実世界に存在できるはずないだろう」
九条博士が馬鹿にしたように笑う。しかし、すぐに真顔になる。
「いや、そうでもないか。我々の次元からは観測できないだけで、我々より上位の存在ならばあるいは」
彼の意識は内にこもってしまった。こうなってしまっては、話しかけても、焼きごてを押し付けたって気付かないだろう。
「点滴は空振りだったか」
「そうみたいね。飲み薬の方からなにか出れば良いけど」
がっかりだ。意識世界の情報なんて、本当に当てになるのだろうか。だいたい、意識世界ってなんなんだろう。そんな得体のしれないものに潜って本当に大丈夫なのだろうか。今更恐ろしくなってきた。
「次は何をしたら良い?」
「決まっているだろう。片っ端から捕まえてきて、装置にかけるんだよぉ」
九条博士が大声を上げる。量子と灰原は顔を見合わせた。
「それはまだいいでしょう。俺達がもう一度探ってきますから」
「そんな事したって無駄だよ。手っ取り早くねぇ……」
「まあまあ。さあ、行きましょう灰原さん」
量子が灰原の背中を押して部屋から飛び出す。これ以上、九条博士に付き合っていると呑まれてしまいそうだ。
「結局振り出しか」
「手がかりがなくなっちゃったんだから、振り出しより悪いわよ」
助手席で量子がため息をつく。
「とりあえず、スタート地点に戻ろう。現場百遍だ」
灰原が言うと、量子はうんざりした顔を窓の外へ向けた。熱血は性に合わない。とはいえ、量子にも反論できるほどのアイデアもない。
すでに夜になっていた。表の門は閉められている。すでにマスコミや野次馬も姿を消し、静寂に包まれている。門の前の警備室では、警備の人間も変わっていなかった。灰原を見ると、疲れた顔でため息をついた。
「まだなにか調べるんですか?」
歓迎されていないのはすぐにわかった。
「すまんな」
本当に申し訳無さそうに言うのを見て、彼は刑事には向かないなと量子は思った。見た目はいかついのだから、もっと高圧的にすればよいのだ。警察ってそういうものだろう。
「だったら、あの女に早く帰れって言ってくださいよ。ずっと居座って」
あの女と聞いて嫌な予感がしたが、朝見た通りのまま赤いスポーツカーがあったので察した。
病院の中はシンとしていた。正面玄関は閉まっていたので、従業員入口から侵入した。
ロビーを通ると、ソファの上でいびきをかいている女を見つけた。眠っているはずなのに、片手からワインの瓶を離さないのは器用だ。一体彼女はここで何をしているのだろう。その足元で、白いワンピースの膝を抱えたサトーが静かに寝息を立てている。彼女らを起こさないようにソっと通り過ぎ、受付に声をかけようとするが人が誰もいなかった。
「これがいるんでしょう〜?」
唐突に後ろから声をかけられて、量子はヒッと声を上げてしまった。振り返ると、案の定あの女だった。彼女は顔の高さまで従業員パスを持ち上げてぶらぶらさせてみせた。ゲストパスと違って厳重に管理されているはずのものを、彼女はどうやって盗んだのだろう。
「ああ、そうだ」
灰原が答えると、彼女は嬉しそうに笑った。酒臭い息が鼻をつく。
「私、院長室から締め出されたのよね。あんたたちが一緒に行ってくれるなら、これ貸してあげてもいいわあ」
量子がパスを掴もうとすると、女はひらりとかわす。量子は頭にきて追いかけ回すが、酔っ払っている振りかというくらいに器用に交わし続ける。
「わかりました。一緒に行きましょう」
灰原がため息混じりにいうと、女はニンマリと口元を緩ませた。量子が睨みつけている雰囲気を感じたのか、灰原はそちらを見ようとしなかった。
女はスキップして扉を開けに行く。静かなロビーに場違いなほど大きな電子音が響いた。




