21
百合の意識世界で目を覚ました量子は意外に思った。彼女に持っていた陰鬱なイメージとは違って、抜けるような青空に砂浜と海が広がっていた。しかし、それだけではない。これまで見たようなものと少し違って、すべてが二重になっていた。乱視世界とでも呼べば良いだろうか。輪郭がぼやけて見える。何かを見ようとしても、餡の周りを求肥で包んでいる和菓子のようで、分かりづらい。青い海の中を覗き込むと、赤い何かが蠢いていた。砂浜を掘ってみると、鈍い色の金属にぶち当たる。突き刺すような陽の光を浴びているのに寒い。一体、彼女の精神状態はどうなっているのだろう。
彼女は何かを隠したいんだろうか。辺りを見渡してみても、人は誰もいない。ふと、以前ダウンロードした意識を思い出す。レストランだった。そこには人がたくさんいた。人によってこうも違うものだろうか。百合は人間嫌いだったのかも知れない。
今まで、多くの人間の意識を除いてきた訳では無いが、それぞれの意識にはその人の主張したいことが表されていた。しかし、鏡百合の意識はむしろ何かを隠そうとしているようだった。
砂浜に、無意味な言葉の羅列が浮かぶ。その中で一つだけ意味を持った言葉があった。
「パパ……?」
声に出すと、その言葉が空に向かって光を照射した。まるで映写機みたいに空に映像が浮かび上がる。
「どうしてパパと一緒に暮らせないの?」
幼い百合が、母親を見上げている。母親は答えない。百合の頬には殴られたような痕があった。
場面が変わると、百合の母親が男と親しそうにしている。百合がその男のことをパパと呼んだ。再婚したのだろう。
再び場面が切り替わる。百合がその男に暴行されて泣き喚いていた。そこに母親がやってきて、男を突き飛ばした。
「違うんだ。この子に誘われたんだ」
男が悲鳴のような声を上げながらズボンを履いて外へ走り出していった。
再び、百合が母親を見上げて「どうしてパパと一緒に暮らせないの?」と尋ねた。やはり、母親は答えなかった。
百合が大人になったあとも、パパと呼ぶ男に暴行された。相手が次々替わる。もしかして、彼らは本当の意味の父親ではなくて、百合が年上の男を捕まえてきては、パパ代わりにしているだけなのではないか。
映像が途切れた後も、百合の声でパパと呼ぶ声が続く。重度のファザコンだ。パパという言葉を聞きすぎてゲシュタルト崩壊する。一体、パパとは何なのかわからなくなってきた。
「白マスクのことを教えて」
耐えかねた量子が問いかける。爽やかな空が声を吸い取ってゆく。
パパ、と呼ぶ声がピタリと止み、砂浜に足跡ができた。足跡だけで姿は見えない。
「ねえ、誰かいるの?」
再び問いかける。足跡は次第に重さを増してゆき、足跡が鮮明になってゆく。しかし、そこに現れたのは人間ではなく文字だった。
右足には『白マスク』、左足には『点滴の薬剤』。
白マスクに飛びつきたい、しかし、点滴の薬剤も気になる。そうしている間にも、文字はまるで歩いているみたいに進んでいってしまう。どちらかしか選べなさそうだ。どちらを選ぶべきか、わかっている。点滴の薬剤を選ぶべきだ。だが、量子はどうしても白マスクのことを諦められない。
量子は悩んで白マスクに手を伸ばす。しかし、直前で手を止め、点滴の薬剤に触れた。甲高い音がして、文字はクルクル回って人型を形作る。思った通りもう一つの言葉は消えた。
「先生、薬剤を」
声が響き渡った。ひび割れている。人型は点滴のバッグと小瓶を手に持っている。バッグには生理食塩水と書かれており、手際よくそれを設置した。生理食塩水の上部に小瓶を逆さまに押し込むとポンピングした。バイアルにはミダゾラムと書かれていた。生理食塩水に麻酔薬を希釈して注入しているのだろう。言い方から、よくあることなのだろう。
量子は医者ではないし、この行為そのものに問題があるようには見えない。生理食塩水もミダゾラムも知っていた。彼女自身、病院とは浅からぬ縁がある。
しかし、なぜ『点滴の薬剤』が彼女の意識に深く残っているのだろう。そう思って見ていると、点滴のバッグが一瞬、黒く濁ったように見えた。
「それは?」
尋ねるが、人型は反応しない。
「先生、それは?」
再度の質問。クリアに聞こえた声は鏡百合のものだ。その声が聞こえると、人型がこちらを向いた。この人型は鏡百合だと思っていたが、どうやら白マスクらしい。それに気付いたとき、量子は全身の毛が逆立った。無意識に殴りかかったが、拳は虚しく空を切った。触れることはできないらしい。それでも、なにかしないではいられず地団駄を踏んだ。
人型がなにか喋っているようだった。声は聞こえなかった。
「量子花弁? なんですか、それ」
体温が急上昇するのを感じる。
量子花弁——薬剤に混ぜているのか。
「どうして?」
「先生、どうして?」
どういうことだろう。口に出した言葉が、百合の声で繰り返される。百合の意識に干渉されている。
「これは救済? そう……そうなのね」
救済——?
「患者を救ったってこと?」
「先生、患者を救うってことですか?」
百合の声に戸惑いの色が滲む。
「可哀想……死こそ本当の救い」
——それなら。
「それなら。看護師長も救ってあげて」
看護師長。あんなに疲れて可哀想。
「あんなに疲れて可哀想なの」
人型の肩のあたりにシワが生まれる。百合が枝垂れかかっているのだろう。
「パパ……」
百合の声とともに、人型の姿が消える。
あの女は白マスクの仲間だったのか。とぼけやがって。目を覚ましたら許さない。
再び文字が浮かび上がる。
「白マスク……」
残された文字は白マスクだった。
「触らないで」
文字に触れようとした瞬間、鏡百合の叫び声が聞こえた。ほとんど悲鳴のような声だ。
声が聞こえた瞬間、文字が毒々しい色に変わる。触れたら死ぬかもしれない。もし、先にこの文字を触っていたらと思うとゾッとした。
——なぜ、彼女は教えてくれたのか。
きっと彼女は伝えたかったのだろう。白マスクは悪くないと。彼女の中では正義の味方なのだ。
——ふざけるな!
量子は地団駄を踏んだ。足元の砂が飛んでゆく。
ふと、足元を見て気付いた。この意識世界が不自然なのは、彼女が隠し事をしているからだ。彼女は見た通り平和で無害そうに装っておきながら、実はサイコ野郎の仲間だったのだ。つまり、あの三人も、看護師長も間接的に殺したということだ。本当は真逆の性格をしているのに、こうやって薄い膜で覆っているのだ。
何という女だ。小動物のような可愛らしい顔をして、どんな気持ちで——いや、違う。どんな気持ちで、ではない。どうやって、だ。
量子花弁を点滴バッグに入れるだって? あれは現実の物質ではない。意識世界の感染媒質だ。そんなものを、どうやって現実世界で注入するというのだ。
現実に戻って彼女に尋ねないといけない。ニューロンコネクタに手を伸ばす。タップすることで九条博士のモニタに信号が伝達されるのだ。
ふと、合図をする直前に手を止めた。なぜなら、眼の前にあるはずのないものがあったからだ。
「量子花弁だ」
思わず声に出していた。先ほど人型がいた場所に黒い花が咲いていた。それを認識した瞬間、大きな衝撃と灼けるような冷気が感情を貫く。
いつの間に——?
「キレイ……」
量子が量子花弁の前にひざまずく。抗えきれない愛おしさに包まれ、美しい花を撫でる。そのたびに、黒い花粉が散った。
「量子君。何をしている」
九条博士の声が聞こえた。向こうからはこの花が見えていないのだろう。見えていたら真っ先に九条博士が気付いていたはずだ。
量子が指を指す。
「そこになにかあるのか?」
砂浜に指で文字を書いた。
「量子花弁があるのか? こちらからは見えないが」
やはりそうなのか。
「どうして量子花弁があるの?」
尋ねてみる。空を仰ぎ見るが、もう鏡百合の声は聞こえなかった。足跡はどこにもない。
彼女は昏睡状態ではない。今日だって、自分の足でラボに来て、自分の足で装置に入った。それなのに、どうして量子花弁が咲いているのか。量子汚染症の症状は、意識世界に閉じ込められることのはずだ。三人の被害者も、看護師長も昏睡状態になっていない。
いよいよ、現実世界で彼女を問い詰めねばならない。今回はただ不幸にも選ばれて連れられてきただけなのに、大当たりだったわけだ。
量子花弁を回収しようと手を伸ばす。
「あれ?」
さっきは、確かに触れた。花びらの縁の、ぬるい感触まで覚えている。しかし今は花に触れられない。触れようとしても、手が通り抜けてしまう。モニタからは見えていないし触れられないとなると、この花は自分にしか見えていないのだろう。なにかのメッセージだろうか。
ニューロンコネクタをタップして合図した。




