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「なんだって?」
灰原が話を聞いた少女の病室は空になっていた。話を聞くと、今さっき退院したという。あの迷惑女が無理やり連れて行ったのだ。
「そんな。だって、ついさっき話を聞いたばかりじゃないですか」
「ええ。でも、書類上ではそうなっているんです」
「本当は少女なんていなかったんじゃないの〜? 夢でも見たんじゃないの〜?」
量子が茶化す。
「あなたも一緒にいましたよね?」
灰原が量子を無視して百合に詰め寄る。百合は答えづらそうに目を逸らした。
「ええ……まあ……」
彼女に詰め寄っても仕方がない。灰原は院長室へ向かった。その途中、ナースステーションを通るときに他のナースにも訊いてみたが、詳しいことは誰も知らないという。
勢いに任せて院長室の扉を開く。
「なんだね、ノックもせずに」
不機嫌そうに院長が灰原を睨みつける。その不機嫌の原因が灰原のせいだけでないことはすぐにわかった。あの刑事が、院長のバカでかいウォールナットの机に腰掛けていた。美しいチョコレート色の天板が、汚いケツに穢されている。
「帰ったんじゃなかったのか」
「てめえに報告する義務はねえだろう」
立ち上がった刑事と灰原がにじり寄り、額同士がぶつかった。
「まあまあ、待ちなよ。野良犬じゃないんだからさ」
量子が二人の間に割って入る。刑事は量子にも額を突き出しかけたが、相手が若い女性だからか、鶏みたいに首を引いた。
「僕はこれでもキャバクラで若く見えるって言われるんだけどね」
院長が誰に訊かれてもいないことを言ったが、誰も反応しなかった。
一触即発の空気は後退した。だからといって友好的とは言えない。結局、どちらのおじさんにも角が立たない量子だけが、自由に発言することを許された。量子がサトーのことを尋ねると、院長の顔が曇った。
「あの子のことはねえ……言えないんだ」
「何だと? 取調室まで連れて行ってやっても良いんだぞ」
刑事が凄む。院長は太った顔にダラダラと汗を流した。
「そうじゃない。そうじゃないんだ。知らないんだ。本当に。神に誓うよ」
この男が神に誓ったところで、その信憑性は測りかねるが、嘘をついているようには見えない。
「そんなはずねえだろ。じゃあ何か? そのガキが勝手に潜り込んできたっていうのか?」
「違う。そうじゃない。頼まれたんだ」
「誰に?」
院長は口を噤む。ここまで隠そうとするということは、何かまずい相手なのだろう。政治家か、反社会勢力か。
「僕だって困ってるんだ。こんな頼まれごとをして。看護師長だって死んでしまって。僕だってすごくすごーく困ってるんだよ」
「おい」
刑事が机を叩く。
「てめえ、仮にも院長だろう。困ってる、で済むのはガキだけだ。どうすりゃいいかわかるよな?」
「どうすれば」
院長はすがるような目で刑事を見上げる。まるで陳腐な刑事モノのドラマでも見ているようだ。チラと横目に量子を見ると、彼女は吐く真似をしてみせた。自分だって具合が悪くなってきそうだよ、と言いたかった。
院長が覚悟を決めたように顔を上げた。そうして、口を開こうとしたとき、灰原の後ろを見て大きく目を見開いた。
「なんで、なんだよそれ……どうして。どうして、お前たち、何を連れてきた?」
院長は金魚のように口をパクパクして後ろを指差す。全員が振り返ってみたが、そこには誰もいない。
「おい、てめえ。この期に及んで白々しい手を……」
刑事が机を叩いて威嚇している最中に、院長は彼の言葉を遮るようにして言った。
「見えないの……? どうして、どうして……」
みるみるうちに院長は顔面が蒼白になっていった。口の端から泡を飛ばしている。尋常な様子ではない。彼は跳ねるように椅子から立ち上がると、扉から駆け出してゆく。刑事がそれを追って出ていった。
「ウチらも行こう」
呆気にとられた灰原と量子も、彼らを追っていった。院長はなにか叫びながら、階段を上がってゆく。
「あの先って……」
量子の言葉に灰原が頷いた。
果たして院長が逃げ込んだ先は、屋上だった。灰原たちが追いついたときには、彼はその巨体を軽々と持ち上げてフェンスのてっぺんまでたどり着いたところだった。フェンスがところどころひしゃげている。
「嘘でしょ……」
量子が呆気にとられている。
「来るな、来るな」
院長が叫びながら、両腕を振り回す。何かにまとわりつかれているように見えるが、実際は何もいない。あれは本当に刑事の言うように演技なのだろうか。少しでも足を踏み外したら落下してしまう。
「止まれ。そこを動くなよ」
刑事がフェンスにしがみつくが、うまく登ってゆくことができない。それを見ると、やはりどうして院長があんなに軽々しく登って行けたのかわからない。
「うおりゃああああ」
急に背後から叫び声が聞こえた。灰原になにかの塊がぶつかってきて吹き飛ばされた。
「いてて、なんだよ……」
倒れた灰原が顔を上げたとき、その場にいた誰もが、呆気にとられて口を開けてそれを見上げていた。
あの迷惑女が猿のような俊敏さでフェンスを登って行き、院長を片手で持ち上げるとこちら側へ投げたのだ。それがちょうど灰原の上に落ちてきたので、再び倒れ込むことになった。
「この豚野郎! きっちり金を返してもらうからな」
「か、金……?」
「入院費! 払ったでしょう」
院長の唇は震えていた。本当に恐ろしいものに遭遇したときの人間の反応だった。
「い、いくらでも払うから助けてくれえ」
院長が灰原にすがりついた。
とりあえず、彼が死ななくて良かった。
「なあ、お前らにはなにか見えたか? 何も見えなかったのは俺だけか?」
院長が迷惑女と看護師に連れられて行ったのを見送った後、刑事が灰原たちに詰め寄ってきた。あの女が横にいるなら、院長ももう馬鹿な真似はしないだろう。
「いや、俺達も何も見えなかった」
「そうか……。やつがシャブ中の可能性は?」
それは灰原も思っていたことだ。だが、彼はふくよかで健康的な体型をしていたし、歯も綺麗だった。落ち着きもあったし、一般的に言われているような薬物中毒者の特徴には当てはまらない。
「それに、他にも幻覚のようなものを見たと言っている人がいる」
「幻覚のようなもの?」
「ああ、幽霊を見たとか」
「一体どうなってるんだ、クソ」
刑事がポケットからタバコの箱を取り出す。それをたしなめると、彼は苛ついた様子でタバコを握りつぶして足元に投げ捨て、屋上から出ていった。
「あのう……」
急に声をかけられて、体がビクリと飛び跳ねた。振り返ると鏡百合が立っていた。院長と一緒に行ったものだとばかり思っていたので驚いた。
「百合さん」
「さっき騒いでたのって、もしかして院長先生ですか?」
恐る恐る、彼女が言う。院長先生、というところで声が震えていた。
「ええ。すみません、我々がついていながら」
彼女の手が震えている。灰原は彼女の手を両手で包んだ。
「安心してください。これ以上、何も起こらないようにします」
「ジゴロだねえ」
量子が口笛を吹いた。灰原が慌てて手を放す。
「ば、ばか」
しかし、あの少女の手がかりは失ってしまった。院長があそこまで怯えていたのだ。なにもないはずがない。今すぐ院長を任意同行して取り調べようと思ったときには、もう所轄の刑事が彼を引きずってパトカーに乗せるところであるのが窓から見えた。まあ、普通の尋問は彼に任せれば良い。運が良ければなにか吐くかもしれないが、彼は何も喋らないだろう。灰原に助けを乞うた後は、まともに言葉を喋らなくなってしまった。そうなれば、あの迷惑女に聞けば少女のことはわかるかもしれない。
迷惑女はどこかと思ったら、院長を連れて行ったパトカーを追って派手な車で追っていくところが窓から見えた。
このまま戻ったら九条博士の怒りが爆発するのは目に見えている。彼はどんなに機嫌が良くても、気に入らないこと一つで突然怒りが沸騰するので『瞬間湯沸かし器』と陰で呼ばれている。それに、そうなればこの病院の看護師から患者まで全員を装置にかけるというはずだ。
チラ、と百合を見た。彼女は白マスクの医師が点滴を施したときにそばにいたのだ。それに、少女のことを知っている。なにかわかるかも知れない。
「あの、百合さん。お願いしたいことが……」
装置に寝かされた鏡百合は、不安そうな顔を灰原に向けた。
「本当に、検査するだけなんですか? なんだか普通の検査室に比べて大げさなような……それに、この装置、見たことない」
さすが看護師だ。違和感に気付いている。灰原は正直に話そうと思ったが、量子が止めた。彼女には、彼らがおかしくなってしまった原因を突き止めるため検査をしたい、とだけ説明した。嘘ではない。
百合は持ってきた荷物から水となにかの薬を取り出した。
「これを飲まないと眠れないの」
別に眠る必要はないのだが、眠っていても問題はないので止めないでおいた。コンソールの方に目を向けると、九条博士が上機嫌でモニタを見ている。横で量子がなにかの話を聞いていた。
準備ができると、量子が百合の装置の横にスタンバイした。今回こそ、白マスクの医者の正体を掴むと意気込んでいるのが、背中でわかった。




