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首筋の痛みで目が覚める。
続いて慌ただしい音。
スキャン・ルームにスタッフが入ってくる音だ。現実に戻ってきたのだ。シナプススキャンできる時間は限られている。
「やあ、量子君。元気かね」
先ほどは随分焦った様子だったが、今は極めて冷静を装っている。また笑いそうになった。
九条博士は骨と皮だけのような痩せこけた男だ。肌の色が悪く、独特の甲高い声で喋る。その容姿のせいで老人のように見えるが、実年齢は見た目よりも若い。プライドが高く、自分以外の全ての人間を馬鹿だと思っている。
彼は髪の毛だけが異様に長い。曰く、切りに行く時間が無駄だから。
いつも白衣を着ている。曰く、着替える時間が無駄だから。
家族ぐるみの付き合いだったというが、量子は彼のことを覚えていない。両親のことも、量子のことも、姉である栞のことも詳しく知っているので、おそらく本当なのだろう。量子はある事件によって記憶が不安定になっていた。
「元気に見える?」
不機嫌そうに言いながら大きなヘルメット型の冷却装置を取り外し、量子は頭痛と首筋と右目の奥の痛みに顔を歪めた。特に右目は手で抑えていないと零れ落ちそうだ。目を閉じていても照明の光が刺さる。
「鍛錬が足りないんだ」
呆れたように言うのは課長代理の灰原だ。彼は量子の前任のニューロンコネクタ装着者で、シナプススキャンに失敗して左目と左脳を機械化している。現在の課の課長代理になる前、つまりまだ生身の頃は刑事課に所属していたらしい。事故が理由で刑事課から鑑識課へ異動になり、ここに流れ着いた。どうりで脳筋である。鑑識課と言っても、肩書上のものであり、一度も現場に行ったことはない。
灰原は量子ではない方を見ている。珍しく感傷的な表情である。自分がシナプススキャンに失敗したときのことを思い出しているのだろう。その視線の先がなんであるかは知っていた。今、意識の中に潜ったばかりの神崎だ。彼は元々九条博士の助手だった。それが、量子汚染症に感染して意識不明になったのだ。
量子の目から自然と涙がこぼれる。神崎との付き合いは五年にもなる。この研究所の中で最も信頼できる人物だった。彼がいなければ、量子はとっくにこの研究所から逃げ出していただろう。彼の人柄を考えれば、灰原も神崎の病気を惜しむ気持ちもわかる。神崎のことを嫌う人間なんて一人もいなかった。
量子は右目を押さえながら起き上がった。
「ごめん、失敗した」
絞り出すように言う。悔しさで仲間の顔が見られなかった。特に九条博士が落胆した顔は見たくなかった。量子は九条博士の推薦で今の役職についている。
そんな量子の気持ちとは裏腹に、九条博士はヒッヒッヒと笑った。笑い方も独特で、彼のことを不気味だと思って近寄らない職員も多い。
「想定通りだ。最初からうまくいくなんて思っていないさ。それに、あんな男になにか証拠を残していくほど敵も馬鹿じゃあない」
九条博士はそっけなく言った。もっとこだわるかと思ったがどうでも良さそうな態度が意外だった。
敵——そう、量子たちが追っている組織のことだ。正確には組織がどうかすらもわからない。素性のすべてが隠された暗闇のような存在である。
量子は『警察庁警備局特殊犯罪対策室クォンタム犯罪対策課』所属の特別捜査官である。つまり、警察組織の人間だ。とはいえ、公務員試験を突破して採用された正規の警察官でも刑事でもない。特殊犯罪対策室というのは、警察組織内部でも名前の通り特殊な部署であり、この部署で正規の警察職員は灰原だけである。
九条博士は元監察医であり、現在の肩書きは主席研究員である。必要以上に遺体を切り刻むので、厄介払いされたのである。医科大学からの出向だという話を聞いたことがあるが、なるほど医師ではなく研究者のほうが彼には似合っている。この部署の実権は九条博士に帰属するが、課長代理の職名を持つ灰原は、博士が各方面で引き起こした数多の騒動に対する、名ばかりの謝罪役を一身に引き受けている。
「クォンタム犯罪対策課は、量子もつれした脳波を追う。昔のサイバー警察が黎明期にハッカーを雇ったように、うちも量子君みたいな部外者を雇う。相手は法律どころか物理法則も守らない連中だからね。この部署は、量子技術が生んだ『意識の地獄』に挑む最後の砦なんだ」
かつて神崎が言っていた言葉だ。正直、言っていることは半分もわからなかったが、量子は自分の目的のためなら何でも良かった。
量子の目的。それは——。
「お姉さんの痕跡は見つけたかね?」
九条博士が尋ねた。量子は首をふる。九条博士も残念そうにため息をついた。
量子の姉である栞は五年前にある事件に巻き込まれ、今も意識不明のままだ。一家惨殺事件だった。その事件は手口の残忍性から黒百合町事件と名付けられ、大きく取り扱われることになった。黒百合町は当時住んでいた町の名前だ。残忍である程度のことで、どうしてそこまで取り沙汰されたのかと言うと、量子汚染症と呼ばれる未知の病気が広まるきっかけであり、のちにクォンタム犯罪と呼ばれるようになった同様の犯罪の、観測史上初めての事件だったからである。
量子の両親はそのときに死んだ。量子だけがこうしてピンピンしている。どうして、当時13歳だった自分だけが助かったのかはわからない。なぜなら、その時の記憶が量子にはないからだ。
量子の目的は、その真相を突き止め、姉を助けること。そして、犯人に復讐することである。
「お姉さんは、意識の海に沈んでいるんだったか」
灰原が言った。デリカシーのない男だ。量子は灰原との付き合いは長くないが、彼がこういう人間だということは知っている。だから今更、腹も立たない。
「ああ。間違いない。彼女は量子花弁に囚われ、量子世界の何処かを漂っている」
量子の代わりに九条博士が答えた。
「それより量子君。君、病院へ行きたまえ」
「え?」
突然、九条博士に言われて量子は戸惑った。病院というのは、九条博士が籍を置く大学病院のことだ。ニューロンコネクタや灰原の左脳は、そこの最新の設備でしか検査できない。
「どうして……診察ならここでしてくれればいいじゃない。どうせ、九条博士が診察するんでしょ?」
「もう予約はしてある。今すぐ病院で検査を受けるんだ」
有無を言わさない。これまで、彼が量子の提案を受け入れたことなど一度もない。
「待ってよ博士。あたしはどこも……それに検査って」
「右目はどうだね?」
言われて、押さえたままだった右目の痛みがすでに収まっていることに気づいた。視力も低下した様子はない。
「もう大丈……」
「良いから、早く行くんだ。ここの設備では足りない」
九条博士はいつもこうだ。彼は量子と灰原を追い出す。どうせなら、みんなで一緒に行けばいいのに。




