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第1章「螺旋の夢」
昏い天井から滴り落ちる水音で目を覚ました。頬に触れる絹のような布の感触——手に取ってみると、それは腐敗したカーテンの破片だった。
目を開けると見知らぬ洋館にいた。頭が重い。
首筋がチリチリと痺れ、右目の奥で鈍い痛みが脈打つ。原因はわかっている。ニューロンコネクタ——首筋に埋められた端子が、今もどこかの誰かの脳と繋がっている証拠だ。つまりここは、その誰かの頭の中ということになる。
次第に思考がはっきりしてきた。
——あたしは誰だ。
自分に問いかける。
——量子。量子と書いてりょうこ。物理学者だった父がつけてくれた名前。
思考は正常だ。大丈夫。量子はゆっくりと起き上がる。
——訓練を思い出せ。
初めての実戦での神経接続捜査だ。震える手で髪の毛を掻き分け、首筋の端子を確認する。銀色の金属板に刻まれた「011」の刻印が暗がりで微光を放つ。ヘアスタイルが崩れていることに気付けるくらいには落ち着いた。
九条博士の説明を思い出せ——。九条博士は、このシステムを開発した博士の名前だ。『シナプススキャナは単なる記憶の再生装置じゃない。量子もつれ状態の神経細胞を増幅し、他者の意識の"今"をリアルタイムで観測する』ものだ。
急に首筋が熱を持つ。強制的に他人の脳波がダウンロードされる感覚。何度体験しても気持ち悪い。額に冷たい汗が浮かんだ。訓練では経験したことのない違和感。まるで自分の脳が他人の思考に侵食されているようだ。
ここはサンドボックスの中に構築された他人の意識の中だ。その証拠に、現実ではありえないような不安定な空間であることが一見してわかる。
空中には文字が浮いているし、物理法則がメチャクチャだ。
量子はあたりを見回してみた。
かつてはクリーム色だったのだろう、今は薄汚れた壁に、簡素なフレームとマットレスだけのベッド、洗面台、姿見、破れたソファが置かれている。全体的に薄汚れているくせに、姿見だけはピカピカに磨かれているのが不気味だった。壁には窓がついているが、窓の向こうはなにもない。その代わり、あたりには生ゴミに湧いたコバエみたいに文字が浮いている。そのほとんどは意味のなさない言葉だったが、いくつか読み取れる言葉があった。
「最初の被験者」
言葉に触ると、キンと高い音がした。耳が痛くなる。ここではルールがある。触れてはならないものに触れると、意識が汚染されてしまう。「最初の被験者」という言葉は間違っていなかったということだ。この意識の持ち主が伝えたいことは言葉なのではないだろうか。
慎重に相手のプロフィールを思い出す。
対象者の名前は神崎翼。九条博士の助手で、現在は昏睡状態。 脳波感染症「量子汚染症」の患者である。量子とも面識があり、一緒に量子汚染症および黒い花弁について調べている。
量子は深呼吸した。
大丈夫——大丈夫——。自分に言い聞かせる。
神崎の意識の中にいる。
「神崎さん」
呼びかけてみる。意味のなさなかった言葉が、クルクルと回転して組み合わさってゆく。
「量子汚染」
「黒い花びら。量子花弁」
言葉に触れてゆくと、言葉は連なり文章になる。
「量子汚染症とは、量子世界からの干渉により起こる意識障害全般の総称である。簡単に言えば意識の感染症だ。特徴的なのは、どの患者も意識の中に黒い花弁が出現しており、これを量子花弁と呼ぶこととする」
神崎の声が聞こえる。これは量子が初めて神崎に会ったときに説明されたことだ。ダウンロードされた神崎の意識と、量子の記憶が混ざり合っている。
「神崎さん。聞こえますか。教えて下さい。あなたに干渉して量子汚染した人のことを」
神崎からの返事はない。
もう一度部屋の中を見回す。鏡に映る自分の顔が、ゆっくりと別人の貌に変質した。
「っ……!」
腐敗した左眼球が抉られた少女の顔。唇から蛆が這い出し、鏡面に「覚醒せよ観測者」と血文字を刻む。右目の虹彩が時計回りに回転し、視界が螺旋状に歪む。
「あ……あ……」
恐怖が喉元に透明な手を伸ばし、呼吸のリズムを絞め上げた。肺の奥が凍りつくように、これまで当たり前だった息の流れが混乱とともに途絶える。無意識に呼吸が制限され、吸うことも吐くことも満足にできない。鼓動だけがやけにうるさくて耳障りだった。
「大丈夫か、量子君」
耳元で甲高い嗄れ声が聞こえた。九条博士だ。
「君の心拍数が上がっている。落ち着きたまえ」
現実世界から声をかけられているのだ。
——そうだ、ここは現実じゃないんだ。落ち着け……訓練を思い出せ。
落ち着こうと思えば思うほど、余計パニックになってゆく。苦しい、苦しい。
「量子君。聞こえているか。危険水域だ」
視界の歪みが大きくなった、と認識した瞬間、鋭い痛みが右目を貫く。無数の針が眼球に刺さっているような痛みだ。絶え間ない痛みが量子を責め続ける。
あまりの痛みに叫ぶことさえできない。喉を締め上げられたような、かすれた呻きが洩れる。
「大丈夫? 深呼吸して」
神崎の声が聞こえた。姿は見えないが、たしかに神崎の声だ。このセリフ、以前にも聞いたことがある。
「君は勇気があるね」
再び神崎の声。これは神崎の意識と量子の記憶が絡み合って生み出された過去の声だ。その声を聞いていると、恐怖が少しずつ氷解してゆくように感じた。それとともに、視界が少しずつ開けてゆく。
「だめだ、失敗だ。このままでは量子君の命が危ない」
先程までノイズにしか思えなかった九条博士の声が、はっきりと聞こえた。彼が焦っているのを初めて聞いた。もしかして、今、自分はひどくピンチなのではないか、と思うと同時に、彼のうろたえぶりが面白くて吹き出してしまった。そうして、ようやく呼吸ができるようになった。興奮した獣のように荒く呼吸をすると、落ち着きを取り戻した。
呼吸ができるようになると、現実の自分は深呼吸をしたりしているわけではないはずなのに、この世界とリンクするんだな、なんて無駄なことを考えてしまった。
突然、背後でドアが爆裂した。男が胸から黒い花弁を噴出させながら転がり込んでくる。花弁から独特の匂いを感じる。嗅覚ではなく、大脳辺縁系にある扁桃体を直接刺激する。ハンマーで殴られたみたいに、感情を揺さぶられる。
「私は……殺された……九条博士に……気をつけろ……」
絶命した男の胸腔から咲く花弁が、神経を灼く冷気を放つ。これが量子花弁だ。黒い桜の花弁のように襞を重ねた結晶体であり、花弁の襞の奥で微小な数式が光っている。男の顔は、確かに神崎だ。その顔を見て、無意識に涙が頬を伝う。しかし、泣いてばかりはいられない。使命をまっとうしなければ、彼の死が無駄になってしまう。
黒い花弁は敵に繋がる唯一の情報だ。これを回収しなければならない。触れると、花弁に刻まれた数式がより眩しく光る。シュレディンガー方程式——幼い頃、父の書斎で何度も見た記号だ。意味はうろ覚えでも、その手触りだけは覚えている。
情報はこれだけ。敵の情報は何もない。
——本当に?
いま、たしかに誰かが、何か大事なことを言った。手を伸ばして掴もうとすると、指の形に崩れた。乾いた砂の感触だけが掌に残る。
がっかりするとともに、神崎がなんらかの悪事に加担していないことにホッとした。
突然、天井が発光した。見上げると、逆五芒星壁画が現れていた。砂時計型の影が床に落ち、幼少期の自分と瓜二つの少女が砂の像となって現れる。触れてみると簡単に崩れた。
「起きろ、量子君」
九条博士の声が聞こえた。




