18
朝、まだ早い時間に電話で起こされた。
「いつまで寝ているつもりだね」
寝起きに、このネットリとした声を聞かなければならないのは拷問だ。かけてくるのは課長席の固定電話だけにしてほしい。
嫌な予感がした。苛ついているときの声だからだ。寝ぼけ眼でサイドテーブルの時計を見ると、まだ朝の六時前だった。
「おはようございます。なんですか、警備局長」
受話器の向こうから大げさにため息をつく声が聞こえてくる。
「今すぐテレビでもなんでも良いからニュースを見てみろ」
ベッドから降りると、テレビのリモコンを探した。最後にテレビを見たのはいつだったろうか。なかなかリモコンが見つからず、ネットリとした声でさんざん嫌味を言われたあと、ようやくリモコンを見つけてテレビをつけるとすぐにテロップが目に入ってきた。
「なんで……」
看護師長が屋上から飛び降りたというニュースだった。
病院にかけつけたときには、まだマスコミが騒いでいた。警察庁マターとはいえ、連続飛び降りとなれば所轄の刑事課も黙っていない。刑事課の刑事はひと目でわかる。同じスーツのはずなのに、まるで会社員に見えないのだ。その男は灰原を見つけると、馬鹿にしたように笑った。
「おや、これは特殊警察の課長さん」
「特殊犯罪対策室の課長代理です。このヤマはうちのものですよ」
「偉そうに。お前たちが無能だから、助けてやろうってんだよ」
「まあまあ巡査長」
昨日の警官が間に入る。刑事は彼を「制服がでしゃばんな」と吐き捨てて押しのけ、灰原の足元に唾を吐いた。
「良いよな、サツ庁のエリート様はよ。所轄馬鹿にすんな」
言い返す言葉が、灰原には見つからなかった。少し前まで、自分もこの男と同じ側にいた。他人を見下すあの目つきを、鏡で見たことがないと言い切れるだろうか。マスコミを蹴散らして病院へ入ってゆく背中を見送りながら、灰原の心の内はもやもやと曇った。量子がここにいなくて本当に良かった。絶対に喧嘩になる。そういえば、彼女はまだ来ていないのかと不思議に思った。
携帯電話が鳴る。応答するやいなや、鼓膜が張り裂けそうな大声が聞こえてきた。彼女は特殊犯罪対策室の部屋で待っているらしい。そういえば、ここに来るのに昨日は車に乗せてやったんだった。彼女も免許くらい取ればいいのに、と言いたくなるのをこらえて、灰原は量子を迎えに行った。
散々車の中で文句を聞きながら病院へ戻ると、すでにマスコミも刑事もいなくなっていた。その代わり、真っ赤なスポーツカーがぽつんと駐車場に斜めに駐車されていた。仮免許の大学生でももっとうまく駐めるだろう。ロビーに入る前からけたたましい叫び声が聞こえてきた。
「どうして会えないの。私のかわいいラブリーちゃんに」
相変わらずでかいサングラスをした下品な乳の女が、受付の中に頭を突っ込んでいた。
「そのラブリーちゃんをここに入院させたのはあなたですよ」
すっかり萎縮してしまった受付の女性のうしろで、太った看護師が腕を組んで仁王立ちしていた。
「それはさぁ、そっちが入院させるべきっていうからさせたんだよ。それに、面会は自由って話だったじゃない」
「あなたねえ、わかんない? 人が死んでるの。あなたみたいなモンスタークレーマーに構ってる暇はないの」
二人の喧嘩は言葉を発するたびにヒートアップしてゆく。そんな二人を尻目に、灰原と量子はそっと奥へ進む。
「ほら、あの二人。入っていくよ? 止めないの? 私のことは止めたのに?」
うるさい女に見つかって、灰原はため息を付いた。諦めたように警察手帳を見せる。
「警察なんて関係ないわよ。こいつらが入れるなら私だって入れるはずでしょ」
一体どういう理屈なんだ。まだ暴れている女を尻目に、二人はさっさとゲストパスを受け取って扉の奥の食堂へ進んだ。すると、待っていたと言わんばかりに警官が駆け寄ってきた。
「うげ、あんた今日もいるの? 暇なの?」
「お前もな」
「あたしはこの事件の捜査員だから」
警官は量子のことは無視して灰原に向き直った。昨日と同じようにメモを取り出し読み上げる。
「鑑識は自殺だろうって言ってましたよ。私もそう思います。看護師長、疲れてたみたいだったから」
今日も案内は鏡百合だった。看護師長が死んだというのに、昨日と変わらない調子だった。灰原のことを見てこっそりとため息をついたのを見逃さなかった。
昨日の看護師長の様子を思い出すと、確かに帰り際に会った彼女は今にも倒れそうなくらい疲れている様子だった。
「鏡さんは、なにか気づいたことはありますか?」
灰原が尋ねると、百合は少し考えるような仕草の後、ポツリと言った。
「なんだかおかしなことも言っていました……」
「あの冷徹メガネは元からおかしいっしょ」
「おかしなこと?」
量子を無視して尋ねると、百合は頷く。
「幽霊を見るとか……」
「幽霊?」
量子が灰原と百合の間に強引に割り込む。
「それは俺も聞きました。一体どういうことなんでしょう」
詳しく話を聞いておけばよかった、と後悔した。幽霊なんてオカルトを刑事の自分が信じるわけにはゆかないと思ってしまったのだ。自分たちがやっているシナプススキャンだって、充分オカルトのようなものなのに。
「昨日、似たような話聞かなかったっけ?」
ロビーの方からひときわ大きな奇声が聞こえた。あのサトーという少女のことを思い出した。
「サトーさんという患者さんがいますよね?」
百合に尋ねる。彼女は驚いたように頷いた。
「ええ、います。よくご存知ですね」
「昨日、食堂で話をしたんです。白いマスクの医者に点滴を打たれると、逆さ吊りの女が見えるとか」
思い出したように、百合が手を打つ。
「そういえば、私も聞いたことがありますね」
「白マスクのことを詳しく教えて」
またも量子が灰原と百合の間に割り込む。その剣幕に、百合は困ったように後ずさった。
「アルゴン先生のことですかね」
「アルゴン先生? 怪しい名前……」
「たしか、ギリシャ人だって聞いたような」
百合が顎に人差し指を乗せて首を傾げた。
「それで、そのアルゴン先生は?」
「ああ、昨日の夜遅くに来ましたよ」
「はあ?」
鼓膜が張り裂けそうなくらいの大声だった。量子は百合の襟首を掴むと、乱暴に引き寄せた。
「どうして昨日なの? 今日のはずでしょ?」
「ええ、今日の予定だったんですけど、人手不足で昨日来られたんですよ」
「何よ、人手不足人手不足って。そればっかり。じゃあ、そのアルゴンの野郎が犯人で決まりじゃない。さっさと逮捕しなさいよ」
百合を突き飛ばして、今度は灰原に詰め寄ってまくしたてる。百合は壁にぶつかって、そこにあったマガジンラックとともに倒れた。灰原が慌てて百合に駆け寄る。幸い、怪我はしていないようだった。
「おい、冷静になれ。そんな乱暴なことができるか。もしそうだとしても、そのために俺達は捜査を……」
「良いから、今すぐ行って捕まえてきて。まだそのへんにいるでしょ」
量子が灰原を突き飛ばす。それでも怒りを抑えることができずに、近くのテーブルにおいてあるものを投げたり、椅子をひっくり返したりした。受付で暴れている迷惑女と同じだ。白マスクのことに対して、量子は感情的になりすぎるきらいがあった。事件のせいで休診になっていてよかった。ここに患者がいたら誰か怪我をしているところだ。
「馬鹿野郎。頭を冷やせ」
灰原は量子の襟首を掴むと、彼女をも上回る声量で一喝した。その瞬間、時が止まったみたいに周りがしんとなった。苦しさで量子がカエルの鳴き声みたいな声を出したのがよく響いた。
「警察は、お前のわがままのためにあるわけじゃないんだ。それがわからないなら、今すぐ帰れ」
灰原が量子の襟首を掴んだまま病院の外まで連れて行って放り投げる。量子はアスファルトの上に倒れ込んで腕や足を擦りむいた。
「ちょ、ちょっと……女の子にそこまでしなくても」
警官が恐る恐る灰原に声を掛けるが、灰原の形相を見て口をつぐんだ。
「刑事はなあ。感情で真実を見失っちゃいけないんだ」
言い訳するみたいだった。真実から目を逸らしたのは自分だったのに。言ってから自己を嫌悪した。
本当のことを言えば、灰原が量子と組まされたのは、ただの教育係としてではない。お目付け役——それが、灰原に与えられたもう一つの役目だった。
彼女を採用する際の人格調査で、上層部は青ざめたという。犯人への殺意が、測定の枠を振り切っていたのだ。見つけても報告せず、その場で殺すのではないか。採用に反対する声を説き伏せたのは九条博士だった。自身のキャリアのすべてを賭ける、とまで言われて、拒否できる者は一人もいなかった。
だから、彼女の殺意が牙を剥くたび、手綱を引くのが灰原の仕事だ。仕事のはずだった。アスファルトに転がったまま起き上がらない小さな背中を見下ろしていると、役目を果たしたというより、ただ大人げない男になった気分だった。
量子は起き上がってこなかった。心配した警官が助け起こそうとしたが、量子がその手を払いのけた。




