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「点滴、ですか」
病院の規模の割に狭い医局エリアで、ぽつんと座っていた若い医師に灰原が尋ねた。聞けば初期研修が終わったばかりの研修医だという。
「まあ、たくさんありますよ。主に鎮静剤ですね。興奮しすぎた患者様を落ち着かせたり、眠れないときに」
研修医が持ってきた点滴は、彼の言う通りどこの病院にもある薬剤だった。
「中身をすり替えられている可能性はありますか?」
「中身をですか?」
研修医がギョッとして小声になる。
「なんでそんな。ありえませんよ。これに触れる人は限られているし、そんなことしたら一発でお縄です。警察ならご存知でしょ」
「でも、できるかできないかで言えば?」
研修医は緊張した面持ちであたりをうかがった。
「まあ、できなくはない、ですね。あ、でも僕が言ったって院長や看護師長に言わないでくださいよ。あの三人の事件のことでしょ? 断定的なことは言えないけど、ないと思うけどなあ。薬で患者を操って屋上から飛ばした、って思ってるんでしょ? 素人が考えそうなことだけど、そんな便利な薬があったら、もっと問題になってると思いませんか?」
鼻につく、医者特有の言い回しだ。処方の仕組みも訊いてみたが、この病院では処方箋を単独では発行できないシステムになっており、おかしな薬を混ぜ込む余地はないという。
そこへ、看護師長が研修医を呼びに来た。
「あなた達、まだいたんですか」
灰原の顔を見るなり嫌そうに顔を歪めたが、その声には昼間の覇気がなかった。時刻は21時を回っていた。
「ええ、すみません。あなたもまだお帰りにならないんですね」
「ようやく患者様を部屋に送ってきたところです。人手不足ですから。先生、お薬の確認をお願いします」
言われて、研修医は「はいはい」と立ち上がった。看護師長が研修医を連れて足早に去っていく。その後ろ姿は、廊下の突き当たりの闇に吸い込まれるようだった。
それと入れ違いに警官がやってきた。
「ちょっと、いいですか?」
警官がおずおずと灰原を見る。灰原が頷くと、彼は手帳を開いた。
「ちょっと聞いてきたんですけど、この病院は医師が不足していて、外部からの応援もかなり受け入れているみたいです」
よくある話だ。ここも◯◯会系列病院の一つである。応援はあるだろう。
「それで?」
「ええとですね、その三人に点滴を処方した医師というのがその応援の医師でして、いつも白いマスクをした背の高い男で、誰も素顔を見たことがないらしいです」
「白マスク!?」
量子が食いついた。彼女の宿敵である相手も白いマスクの白衣の男だからだ。灰原も知っていた。彼女が異様にそのワードに執着していることを。
「ここにやつがいたの?」
量子が警官に詰め寄る。噛みつかんばかりだ。その迫力に負けて警官は唇を震わせた。
「え、ええ。系列病院から紹介された医師のようです。で、でもその医師はなにもしてませんよ」
「どうしてわかる?」
「さすがに、紹介されたからと言って知らない医師に任せきりということはないので、ここの看護師が用意した点滴を、ここの看護師が打ったので、その医師がなにか混ぜることはできません。あ、その看護師っていうのは鏡百合さんのことですね。触診や問診のときも、鏡百合さんがついていたそうです」
「屋上に連れて行ったりはできるだろう? カードキーを持ってるんだから」
「でも、セキュリティログではその医師のカードではないことが証明されたじゃないですか」
灰原は唸る。白マスクのことは怪しいと思うが、話を聞く限りでは彼がなにかしたということは考えにくい。何か、見落としたことがあるのだろうか。
「絶対、白マスクが犯人だ」
量子の鼻息が荒い。
「頭を冷やせ。結論ありきじゃあ、無理が出る」
量子は納得いかないようだった。
「疲れているんだ。もう時間も遅いし。また明日来よう」
「そうそう、その白マスクの医師。明日が当直らしいですよ」
量子は鼻息を荒げた。
「もし、明日地球が滅ぶとしても絶対にくるからね」
「そうなったら、白マスクの医師は来ないと思うが」
灰原の声は届かなかった。
帰る前に屋上に上がった。屋上の扉もカードキーをタッチする必要があった。鏡百合は屋上へ上がりたくないらしく、灰原がカードキーを預かった。普段からこういうことをしているのだったら、当日も彼女のカードが他人に使われた可能性はありそうだ。
屋上には照明は存在せず、壁に取り付けてある懐中電灯で照らした。それでも暗くて、よく見えなかった。今日は月が隠れているせいだ。屋上の調査は翌日に持ち越しとした。
「まだいたんですか」
帰り際、ロビーで看護師長が声をかけてきた。
「これから帰るところです。明日、改めてきます」
「優秀な刑事ですものね、きっとなにか証拠を見つけたってことでしょう?」
嫌味の一つも言いたくなる気持ちはわかる。灰原だって警備局長に同じように言いたくなる時がある。
「いや、まだ言える段階ではないので」
「そう……」
看護師長はつかれているのか、イヤミも続かず声に覇気がなかった。
「明日も来るならここに泊まっていけばいいじゃないですか。ベッドなら空いている部屋がいくつかあります」
意外だった。先程まで、鬱陶しがっていた看護師長がそんなことを言い出すとは。
「こんな薄気味悪い病院で眠れる気がしない」
量子が言うと、看護師長は再び眉を吊り上げた。
「おい、馬鹿。すみません、世間知らずなガキなもので」
また殴りかかってくるかと思ったが、彼女は本当に疲れているようだった。顔色が悪い。蛍光灯に照らされた彼女の顔は血が通っていないのかと思うほど真っ白だった。
「そう。ならいいわ。私は今日は宿直なので明日も朝からいます」
「えっ、帰らないんですか」
「人手不足ですから」
本当に、看護師長は疲れ切った様子だった。
「それなら、長居しても申し訳ないので、これで失礼します」
灰原はそう言うと車に向かった。乗り込む直前、病院を振り返ったときにはもう看護師長の姿はなかった。そのとき、何故か普段感じることのない、機械脳を冷却する冷媒の流れを感じた。
帰らなければよかった。そう思うのは、まだ数時間先のことになる。




