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「大変だね」
灰原が話しかけると、困ったような、怯えたような、よくわからない表情で百合は力なく笑った。彼女は事件についてまるで興味がなさそうだった。自分の勤める病院で人が三人も死んだというのに他人事のようだ。
「う〜ん」
電子錠で施錠されたセキュリティゾーンを一つくぐるたびに、量子が納得いかないような顔で唸る。いくつかのセキュリティゾーンを通り抜けると、食堂だった。食堂と言っても、キッチンがあるような場所ではなく、ただ弁当を食べるだけの場所である。ここは病院の入口から近く、面会するときにも使われているようだった。
「ねえ、このカードキーがないと扉は通れないんだよね?」
量子がネームタグを指で摘んだ。百合が首から下げているものはゲスト用とは違い、しっかりしたカード型でセキュリティキーにもなっている。ゾーンをくぐるときに電子錠にかざす必要があるので、彼女と離れることは出来ない。つまり、勝手なことは出来ないということだ。
「ええ。鍵穴はないのでピッキングはできませんし、頑丈なので壊すのは難しいと思います。実際、壊された形跡はありませんでした」
「ふうん」
量子は納得いっていないようだった。彼女は警官と一緒になって扉を念入りに調べたが、百合がいった通り、扉はピタリと閉じており、オートロックなので締め忘れることもなさそうだった。量子と警官は仲が悪かったはずなのに、どういうわけか今は扉の開け方を真剣に話し合っていた。
「ミステリだったら、ここでなんらかのトリックがありそうですね」
警官と量子が頷きあう。
「あのなあ。これは現実であって……」
「ここと各自の部屋の間にはセキュリティのかかった扉はないんだよね」
灰原を無視して量子が百合に質問する。灰原はムッとしたが、ここで何かを言うのは大人げないと思って我慢した。
「ええ、そうですね。部屋やここから屋上へ行くには扉は2つ通る必要があります」
食堂から階段へ続く扉、そして、屋上の扉だ。
「セキュリティログは?」
ビクリ、と百合が体を震わせた。彼女は驚いたときに行動に出やすい。
「ええと……」
「あんたのカードキーが使われてた?」
量子が百合のカードキーを指差す。
「え? どうして」
百合が驚いて顔を上げた。
「やっぱりね」
量子がしたり顔で腕を組んで顎に指をやった。
「どういうことだ?」
「え、わからないの?」
量子が馬鹿にしたような顔で灰原を見る。その態度に苛ついたが我慢だ。
「なんだよ、悪いかよ。どうせ当てずっぽうだろ?」
「違うよ。ほら、この子、看護師長から嫌われてたじゃん。それに、周りは忙しそうにしてるのに、この子だけあたしたちの案内なんて役をやらされてる。つまりハブられてるんだ。その原因は?」
「彼女のカードキーが使われていたから……? そうはいっても、誰かが盗んで使ったかも知れないだろう」
「わかってないね。女ってのはね、疑わしきは罰するのさ。まあ、女っ気のない灰原課長殿にはわからないのは仕方ないかも知れませんけどね」
「うるさい。それと、俺は課長代理だ」
灰原はつい我慢できず声を荒らげてしまった。百合が泣きそうな顔で俯いた。
「わ、悪気はないんだ……すまん」
灰原が慌てて彼女を椅子に座らせる。夜ともあって、食堂には患者が数人いたが、全ての椅子が埋まっているわけではなかった。
百合が涙をこぼす。ポケットから可愛らしいハンカチを出して涙を拭った。ちょうどその時、椅子の後ろを通った別の看護師がわざと椅子にぶつかって、彼女はハンカチを落としてしまった。
「犯罪者のくせに、楽な仕事回してもらえていいわね」
謝りもせずに、ぶつかった看護師はそう言って歩いていった。彼女が嫌われているのは本当のようだ。
「ちょっと、あなたねえ」
警官がぶつかった看護師を追いかけていった。
灰原がハンカチを拾って、埃を払う。
「犯罪者って……」
「まあ、三人は自殺って言われてるけど、ここの人は他殺だと思ってるんでしょ。だって、ここから抜け出して同時に屋上から落っこちるなんて不自然だもん」
追い打ちをかけるように量子が言う。ハンカチを受け取ろうとした百合は激しく泣き出してしまった。
「おい……」
灰原はたしなめようとしたが、やめた。ここは女の悪意に満ちている。男の自分がなにを言っても無駄だ。無駄どころか、より悪い方向に向かうだろう。それくらいは知っていた。女社会にとって、男は蚊帳の外だ。
彼女が落ち着くまで量子に任せることにした。女の涙は苦手だ。任せたのではなく、逃げたのだ。
食堂のテーブルの隅で、見覚えのある女の子が座っているのが見えた。
「あれ?」
近づいてみると、やはりそうだった。九条博士の病院の待合室で、量子と揉めていた少女だ。ガリガリに痩せていて、見ていると不安になる。服から覗く手足は、カミソリで切った痕があった。平行に何本も綺麗に等間隔に切られている。かなりの数で、切られていない箇所を探すほうが難しいほどだ。あの保護者らしい女性は、先程病院の外に追い出されていたから一人なのだろう。
「どうしてこんなところに?」
言ってから、迂闊だと気づいた。ここにいる理由なんて一つしかない。慌てて言い訳を考えたが、彼女は気にする風もなく、ぼんやりと灰原を見上げていた。どうやら彼のことを覚えていないらしい。彼女の前に屈んで目線を合わせる。
「ねえ……」
「美味しそう」
少女はすっと立ち上がると、灰原の頭を両手で掴んだ。
「え?」
灰原が状況を飲み込めないうちに、少女は灰原の頭に噛みついた。
「わっ」
灰原が悲鳴を上げると、看護師が飛んできた。
「ちょっと、何してるんですか」
看護師が灰原から引き剥がそうとするが、万力で絞められたみたいに引き剥がせない。
「誰か人呼んできて。警備も」
看護師が叫ぶ。
そのとき、少女が何か呟いているのが聞こえた。
「助けて。助けて。点滴が怖いの。点滴をすると天井に逆さ吊りの女の人が見えるの」




