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第2章「特別捜査官」
課長席の電話が鳴った。この時代に、デスクの固定電話が鳴るというのは滑稽だが、これこそまさに警察組織という古い体質の現れだ。灰原が受話器を取り上げると、粘っこい声が聞こえた。たったひとこと聞くだけで誰の声かわかる。
「やあ、灰原課長」
「課長代理です、局長」
警察庁警備局の警備局長だった。つまり、特殊犯罪対策室の上部組織に当たる。彼はかなり強引なやり方で局長にまで上り詰めた男だ。粘っこい喋り方から分かる通り、相手の嫌なところばかりを正確についてくる。そうやって何人も蹴落として出世するタイプの人間である。だから、彼から話を持ちかけられて楽しいことなんてなにもない。もちろん、役職の言い間違えもわざとだ。ノンキャリアの灰原は、基本的に課長にはなれない。せいぜい係長止まりだ。それが特殊な部署とはいえ課長代理だというのだから、キャリア組が面白がって馬鹿にしているのだ。
彼の声を聞いた瞬間から灰原は嫌な予感がしていたが、その予感は的中した。
「君たちに調べてもらいたい案件があるんだ」
喋るたびに、ネチャネチャと音がして不快だ。
「その口ぶりだと、まだ事件化されていないようですね」
「ああ、早い話、君たちのやっている胡散臭い……失礼、君たちの力が必要というわけだ。事件にさせないようにね」
「資料は……」
「特殊犯罪対策室のサーバにアップロードしておいた」
特殊犯罪対策室のサーバにアクセスすると、旧市立病院事件というディレクトリが新規作成されており、中にはA4のページ一枚の報告書だけが置かれていた。
「たったこれだけですか?」
「ああ、たったそれだけだ」
ワープロソフトで作られた簡単な報告書を開くと、資料が簡単な理由も、こちらに投げられた理由もわかった。報告書の最初に「不可解で不気味」と赤字で書かれている。
量子が部屋のテレビの電源をつけた。
「おい、電話してるのが見えないのか」
「いちいちうるさいな。だったら、自分の部屋を作ってもらいなよ。ここはみんなの部屋なんだから」
量子はソファにどっかりと座り、ローテーブルに足を乗せてスナック菓子の袋を開いた。まるで自分の家のようなくつろぎ様だ。
「せめて音量を下げろ」
「はいはい、わかりましたよ」
量子がテレビの音量を下げようとしたとき、灰原が「待て」と叫んだ。その声量に量子はびっくりしてリモコンを落としてしまった。
「なによ。びっくりさせないでよ」
量子が抗議の目を灰原に向けたが、彼の目はテレビ画面に釘付けになっていた。
「本日午前、旧市立病院で患者3名が屋上から飛び降り……」
「もうニュースになってるねえ」
受話器の向こうから、まるで他人事のような声が聞こえる。
「人が殺されたってわけじゃないしねえ。自殺だからねえ。だから、まだ事件とは言えないんだけどね。ただ、これは僕の勘なんだけど、なんだか臭いんだよねえ」
この男の嗅覚は正確である。その嗅覚によって、自身のキャリアに不利なことには他人に押し付けるということを徹底してきた。それだけで、並の出世ではたどり着けない地位にまで上り詰めたのだ。この件がこちらに回ってきたのは正しいのだろう。
テレビ画面では患者が飛び降りたとされる屋上が映っていた。地面に赤いペンキのようなもので逆五芒星が描かれている。
「あっ」
量子が叫ぶ。慌てて灰原が唇に指を当てた。量子は顔の前で手刀を切りながら、もう片方の手で画面を指差す。
「じゃあ、頼んだよ。くれぐれもね」
そう言って、彼は一方的に電話を切った。
「これ事件? 事件だよね?」
量子が楽しそうに灰原の周りを走り回る。すでにテレビ画面はグルメコーナーに変わっていた。
「ねえ、見た?」
「見たよ。病院だろ」
「違うよ、ばか?」
「ばかって……一応お前の上司なんだが」
役職の上では上司であるが、量子がそう思っていないことは明らかだった。彼女は警察職員ですらない。外注の業者のようなものであるので、ここで部下のように叱ってしまうと下請けいじめだなんだと叩かれてしまう。
「あの映像の端っこに、ほら」
量子がPCを操作する。動画サイトで、先ほどのニュース映像がすでにアップロードされていた。それを再生すると、先ほど見たものと全く同じだ。
「なんだ?」
「もう、にぶいなあ」
再生が終わった動画を量子がもう一度再生して、途中で止めた。
「あっ」
思わず頓狂な声をあげてしまった。画面の端っこに、九条博士が映っていた。
「何してるんですか……」
灰原がため息をついて手で目を覆った。別部署の役職者から、また何か嫌味を言われそうだ。
「あのジジイ何してんのかな。すごい嗅覚じゃん」
「おい、ジジイって九条博士のことか」
「それ以外、誰がいるのよ」
「いくらなんでも口が悪すぎるだろう」
「……ねえ。あたし、誰かに言われた気がするんだよね。九条博士を信じるなって。夢だったかもしれないけど」
思い出そうとすると、指の間から砂がこぼれてゆく感触がした。
量子が自分の言葉に驚いたような顔をした。灰原は、その顔を見なかったことにした。九条博士に拾われた娘が、九条博士を疑う。それは彼女の問題であって、脳を半分預けている自分が口を出せることではなかった。
「九条博士とは長いんだろう?」
「まあね」
量子が顔を背ける。灰原は九条博士が量子の親代わりのようなものだと思っていたが、量子はそう思っていないようだ。イラついているのか、爪を噛んでいる。他の指には綺麗にマニキュアが塗られているが、親指だけがボロボロだ。不味くないんだろうかと灰原は思ったが口には出さなかった。
九条博士の携帯電話に電話したが、電源が入っていなかった。彼は自分が誰かと連絡を取りたい時以外は電源を切る癖がある。彼曰く、携帯電話は持ち運びのできる公衆電話なのだそうだ。
量子にせっつかれて灰原は車に乗り込んだ。彼女にせっつかれなくとも、すぐに着手しなければ警備局長からも文句を言われるだろうし、現状、警察はこの件に関して何もしていないに等しい。取り組んでいる姿勢を見せないと、市井からの覚えも悪い。つくづく自分は公務員気質だなと灰原はため息が出る。助手席に座って居眠りをしている量子が羨ましい。彼女はなんの責任もなく、誰からもせっつかれることはない。
自分の脳髄が半分無くなったと聞かされた時のことを思い出す。不思議と動揺はなかった。「そんなもんか」と思っただけだ。それが、脳を失ったからなのかはわからない。ただ、薄ぼんやりと、刑事になった時からこういう日が来るような気がしていた。
「ついたぞ」
旧市立病院の駐車場に車を停めて、灰原が言った。到着した頃には日が落ちそうな時間になっていた。量子は睡眠を妨害されたことに腹を立てた。不機嫌そうな顔で車から降りるが、そこから見える規制線を見るなり機嫌を取り戻した。
すでに飛び降りの現場付近に野次馬はいないが、現場保全のために若い警官が立っていた。灰原より先に、量子が現場に走っていった。ただの好奇心ではないことが、灰原にはわかった。彼女はアスファルトを見ていた。テレビに映っていた、赤い五つの角のあった場所を。
だが、そこには何もなかった。鑑識が洗い落としたのだ。
「消しちゃったの?」
量子の声が裏返る。規制線をくぐろうとする彼女を、若い警官が野良犬でも捕まえるみたいに止めた。
「なんで見せてくれないの」
「一般人は立ち入り禁止です」
「あたしは警察だって言ってんじゃん」
「嘘はだめですよ」
「あー、触った。痴漢」
量子が警官に罵詈雑言を飛ばす。警官も頭に血が上ったのか、何事か喚き散らした。
ようやく追いついた灰原が警察手帳を見せると、興奮していた警官が驚いたような顔で灰原と量子の間で視線を行ったり来たりさせた。量子が勝ち誇ったような顔で警官を見下す。
「失礼しました」
警官は灰原に向かって敬礼をしたが、量子のことは最後まで睨みつけていた。




