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「さっき、受付に変な女がいたの」
検査をすべて終えると、量子は先ほど遭遇した女たちのことを話した。九条博士は全く興味なさそうだ。
「美味しいとか言うのよ。気持ち悪い」
「誰が? 何を美味しいって?」
思いもよらず九条博士が興味を示したことに、量子は驚いた。
「あたしを」
「だから、君の何を?」
イラついたように九条博士が言う。
「首筋を舐めて言ったの」
「どっちの。右かね。左かね」
量子は舐められたあたりを手で触った。ちょうど、ニューロンコネクタがある場所だった。
「ほう」
そう言って何かを合点したようにニヤリと笑ったきり、もう量子の話は聞いていないようだった。
九条博士は昔からこうだ。彼との付き合いは、思い出せる限りでは事件の後からである。だから五年だ。彼曰く、もっと昔から交流はあるらしいが、量子は彼にあった覚えがない。しかし、量子が特別捜査官になれたのは他ならぬ九条博士のおかげだし、こうやってニューロンコネクタの装着者になれたのも彼のおかげである。だから、多少難があっても彼には感謝している。敬語を使わなくても怒らないし。
ニューロンコネクタは非常に新しく難しい装置なので、警察以外に使用は許可されていない。許可されたとしても、シナプススキャナがなければ何の意味もないし、九条博士以外が作れるわけはない、と本人は豪語している。彼の自尊心はヒマラヤよりも高いのだ。
九条博士は量子がそんな思いを馳せているとは知ってか知らずか、コンソールの画面を見つめている。そこには量子の検査の結果が表示されていた。
『記憶消失』
赤文字で表示されたそれは、量子には伝えていない。かつて、量子の前任のニューロンコネクタ装着者だった灰原にもこの表示があった。その頃は、シナプススキャンに適性があることがわかっていなかったことから、灰原の記憶の消失は量子よりもずっと早かった。記憶がなくなるだけではない。気付いた時には脳の半分が機能しなくなっていた。機械脳になった彼が生きているのはただの奇跡だ。それを彼らには伝えていない。
量子と灰原の様子を盗み見るように、九条博士は上目遣いに彼らの様子を覗った。この事実を伝えたら、彼らはどう思うだろうか。騙されたと思うだろうか。ニューロンコネクタを外せと言うだろうか。
否。彼らはそんなことでは怖気付かないだろう。そういう人材を選んだ、そういう人材に育てたのだ。
灰原にとって、量子の登場は奇跡だった。自分の代わりにスキャナになってくれたのだから。これ以上続けていたら、機械脳だったとしても、彼は人格まで破壊されていただろう。
奇跡——九条博士は、その言葉を口の中で転がして鼻で笑った。この技術は、もともと量子のために作られたものだ。灰原は、器が合わなかっただけのこと。この事実を知るのは九条博士しかいない。加えて、彼の助手だった男だけだ。もし、それを正直に報告していたら、捜査にシナプススキャナを使うことは禁じられていたろう。
新しい技術であることから、ニューロンコネクタを装着したものが、シナプススキャナを介さないと他人の意識に干渉できないという規則ができた。本当はもっとスマートな方法があるが、到底受け入れられないだろう。いつの時代も、新しい技術というのは理解が得られない。
九条博士は鼻を鳴らす。それに量子が気付いて顔を上げた。九条博士は誤魔化すためにメガネを指で押し上げた。
「量子君。君の脳は観測者脳だということは伝えたね。量子的に存在する記憶を観測可能な脳だ」
そう、彼女は類稀なる特性を脳に持つ。彼女の脳は劣化しづらい。
「シュレディンガーの猫ってやつね」
量子が得意げに言う。インターネットで齧った知識だろう。
「シュレディンガーの猫ね」
九条博士が苦笑いする。量子はバカにされたと思って頬を膨らませた。
シュレディンガーの猫というのは、ミクロな世界のことであるので、人間が直接観測できるマクロな世界では……と説明しようとしたがやめた。
「君の言うとおりだ。いや、感服した。君がそこまで優秀だと思わなかったよ」
嫌味のつもりで言ったのだが、彼女はわからなかったらしい。素直に喜んでいる。可愛いものだ。
彼女らを見ていると、どこかで聞いた言葉を思い出す。
「人間は不完全だからこそ、善悪を選択する価値がある……か」
九条博士はまるで臭いものでも嗅いだような顔をした。
——馬鹿馬鹿しい。そんなはずあるか。人は生まれながらにして邪悪なんだ。
「え、何か言った?」
量子が聞き返したが、九条博士は答えなかった。
量子が帰る準備をしていると、受付で出会った女たちのことを思い出した。また鉢合わせたらと思うと気が重い。二度と会いたくない。あんな危ない奴ら、そうそう出会うことはないだろう。むしろ、病院を出てすぐ警察に捕まっていてもおかしくない連中だ。
灰原の椅子の脇のテーブルには、ステンレスのバットに空き瓶が載せられていた。ラベルには「脳組織抽出液」と書かれていた。九条博士の筆跡である。
「これって、さっき言ってたMemoryなんとかってやつ?」
空き瓶を触ろうとすると、九条博士が先にそれを取り上げる。
「脳組織って誰の?」
九条博士は答えない。
「ねえ」
なんだか嫌な予感がした。
「うるさいねぇ。ピーチクパーチクと。君たちには説明したってわからないだろう?」
「説明してみないとわからないじゃない」
量子が瓶を九条博士から奪おうとする。九条博士は蝿を払いのけるみたいに鬱陶しそうに手で払い除け、量子に向かって人差し指を突き出した。
「いいや、わかるさ。君たちの頭蓋の内側にある矮小な脳味噌にはね、私はなんの期待もしてないんだよ。いいか、この九条を舐めるんじゃあないぞ。君のニューロンコネクタに毒を注入することだってできるんだ」
想像して、ゾッとする。「九条博士に命を握られているようなものだ」という灰原の言葉を思い出す。すでに量子も彼に命を握られているのだ。
九条博士越しに灰原を見るが、彼は諦めたような顔で首を振っただけだった。
量子は九条博士に謝って、部屋を後にした。これ以上ここにいても喧嘩になるだけだ。今まで、九条博士とは何度となく衝突している。一度だって言い負かすことができたことはない。
「クソジジイ……」
扉の外で量子が呟く。
「聞きましたよ」
変なマスクで顔をすっぽり覆った白衣の男が、唐突に量子の視界に現れた。量子はヒッと声を上げた。どうして彼ら研究者は普通に話しかけてこられないのだろうか。量子が飛び退くと、愉快そうに男は笑った。
「Memory-X。気になりますよね?」
よく見ると、マスクはペストマスクのようだった。声が響いて聞こえる。
「どこで聞いたんですか」
Memory-Xのことは量子だって先ほど聞いたばかりだ。
「ここで、こう、耳をつけて」
診察室の扉に、彼は滑稽な格好でへばりついた。ただの盗み聞きだと言いたいらしい。気味が悪いので無視した。
「あ、待って待って。話を聞いて」
ペストマスクが追いかけてきたので、量子は走って逃げた。どうしてこの病院には変なやつしかいないんだ。患者も医者も研究者もみんな変だ。
帰る最中、ふと、あの診察室の扉を思い出した。本当に、あんなに分厚い扉に耳をつけたくらいで中の音が聞こえるものだろうか。




