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現在
「なにか変わったことはあるかね」
検査室で横になった量子を上目遣いに見て、九条博士がいう。
「首筋に痺れるような痛みがあるわ」
神崎の意識世界で感じた痛みが、現実に戻ってきてからも続いていた。飛び上がるほど痛いというわけではないが、地味に不快感がある。
「なるほどなるほど」
九条博士はニューロンコネクタを触ってみたり、なにかのケーブルを挿してみたりしてモニタリングした。
「脳波をダウンロードするときにノイズが混じっているのが原因だろう。ソフト的に対処できるなら問題はなさそうだ。フィルタリングするかバイパスできるようにしよう」
九条博士が電子カルテになにか書き加えてゆく。それが終わると、待ってましたと言わんばかりに舌なめずりしながら両手を揉んだ。
量子が目を瞑ると、大仰なヘッドギアが取り付けられる。ヘッドギアとは名ばかりで首元まですっぽり覆われる。量子はこれを密かに金魚鉢と呼んでいた。
「聞こえるかね?」
金魚鉢の内側にスピーカーが取り付けられており、そこから九条博士の声が聞こえてくる。
「聞こえる」
量子が答えると、九条博士は「よしよし」と歌うように言った。
未だに量子はシナプススキャナの仕組みを上手く理解できていない。おそらく、理解しているのはこの世で九条博士だけだろう。
「おや?」
九条博士が頓狂な声を上げた。彼にしては珍しい。
「量子君。右目がどうとか言っていたね?」
「ええ。右目が痛くて」
「ふむふむ」
一体何事だろうか。一人で納得されても困る。自分の体のことなのだ。不安になると余計右目が痛んだ。
「君の右目だがぁ……」
九条博士はたっぷりとためて言う。
「揺らいでいるね」
「どういうこと?」
「つまりねえ、右目が電子化しているんだな」
彼なりにわかりやすく言ったつもりなんだろう。全くわからない。
「電子化って……あたしは生身よ」
灰原の左目を思い浮かべる。手術を受けた覚えはない。
「そうなんだがね。そうとしか言えない状態なんだなぁ。君の右目は生身でありながら、量子もつれした神経細胞が観測者脳の活動を反映している。電子化とは、眼球の物理的構造が崩れ、波動関数で表される量子状態で存在する現象ということだ」
少しもわからない。
「もう少しわかりやすく説明できないの? あたしはあんたほど頭が良くないの」
もう五年の付き合いになるのに、九条博士は一向に変わらない。自分にしかわからないような言い方しかしないのだ。
「なにぃ?」
九条博士がこちらを睨んでいるのを感じる。見えないが、確実に睨んでいる。
「君たち凡人は、本当に勉強不足であることを恥じたほうが良いねえ。わかりやすく言うとだねえ、右目が3次元+時間軸+意識次元の6次元空間にまたがって存在しているのだよ。通常の視覚では捉えきれず、観測するたびに像が不安定になるのだ。つまり、右目が存在する状態と存在しない状態が重なっているわけだ」
「右目が存在しなくなる……右目がなくなっちゃうの?」
「まあ、そうなるね」
「困るんだけど」
量子が叫んだ。
「やかましいねえ。別になくなるわけじゃない。存在が曖昧になっているというだけだ。君自身にはなんの影響もない」
「本当? なあんだ。騒いで損した」
結局意味はわからなかったが、悪くなったわけではないらしい。量子は安堵と共に立ちあがろうとした。その瞬間、九条博士が止めようとこちらへ手を伸ばしたのを見たが、彼は間に合わなかった。量子の首筋にあるニューロンコネクタに挿さっていたケーブルが抜け、そこから黒い液体が漏れ出した。
「ぎゃっ」
ケーブルから漏れる黒い液体を見て、量子が叫ぶ。同時に、自身の首筋から冷たい液体が零れるのを感じた。
「ああ、なんてことだ。君ぃ、この液体は貴重なものなんだよ。取り扱いには気を付けてくれたまえ」
九条博士は量子が怯えていることよりも、ケーブルから液体が零れたことの方が重要だったようだ。
「なんなの、これ」
量子が叫ぶ。
「本当にやかましいねえ。これはMemory-Xという貴重な物質なんだよ。灰原君の冷却液もこれが使われている」
「どうして冷却液がニューロンコネクタから出てくるのよ」
「君はシナプススキャン中に首筋が熱くなったと言っていたろう?」
「それがどうしたのよ」
「もし、これがなかったら熱いどころじゃなかったろうね。君の体はドロドロに溶けていたろうよ」
量子は言葉を失った。そんな危ないことだったのか、と今更になって恐ろしくなった。
「おやぁ、顔色が悪いね。やめるかい? そうなったら君はお払い箱だが」
九条博士は意地の悪そうな表情で量子を見つめる。逃げられないことを彼はわかっているのだ。
「誰が辞めるなんて言ったのよ」
精一杯の虚勢を張ったつもりだった。声が震えているのはわかっていた。
「勇ましいね。じゃあ、文句を言わずにさっさとそこをどいてくれるかね」
九条博士が量子に雑巾を投げつける。量子はそれを受け取って首筋を丁寧に拭いた。雑巾に滲んだMemory-Xを眺める。こんな得体の知れないものが体の中に入っているということが気持ち悪い。もっと気に入らないのは、それを事前に説明していなかった九条博士だ。彼は一流の研究者だが、他人への共感力に欠けている。Memory-Xだかなんだか知らないが、こんな得体の知れないものを体に入れて、被験者がどう思うかなんて考えたこともないのだろう。
ニューロンコネクタはぱっと見ではわからない。人工皮膚と同化しているからだ。これにスキャナを近づけることでコネクタが露出する。とはいえ、それを装着している本人は違和感があるので、その部分を拭き取るときや風呂に入っているときは気をつけている。
コンソールから、耳障りな警告音が響いた。
「どうしたの?」
量子が尋ねるが、九条博士は答えない。早足にコンソールへ近寄ると、画面を見て眉間にシワを寄せた。
冷却液を交換中の灰原がうめき声を上げる。その声は徐々に大きくなっていって、声を上げるだけでなく、体がのけぞるほど動き始める。彼の左脳部のヒートシンクから湯気が上がり、床に水滴が滴る。
「ねえ、どうしたのよ」
九条博士は答えない。その間にも灰原の動きが激しくなってゆく。白目をむいて口から泡を吹いた。
量子はどうすることもできない自分にもどかしさを感じた。苦しんでいる人が目の前にいるのに何もできないのは、自分も苦しい。今も病院で意識を取り戻せない姉を思い出す。どうして、自分ではなかったのかという自責の念が頭をもたげる。
九条博士が何かの操作をすると、徐々に灰原は落ち着いていった。
「何を泣いている」
灰原が目を覚まし、量子に声をかけた。知らぬ間に泣いていたらしい。
「泣いてませんけど」
量子が灰原を殴る。再び灰原がうめいた。
「死ぬかと思ったんだから」
「誰が?」
「灰原さん」
「俺が死ぬはずないだろう」
どういう自信なのかと思ったが突っ込まなかった。
「そんなに苦しむのに、どうしてまだこの仕事を続けるの?」
「またその話か」
「だって……」
先ほどの灰原の苦しみようを思い出す。
「正義のためだ。正義のためなら、どんな犠牲も厭わない。たとえこの命を落としたとしてもだ。それが、刑事というものだ」
灰原が量子の目をまっすぐに見据え、はっきりと言い放った。車の中では、九条博士に命を握られている、と言っていたくせに。どちらが本音なのか、量子にはわからなかった。
量子は灰原のことが苦手だ。灰原と初めて話したのは、量子が特別捜査官になってからだったが、最初から彼のことが苦手だった。堅苦しい、正義正義とうるさい。量子は自分の復讐さえできればそれでいいのに、それ以外のことにかまけている暇はないのに、彼はこちらにも正義を押し付けてくる。それが嫌だった。
灰原も量子が苦手だった。若い女のことなんてわからない。灰原はもう30歳になる。女っ気はない。それに、彼女の態度は若者らしい怠惰なもので、つい小言を言ってしまう。
そんな二人がうまくいくはずもない。今まで、この特殊犯罪対策室で解決した事件はまだ0である。




