第五話 憐憫の情
今日も変わらぬ一日を過ごすはずだった。
たまたま通勤中靴紐が切れて、いつも座れるはずの電車は何故か満席で、急なシフトの変更により苦手なお局様と同じ勤務に変更されていた、そんな朝だった。
(まぁ、そんな日もあるわな……)
朝から気になる日常の僅かなズレ。
こんな日は気を引き締めないと痛い目を見る。
それは分かっているのだが、なんとなく気分が乗り切れずにいた。
相手の体調だけでなく、気持ちにも寄り添うことを求められる。
それでも、こちらも『人』であり、気分にも波がある。
それでもどうにか笑顔で仕事をしていた、そんな時だった。
昨日施設に入所されたばかりの、新しい利用者さんの排泄のお手伝いをさせてもらっていた時だった。
良いところのお嬢様だったという利用者様が、何度も繰り返し口にしていた言葉が心に刺さった。
多分、彼女の優しさなのだと思う。
こちらを思い遣ってくれた言葉なのだと言うことも理解できる。
それでも、心がつきんと冷たく痛んだ。
「こんなお仕事なさるなんて可哀想ね、申し訳ないわぁ」
眉尻を下げて、憐れまれている。
その女性は右半身が麻痺しているから、トイレに座るにも介助が必要だ。
それでも、オムツを選択するのは最終手段にしたいという本人の希望で何度もお手伝いをした。
やり甲斐のある仕事だ。
それでも、この言葉だけは、忘れた頃に繰り返される。
それでも。
(その言葉は、私より先に、あなた自身を哀れにしてしまっている)
その事実に気づかないのだろうか。
私は彼女に「大丈夫ですよ、介護の仕事が嫌いじゃないんです」とだけ返した。
自然に見える作り笑顔で。
「またお願いね」
彼女は朗らかな笑顔で手を振ってくれた。
私は軽く頭を下げ、個室を後にした。
いつもより憂鬱な出来事は、その後も続いた。
お風呂に入ることを嫌がるお婆様に、顔面に唾を吐きかけられた。
暴言を吐くお爺様にも、腕を思い切りつねられた。
何をしてもうまく行かない。
流石に落ち込む。
気持ちを変えたくて、窓際で外を眺めている黒田さんという穏やかな女性の利用者さんの元へと歩み寄った。
車椅子に座りながら遠くを見つめていた黒田さんは、私に気づくと、ふわりと柔らかく破顔した。
そして小さく手を振ってくれる。
「真ちゃん、休憩?」
普段なら休憩時間。
今日はまだ担当の利用者さんたちの生活の記録を書けていないから、休憩は諦めた。
それでも、この気持ちをリセットしたかった。
私は床に座り込み、黒田さんの膝の前まで体を寄せた。
「お願いがあって……黒田さん、ちょっとだけ甘えさせてください」
私の突然のお願いに、黒田さんは一瞬目を丸くしたが、ゆっくりと自分の膝をポンと叩いて「いらっしゃい」と頷いてくれた。
私は遠慮なく黒田さんの膝に頭を預ける。
私が新人の頃から、何かあるたびにこうして甘えさせてくれる。
元々繊細で優しい性格の人なのだろう。
笑顔の変化にもすぐ気がついては「こっちへいらっしゃい」と呼んでくれた。
黒田さんがいてくれるから、私はこの場所でも呼吸がしやすい。
膝に頭を預けていると、黒田さんがゆっくりと頭を撫でてくれる。
少し曲がった指で、丁寧に。
「真ちゃんは私の孫のようで可愛いわねぇ」
そう言って微笑む彼女に、私は毎回甘えてしまう。
目を閉じて、黒田さんが触れる感覚を楽しんだ。
繰り返し撫でられていると、まるで自分が幼い日に戻ったような気持ちになる。
「黒田さんと会えたことが幸せです、居てくれて良かった」
そう伝えると、黒田さんは「こんな私でも、お役に立ってよかったわ」と穏やかな声で顔を綻ばせた。
膝を借りたのは、時間にしてみれば三分にも満たないものだった。
他の職員や利用者にも目撃され「神崎さんまた甘えてる!」とか「こっちの膝もあるよ」と笑い声が上がる。
普段はキツめのお局様からも、珍しく「まぁ、黒田さんが嫌がってないからよしとする」とお許しをいただいた。
そのおかげで、午後を乗り切ることができたように思う。
他の利用者さんたちも、普段より弱っていた私に気づいてくれていたようで、いつもよりたくさんの優しい目が私を追いかけていた。
こういう感覚的な気遣いが、私にはまだ叶わない。
歳を重ねていくごとに増える人生経験というものは、宝物なのだと黒田さんが言っていた。
老いも、白髪も、自分だけの宝物だと言って笑う黒田さん。
いつか私も、そんなふうに歳を重ねられたらいい。




