第四話 再会
私は裏庭に面した部屋の窓を静かに閉めた。
刈りそろえられていない芝生をそろりそろりと踏みながら、祖父母の住む離れを背にして道路へと抜ける。
父が「お前に遺してやる」という平屋も敷地の片隅にあるが、昔ながらの和室二間に汲み取り式便所というレトロすぎる造りだから、今は使われていない。
リフォームすれば住めなくもないだろうが、自分の金を注ぎ込んでまでここに縛られる気にはなれなかった。
近くの交差点にある信号はもう点滅信号に変わり、走る車の姿も見えない。そこはもう、カエル以外起きている存在の少ない田舎の夜だった。
満月のせいか、道全体がぼんやりと明るい。
昼間とは違う、目に優しい明るさが私は大好きだ。
田んぼに向かう道をのんびり歩けば、遊ぶ人のいない公園や夜の小学校が薄黄色に照らされていた。
街灯は少ないが、こんな日は昼間のように遠くまで見渡せるくらいには視野が広がる。
小学校を通り越し、その先にある中学校を眺めながら田んぼ道へと入る。
(佐伯の家は山の下のどの辺りだろう)
そんなことを考えながら、私はいつもの畦道へと到着した。
ここは一本奥に入れば枝垂れた木が何本もあるから、いざという時身を隠しやすい。
そのくせ、手前は開けているから開放感も安全も両立させられる。
私は畦草の上でサンダルを脱いだ。
そして少し歩きながらシャツに手をかける。
ぐいと一気に引き抜くと、それだけで圧倒的に息がしやすい。
それを道端に置き、次いでブラトップを脱ぎ捨てた。
脱いだ直後は温度差なのか少しだけ鳥肌が立つが、適当に畳んで置く頃には涼やかな風が心地よく感じる。
歩きながら短パンを脱ぎ、下着も脱ぎ捨てた。
夜風がふわりと解放された肌を撫でる。
露天風呂に入るより清々しい。
ようやく、1日が終わっていく気がした。
脱いだ服は点々と置いてあるが、どれも地味な色で目立たないし、全て道の脇に置いてあるから通行人の邪魔にはならないはずだ。
サンダルのおかげで、今日は脱ぐものも少なかった。
私は月明かりに照らされた畦道を、ファッションショーのランウェイのように、鼻歌を歌いながら歩いた。
全ての方向から聞こえるカエルの合唱は、いわば会場に流れる大きめの音楽のようなものだろう。
(……知らんけど)
ファッションに縁のない生き方のせいで、残念ながら華やかな妄想は捗らない。
足の裏がゆっくりと柔らかい草を踏み締めていく感覚に意識を集中させる。
少し湿った土が、柔らかく刺激してくれるおかげで、この場所が現実なのだと受け入れられた。
まれに田んぼから隣の田んぼへと移動するカエルに驚かされるが、踏み潰さないよう擦り足気味に歩くのも慣れたものだ。
ちゃっちゃっちゃっちゃっ……
遠くからアスファルトに爪が当たる足音が聞こえる。
猫は爪をしまえるから足音は無いと聞くが、子供とはいえ大型犬の足音は夜道に響くらしい。
音はまだ道路を走っている。
無音になると、畦道に入ったのだとわかる。
「ゔふっ、ゔふっ!!」
妙に籠った鳴き声が聞こえた。
振り返るとリードをつけていないハナコが私の脱ぎ捨てたものを拾い集めながら駆けてくる。
ポロポロと口から溢れたものは、後ろにいる佐伯が腰を曲げながら集めてくれているようだ。
「ゔわふっ!」
口に咥えながらも、ちゃんと鳴いて挨拶をしてくれるあたりが弟より人間ができている気がする。
足元まで辿り着いたハナコは、口から私の服を吐き出した。そして、褒めてと言わんばかりにまん丸な目で見上げてくる。
私は両手でわしわしと首回りを撫でた。
「お前って本当に可愛いねぇ」
褒めるたび鼻息がぷすぷすと荒くなるが、口を広げるその顔がご機嫌な笑顔に見えて愛らしい。
後ろに続く佐伯は、私への配慮なのか右斜め上を見上げつつ、頬を染めながら近づいて来た。
シャツの上に薄手の半袖パーカーを羽織っていたが、いそいそと脱いで私に差し出した。
「こんばんは、神崎さん。……僕のパーカー羽織ります?」
「いやだよ、せっかく脱いだのに」
「あ、そうですよね。すみません」
この時間だから許される解放感なのに、また服を着る意味がわからない。
そもそも先にこの場所を見つけて脱いでたのは私が最初なんだから。
「気まずいなら散歩に付き合わなくてもいいのに」
そういうと、佐伯はパーカーを頭から被った。
「気まずいんじゃなく恥ずかしいんです、視界に全裸の神崎さんが入ってしまって……」
「視界に入るのは仕方ないが、はっきり見える有効視野が水平60度って考えたら、こうして真横にいればぼんやりとしか分からんだろ?」
私は佐伯の真横に立った。
横並びで歩けば、フクロウでもない限りはっきり捉えることは出来ないはずだ。
「そういう問題じゃ無い気がします」
佐伯が弱々しく呟くが、それ以上のツッコミはないらしく並んで歩いた。
テレビドラマの犯罪者のように、頭からパーカーをかけた男と、その隣を歩く全裸の女。
前方にはノーリードではしゃぐラブラドール。
出会いが全裸だったから、今更隠すものもない。
佐伯は通報する気もないようだ。
「うん、悪くない夜じゃないか」
私は思わず呟いた。
こんな時には一服……とズボンのポケットに手をやったが、うっかり自分の尻を撫でてしまった。
その動作で気づいたのか、佐伯は拾ってきたであろう私のズボンを手渡した。
「お、さんきゅ」
受け取ると、短パンのポケットからココアシガレットを取り出す。
まだ四本あるから、今夜食べきっても何ら問題はない。
私は箱を開け、一本取り出すと佐伯の顔の前に差し出した。
少し猫背の佐伯と私の身長はどうやら同じくらいのようで、目線の高さが並んだ。
「ん」
差し出したココアシガレットを佐伯の唇に押し付けると、恐るおそるといった様子でそっと口を開く。
すっと差し込むと、私ももう一本箱から出してぱくりと咥えた。
地べたに腰を下ろそうとした私を佐伯が止めて、パーカーを敷いてくれた。
尻が汚れるくらい気にしないが、パーカーに生尻をつけるのは申し訳ない気がする。
そう言って断ったが、佐伯は「もう敷きましたから」と譲らなかったので有り難く座らせてもらうことにした。
ココアシガレットを咥えながら、その隙間から空気を吸う。
薄甘い香りと、湿った田んぼの空気が肺を満たす。
当然煙も何も出ないが、ココアシガレットを指で挟んでタバコのように息を吐いた。
「なんだか様になってますね」
隣に腰を下ろした佐伯が、鬱陶しい前髪の奥に見える目を細めた。
コリコリとリスのように少しずつ齧るのが佐伯なりの楽しみ方らしい。
「当たり前よ、ココアシガレット歴何年だと思ってるんだ。こちとら20年以上嗜んでるのよ」
「そんな愛煙家のオッサンみたいな言い方しなくてもいいじゃないですか」
佐伯はくすくすと声に出して笑う。
自分にはない繊細な笑い方に、人間性が出ている気がした。
私のビーチサンダルを咥えて遥か先を駆けるハナコが見える。
目を閉じると周囲の音が大きく聞こえた。
慣れているカエルの鳴き声が、不快なほど大音量に感じる。
再び目を開けると、遠くまで広がる田んぼと、その水面に反射する満月。カエルや風の動きに反応する波紋。そのどれもが一枚の絵のようで、美しいのに胸を刺す。
ふと視線を感じて顔を上げると、佐伯がこちらを見ていた。
裸を見ているわけでなく、まるで美術品でも眺めているような真剣な顔だった。
私は体育座りをしたまま首を傾げた。
「どした?」
無意識に眺めていたのか、佐伯ははっとした顔をした後、顔を赤らめて言った。
「月明かりで神崎さんに陰影がついて、まるでデッサンモデルみたいに綺麗だなって思ったんです」
(そういやこいつ美術部だったな)
「陰影は一人ひとり性別や年齢、体格で異なるので、美しさは千差万別なんです。その人にしかない美しさと言いますか……」
説明が長い。
しかし、褒められているようで気分は悪くない。
「今度描くか? 二割り増しで描いてくれるなら許す」
その提案に、佐伯の顔があり得ないくらいに赤く染まった。
「は、裸でですか?」
そうパニックしているが、「いまさらだろ」と言うと「そう言えばそうでした……」と膝を抱えてはにかんだ。
そんな姿がいちいち可愛く見えるのは、多分佐伯は少しだけ男性的ではないからかもしれない。
父のように声を荒げる事もなければ、考えを押し付けてくる事もない。
控えめに後ろで笑っている。
(まるで、うちの母や祖母みたいだ)
似ている部分に気づき、勝手に親近感が湧く。
「そういや漫画家なんだってね、読んでみたいから今度貸してよ」
そう言って、ニカっと笑いながら佐伯を見た。
佐伯は驚いたように口をぽかんと開けた後「少年漫画ですけど大丈夫ですか?」と聞き返した。
「うん、読んでみたい」
その直後、遠くの田んぼで水飛沫が上がった。
そして、べちゃべちゃと音を立てて泥の塊が走って来る。
それでも口に咥えたサンダルは死守してくれたようだ。
「うわぁ……」
思わず佐伯の口から漏れたため息混じりの言葉に、私は笑ってしまった。
「洗うの大変だな! とりあえず農業用水で軽く洗ってくか!」
私は佐伯が拾い集めてくれた服を着て、ハナコからサンダルを受け取る。
佐伯はドロドロのハナコを抱えて、畦道の脇にある用水路にハナコを入れる。
生活排水ではないから、この水は小さな魚やエビがいるくらいには綺麗だ。
大人の膝くらいまである水が、大型犬の泥を落とすのにちょうどいい。
二人でハナコの泥を撫で洗いする。
当のハナコは、冷たい水で遊んで貰ってると勘違いしているらしく、始終ご機嫌そうに尻尾を振っていた。
洗い終わると、ハナコは体全体をぶるぶるっと振るわせて水を飛ばす。
おかげで私たちもびたびただ。
帰ったらそっとシャワーを浴びないと布団で眠れそうにない。
「仕方ない、帰るか」
小学校の時計を見たら、深夜二時半になっていた。
「漫画は次に持って来ますね」
佐伯が笑った。
「次の夜勤は一週間後だから、その前日にまたここで」
そう言って、私たちは朝を目指して帰宅した。




