第三話 裏庭に続く窓
「ただいま」
返事のない静かな玄関に立ち、靴を脱ぐ。
入ってすぐ左に見える襖が床の間で、その奥にある襖が私の部屋への入り口だ。
床の間と私の部屋は内側の障子で隔てた続き間となっている。
廊下からそのまま自分の部屋に入る事もできるが、外から帰るたび仏壇に手を合わせるのが日課となっていた。
ご先祖様たちの遺影に囲まれながら、仏壇の前に置かれた座布団に正座する。
姿勢を正して「今日も無事に帰りました」と挨拶をした。特に線香を焚くことも、お鈴を鳴らすこともしないが、挨拶だけは欠かさない。
一番左端の曽祖父くらいしか名前は知らないけれど、この人たちが繋いでくれたから今の自分があるのだと言われて育った。
挨拶を済ませると、襖を開けて自室に入る。
四畳半の小さな和室。
学生の頃から使っていた勉強机が置いてあり、布団を敷いたらそれだけでもう十分に圧迫感がある。
それでも押入れがあるから、その中に三段ボックスを四個並べることで、部屋に入りきらない服や小物をしまうことができた。
この空間にあるものが、自分の全てだ。
部屋に残る、仏間から香る線香の匂いを胸一杯に吸い込む。
少しだけ、息継ぎを許された気持ちになった。
カバンを置き、仕事で着たジャージを持って部屋を出た。
部屋の隣にある勝手口から裏庭に出ると、古びた洗濯機が置いてある。
家族の洗濯機は家の中にあるが、畑仕事の泥汚れや私の仕事のジャージはここで洗う事になっていた。
父曰く、介護なんて汚い仕事の服を一緒に洗うな。との事だ。
(まぁ、綺麗な仕事じゃないわな……)
介護福祉士として働いてきて、聞き慣れてしまった言葉。
他人様の糞尿のお世話をするのだから、綺麗ではない。
私は自分の掌を見つめた。
洗いすぎて荒れた指先と、暴れる利用者さんの話を聞いて落ち着かせた時にできた内出血の後。
決して綺麗な見た目ではないけれど。
「ちゃんと手を洗ってアルコール消毒もしてるんだけどねぇ」
私は先に入っていた農作業用のツナギと、自分のジャージを入れて洗濯機を回した。
そして家の中に戻り、食卓へと向かうが足取りは重い。
台所へ続く扉を開けると、その向こうで両親と弟、離れで暮らす祖父母が夕食を食べていた。
祖父と父はもう食後のお茶を飲んでいる。
母と祖母だけが、私に間に合うようにと毎日ゆっくりと食事をしていてくれる。
その気遣いが有り難かった。
弟も食べ終わったようで、私の顔を見るなり「姉ちゃん、後で俺の部屋きて」とだけ言って席を立つ。
ご馳走様も言えない男に育ったのは、この家庭を見ていたら仕方ないのかもしれない。
父と祖父はしかめ面でテレビを観ながらお茶を飲んでいて、こちらに視線もくれない。
私は手を合わせて小さく「いただきます」と呟いた。
母が私に向かって小さく頷き、祖母は「はい、おあがり」と目を細めてくれる。
このやり取りが、自分のここでの居場所のような気がした。
祖母のペースに合わせてゆっくりと食べていると、父はいつものように「弟と彼女が結婚する頃にはお前も家を出るんだぞ。嫁に行けないようなら、裏の古い平屋だけならお前に遺してやる」と耳にタコができるほど聞き慣れた言葉を吐き捨てた。
日々『覚悟を決めろ』と言わんばかりにこちらをしっかりと鋭い眼差しで見つめて言う。
こういう時しか合わない父の目線が好きではなかった。
弟の何番目かの彼女は、果たしてこんな我が家に嫁いでくれるのだろうか。
食事を終え、皿を洗う。
食卓を拭くまでが私の仕事だ。
食事を作る時間が取れない分、家族の中の役割はこれくらいしかない。
それでも、母は助かると喜んでくれる。
片付けを終え、仕方なく二階への階段を登る。
弟の部屋は2階に上がってすぐの12畳の洋室を与えられていた。
二世帯住宅に向けたリフォームもされており、弟の部屋以外にも両親が使う寝室と、今は物置代わりの六畳の和室、そしてキッチンとトイレがある。
(このご時世に、このタイプの二世帯で同居してくれる嫁はいないだろうよ)
父の理想の二世帯での生活は叶いそうにないが、そこは子どもとして黙っておく事にした。
私は弟の部屋の扉をノックした。
弟は大学四年生で、「俺は汚い仕事をしてるお前のようにはならない」が口癖の可愛さの欠片もない男だ。
父もよく「勉強を真面目にやらないと、真みたいな仕事しかなくなるぞ」と弟を脅した。
そのせいで、この家での私と介護福祉士の立場は恐ろしく低い。
二度目のノックの後、弟が部屋から顔を出した。
広々とした部屋には、大きなパソコンデスクと、ダブルベッドまで置かれている。
ウォークインクローゼットは弟の好みに合わせられていた。
立派なテレビの前には最新型のゲーム機もあり、ソファーに寝転んで遊んでいたのか、クッションの凹みが快適にみえた。
この部屋なら、十分幸せに引き篭もれる気がする。
「姉ちゃん、今月サークルのイベント多くてさ、母さんと親父からもう追加で貰っちゃったんだよね……」
上目遣いをしてくる22歳の男は可愛くない。
私はため息を吐いてズボンのポケットから一万円札を取り出した。
こうして部屋に呼ばれる時はだいたい「お小遣いください(要約)」としか言われないからだ。
弟は受け取ると笑顔で財布に入れた。
「貸し?」
と聞くと「出世払いで」と言う。
いつ出世するんだと聞きたくなるが、多分二度と返ってこないのだろう。
私はこのちゃっかり生きる弟が、正直なところ好きではない。
弟だから許しているだけで、他人だったら大嫌いな部類だ。
「彼女とは順調?」
興味本位で聞いてみた。
すると誠一は笑いながら「里穂とは別れたけど、今良い感じの子がいるから」と胸を張る。
(クソ野郎)
私は「ちゃんと大事にしないとそのうち刺されるよ?」と姉としてのアドバイスを残して階段を降りた。
階段を降りると、玄関で靴を履く祖母がいた。
離れは近いとはいえ夜は暗い。
私は安全に送るために玄関に置いてある懐中電灯を手に取ろうとした。
「真ちゃん、今夜は満月だから大丈夫よ」
祖母はそんな私の手をそっと握り、巾着の中から折り畳まれた茶封筒を出し私に握らせた。
「お婆ちゃん、もういいよ?」
祖母は毎回年金が入ると、その中から幾らかを渡してくれる。
支給額を考えたら、決して少なくはない金額だ。
私に渡すくらいなら、好きな事に使ってもらいたい。
それでも祖母は少し水分が抜け、カサカサとした柔らかい両手で私の掌を封筒ごと包んだ。
「少しずつだけど、貯めてこの家を出な? ここは昔ながらの家だからね」
祖母が家にいるなら、必要な時にはお世話をさせてもらう覚悟は出来ている。
しかし、本人は一度もそれを望まなかった。
施設に入るお金くらい貯めてあるからと、柔らかく微笑む。
働いていてなんだが、施設で世話になるより私の方が絶対マシな自信がある。
それでも、自分を背負わせまいとする祖母の優しい気持ちが伝わる。
だからこそ「元気に長生きしてよ?」と言うことしかできなかった。
離れの家に入る前「真ちゃんも夜のお散歩気をつけるのよ?」そう言って「ふふふ」と含み笑いを見せる祖母は、一体どこまで知っているのかが気になった。
祖母を見送り、家族の入った最後の湯に浸かる。
今までは母が最後に入っていたが、家事も任せているのだから風呂くらい私に洗わせて欲しい。
綺麗なお湯とはいえないけれど、風呂くらいは時間を気にせず入ってもらいたい。
私は天井からぴたぴたと落ちる雫を顔や頭に受けながら目を閉じた。
祖母から貰ったお金は使わずに貯めてある。あれを使えば介護の収入でも一人暮らしは出来るだろう。
なんならそれを頭金にしてマンションを買ってもいい。
一人で借金を返済しながら暮らしていくのも悪くないかもしれない。
「一人、か……」
自分の呟きが浴室内に響く。
思いの外弱々しく情けない声だった。
この仕事は休みも不定休で夜勤もある。おかげで高齢者や後妻を望む方々以外は出会いも無い。
そうなると、当然結婚も遠い。
今の給料の手取りを考えると、誰かを安定して養う覚悟も持てない。
私は行儀悪く浴槽から足を出した。
まだ一応二十代。
肌はまだギリギリお湯を弾いている気がする。
恋人が一度も存在しないまま、年齢だけが毎年増えていく。
「どうすっかなぁ……」
家族には聞かせられない小さなため息が言葉になる。
私は足で浴槽の栓を抜いた。
減っていくお湯を眺めながら、身体と浴槽を洗う。
洗い終わって水を流す頃には、程よく身体も冷えていた。
風呂から上がる頃には、一階の電気は全て消されていた。
両親も二階の寝室へ移動したらしい。
私は人感センサーの足元灯を頼りに部屋に戻りながら、玄関にあるサンダルをそっと掴んだ。
サンダルを窓枠に置き、パジャマからシャツと短パンに着替える。
そして窓枠にそっと足をかけた。
夜風が頬を撫でる。
祖母が言った通り、今夜は満月が大きく見える。
「おぉ、綺麗じゃん」
私は小さく笑った。
時計の針は、もうすぐ一時になろうとしていた。




