第一話 表の顔
片道一時間かけて電車に揺られる。
都会の街の風景から、少しずつ緑が広がっていく。
到着駅は地元の無人駅。
降りる人は少ないが、どの人も何となく顔見知りになる。
介護の仕事を終え電車に乗る。
朝ほどに満員電車ではないから、一人くらいなら余裕で座れる。
地元へ帰る頃には、鮮やかだった夕焼け空が紺色へのグラデーションを楽しませてくれるから、1日の終わりとしては悪くないものになる。
揺られながら、私は水筒に残った僅かなお茶を飲み干した。
これも、毎日のルーティン。
優雅なティータイムではないが、仕事をやり切った自分への労いの一杯のようなものかもしれない。
給料は薄いし、設備も特別じゃない。でも仕事そのものは嫌いじゃない。
ゴトンと鈍い音を立てて、景色が遮断された。
トンネルに入り、電車内の明るさで窓に疲れた顔の自分が反射する。
何も考えず景色を眺めていたはずなのに、口角は下がり、目が死んでいる。
見るからに疲労感満載だ。
(1人ご機嫌で笑ってる方が怖いか)
昼間に変な人間と思われるくらいなら、疲れた人間だと思われた方がよっぽど生きやすい。
私はそんな世を憂いて、ぶへぇと可愛らしさの欠片もないため息を吐いた。
窓に映る自分が身につけているのは、通勤用の着古した色気のない紺色のスーツ。
パンツスーツだから露出も少ないし、黒色で踵の低いパンプスにも可愛らしさはない。
介護の資格を取って無難に就職し、気づけばもう25歳になっていた。
今日も利用者のお婆様に「息子を紹介してあげようか!」と言われたばかりだ。
102歳のお婆様の息子さんは70代後半……。
せめてお孫さんを紹介してください。
ちなみにこのやり取りは毎日繰り返される。
おかげで認知症への理解と対応は慣れたものだ。
可もなく不可もない1日。
それでも世間の目のために我ながらいい仕事をしたと思う。
もちろん笑顔は絶やさず人と接した。
こう見えて厳しく躾けられたから、溢れ出るマナーの良さが高齢者の心を捉えて離さない。
担当させていただいてるお婆様の、便秘の悩みが解消された事を、共に手を取り我が事のように喜びあった。
怒りで手が出るお爺さまの攻撃も華麗に避けたから怪我もない。
「うん、我ながら十分頑張ったじゃないか」
脳内一人反省会を拍手で終了する頃には、ようやく見慣れた景色とアナウンスが聴こえてくる。
私は仕事で着るジャージとスニーカーが入ったカバンを手に電車を降りた。
+ + +
自宅は駅から徒歩で12分。
自宅へ帰る前に、スーパーで適当な食材を買う。
それが明日の弁当のオカズに反映される。
明日は夜勤。
夜食と翌朝の分の二食を作らないといけない。
基本的におにぎり二つを二セットだ。
米の腹持ちは最高だ。手早く食べられるのもこの仕事には有難い。
休憩時間はあるものの、その時間にもハプニングはつきものだから。
私はおにぎりの具を想像した。
塩おにぎりに海苔を巻いてホイルで包む。
これは海苔戦争が起こる偏った考えかもしれないが、海苔がしなしなになるから食べやすい。
パリパリ派の人が聞いたら激怒しそうだ。
もう一つは生姜の佃煮。
これは外せない。
細かく刻んだ生姜、干し椎茸、そしておかかが甘辛く煮付けられた最高の逸品。
祖母の手作りで、これがあれば一人で米三合ぐらいは食べられる気がする。
口から溢れそうな涎をそっと飲み込み、つけ合わせる適当なオカズを掴んで買い物かごへ入れた。
ウインナーとブロッコリー、そして卵。
前の二つはサッと炒めて塩コショウしてタッパーに詰めるだけ。
卵は茹でて持っていくだけ。
我ながら、独身女性らしからぬシンプルな弁当だ。
買い物を終え、スーパーを出ると程よく薄暗い時間。
通り過ぎる人の顔が見えづらくなる。
この時間になって、ようやくふっと肩から力が抜ける。
まるでプールで長く潜ってから水面に顔を出した時のように、やっと呼吸を許されたような気がする。
押しボタン式の歩行者用信号を、一本先の信号が青になったばかりのベストタイミングで押す。
車に対する意地悪で押しているわけじゃなく、その信号をゆっくり渡る高齢者が多いからだ。
ここで一度私にヘイトを溜めてもらうことで、すぐ先の信号に間に合わせようと速度を上げるのを諦めるしかなくなる。
結果、手押し車のお婆ちゃんがゆっくり安全に渡れるのだ。
(今日も平和を守ってしまった……)
地味な平和を守ってこそ、ヒーローだからね。
私はにやける口元を押さえながら信号を渡った。
その時、視線の先に飛び込んできたのは、こちらに向けて後ろ足で立ち、激しく尻尾を振る犬だった。
首輪に繋がれたリードと、興奮した犬の勢いが反発した結果、立ち上がってしまったらしい。
「わふっ! わふわふっ!!」
迫力のない鳴き声は、数日前の夜に出会ったハナコのものだった。
あの夜の出来事を覚えているのか、大きく開かれた口が笑っているように見える。
尻尾はまるでヘリコプターのようにぶんぶんと回り、リードを持つ人間ごと引きずってきそうな勢いだ。
私はその声に引き寄せられるように近づいた。
見上げてくるその瞳は、信号の点滅やスーパーのネオンが反射してキラキラと宝石のように輝いている。
「お前、相変わらず可愛いねぇ」
私の存在は認知されているようなので、今日は躊躇わず頭を撫でた。
後ろにいたのは、半袖のパーカーを着たボサっとしたあの夜の男だった。
「神崎さん、お久しぶりです……あれ?」
その男は私を見るなり目を丸くした。
少しだけ上がった眉毛が、表情を分かりやすくさせる。
頭を僅かに傾けて、不思議そうな顔で言う。
「今日は、服着てらっしゃるんですね」
人が少なくなったとはいえスーパーの前で恐ろしい事を口にするものだ。
「ちょ、黙れ!」
私は思わずそいつの口を鷲掴みにした。
他人に聞かれたら社会的に死んでしまう。
次の瞬間、自分のこの行動が、今の時間に相応しくないものだと反省した。
私は素早く手を離し、ハナコを撫でて気持ちを落ち着ける。
「ほ、ほほほ、貴方はナニを言ってらっしゃるんですかね。まだ夜中じゃないのに寝ぼけてるのかしら」
男は「夜中」という私の言葉で気づいたのか「あ、すみません、服着ますよね、哺乳類ですもんね」と言った。
動揺しすぎだ。
哺乳類が皆服を着るなら、私に撫でられてるハナコさんも服を着ていなければならないのに。
混乱しているのか、頭を忙しなく掻き続ける男が、どこか追い詰められているように見えた。
「昼間は服着て当然だ、気にしなくていい。他で言うなよ」
「気をつけます」
男が深々と頭を下げた。
その頭にハナコさんが前脚を乗せる。
その姿がまるで組体操のようで思わず吹き出してしまった。




