プロローグ パンツ泥棒
深夜1時。
真夏でも空気は程よく澄んでいて、深呼吸すると肺を満たす田んぼに並々と張られた水の香り。
五月蝿いはずのカエルの大合唱は、もう気にならないくらい慣れてしまった。
私はいつものようにシャツを脱ぐ。
汗でへばりつくブラトップも、ここぞとばかりにあぜ草の間に置いていく。
月明かりの下で一つひとつ常識を脱ぎ捨てていけば、残るのは頼りない自分自身だ。
道に転々と落としてきた私の抜け殻をそのままに、最後の靴下を脱ぎ捨てる。
足の裏にはザラザラとした土の感覚と、柔らかい草の感触が伝わり、ようやく少しだけ私が根を下ろす事ができた。
少し高台にある貯水地と、その隣にある低い山。
それ以外はほぼ田んぼだからか、風が通るたびに心地よい。
温度は少しだけ生ぬるいけれど、そんな風を皮膚全体で受け止める。
薄い産毛も感覚が研ぎ澄まされて、自然の奏でる音が細かく振動しているような気さえした。
そんな時、田舎の畦道に聞こえるはずのない音がした。
カシャリ。
電子的に乾いたシャッター音。
物理的に心臓が止まるかと思った。
常識と法律と月明かり。
そこから私を守ってくれるものなど何も存在していなかった。
恐る恐る振り返ると、何故か誇らしげな顔で私の脱ぎ捨てたパンツを咥えるラブラドールの穏やかな間抜けヅラが目に入った。
そしてその背後には、スマホ片手に鼻血を出す、どこか見覚えのあるボサボサ頭の青年が立っていた。
驚きのあまり思考は停止する。
耳から聞こえるゲコゲコ音が、脳の皺に刻まれ続ける。
鼻や口からもゲコゲコが溢れそうになったその時、相手の脳の処理が先に終わったらしい。
「……神崎さん、だよね? 何してるの?」
こちらに向けて無遠慮に指を差しているが、私の顔以外に視線を向けないあたりは紳士的なのかもしれない。
隣のラブラドールは、暇なのか私の服をぶんぶんと振り回して遊んでいる。
おかげで私も第一声が出た。
「そのセリフ、そっくりそのまま返すわ! この変態野郎」
自分の格好を盛大に棚に上げた結果である。
「え?」
目の前の男は青ざめた顔でオロオロとスマホと犬に視線を泳がせている。
そして、何かに気づいたように慌てて反論した。
「ち、違うよ! 神崎さんに気がついたのは撮り終わってからで、多分映ってないから! ほら、ハナコと満月が絵になって……」
そう言いながら、スマホの画面をくるりとこちらに向けてきた。
私もついまじまじとその画面を覗き込む。
真ん中にはパンツを咥えてはしゃぐ犬とその上に浮かぶ満月。
ただ、その端には全く焦点が合わず、ブレて薄ぼんやりとした全裸の私も一応映り込んでいる。
「こっわ、これじゃ心霊写真じゃん」
思わず素のトーンで突っ込んでしまった。
私の言葉に彼も画面をくるりと持ち直し、自分のスマホを確認した。
「あ、絶妙にブレてて怖いですね、コレ」
「本当だよ、知らない人が画像だけ見たら叫ぶやつよ?」
「本当ですね、あははっ」
男は歳の割には素直に顔を綻ばせて笑う。
その様子が何となく面白くて、私も釣られて「はははっ」と声に出していた。
しかし、とりあえずは大人として忠告しておかねばならない。
「わかってると思うけど……SNSに投稿すんなよ?」
私は全ての表情筋に力を入れて全力で脅しをかけた。
「そうですよね、場所が特定されて地元が心霊スポットになるのはちょっと……」
顎に手を当て、真剣に風評被害を考えている男。
どこか抜けているが、この男、もう私の状況に慣れているらしい。
「わふっ! わふっ!」
軽やかな足取りで畦道の奥から犬が駆け寄ってくる。その口には全ての服が咥えられていた。
どうやら脱ぎ捨てた服を器用に拾い集めてきてくれたようだ。
私の足もとまでくると、前足を揃えて器用に座る。
後ろ足は「女の子座り」のように微妙にズレてはいるけれど、ピシッとしすぎなくてあほ可愛い。
動物と触れ合う機会が少なかったけれど、この子は怖くもないし、多分とても可愛い。
私を見上げる瞳の中に満月が映る。
大きな瞳が漫画のように綺麗だった。
思わず私は腕を伸ばす。
動物を撫でる礼儀なんて知らない。
テレビで見た覚えを頼りに、恐る恐る拳を差し出す。
その拳を、犬はヘラっとした顔で匂いを嗅いだ。
哺乳類同士の野生の勘で、何となく許された気がするから、私はそのまま頭を撫でた。
短いのに、ふわふわとした柔らかい触感がある艶やかな毛。
そのもふもふを静かに堪能していたら、犬の目もゆっくりと細くなる。
それなのに、尻尾だけはビタンビタンと激しく音を立てて地面を叩き続けている。
「……あんた、可愛いねぇ」
私が撫でていると、どうやら満足してくれたようでパンツ以外を返してくれた。
パンツは存外気に入られてしまったらしい。
所詮3枚1000円のパンツだし、脱ぎたてとはいえお風呂に入ってからの散歩だった。
だから汚れてはいないはず。
「欲しいの?」
「わふっ!」
仕方ない、出会いの記念に差し上げよう……そう覚悟を決めかけた時、愛犬を見守っていたらしい男が両手を前に突き出し、ぶんぶんと大袈裟に動かす。
真っ赤な顔で「それだけは勘弁してください!」と大きな声を出した。
カエルの合唱にかき消される程度の声だったが、パンツへの強い拒否は感じた。
「流石にそれをいただいたら、この町内での僕の立場が無くなります」
そんな男をきょとんと見つめる犬。
小首を傾げたその仕草まで可愛い。
生暖かい風がふわりと素肌を撫でた時、ようやくこの状況の異様さを理解した。
全裸の女と、鼻血の跡が残る男と、パンツを咥えた犬。
気づけば誰一人、この状況そのものには突っ込まなくなっていた。
「あーもうっ、どうすっかなー」
私は思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。
全裸でしゃがみ込むと、全てがノーガードであるが今更だ。
そんな私のお股目掛けて、ズボッと鼻先を突っ込む犬。
これはテレビでみた犬同士のご挨拶というやつか。
だが私は断じて犬ではない。
「うおっ!!」
私はその勢いのまま後ろに倒れた。
畦草のおかげで寝転んでも痛くはない、が。
「うわぁ、ご、ごめんね神崎さん! ハナコ、メスだから!!」
ひっくり返ったあられもない姿の私に気を遣ってか、男は顔面を両手で覆っている。
夜でもわかるほど顔が紅潮していた。
(そうか、女同士ならお股の挨拶も普通か……)
……いや、そういう問題じゃない。
そう思ったが、このよく分からない状況が面白く感じる。
私の頬は思わず上がってしまう。
股だけは死守する自分と顔面をべろべろと舐めてくる「ハナコ」と、真っ青な顔でぺこぺこと頭を下げながら謝罪を続ける男。
「あははははっ、何このカオス!」
見上げた空は満点の星空。
状況はともかく、久しぶりに声を出して笑えた夜だった。




