262 何ということもない話
「ビターズをまんま飲んでる……」
デッキテラスの格子柵の上で重ね合わせた己の腕の、上段の左手首辺りに顎を預け、ジョシュアは心底嫌そうに秀麗な貌をこれでもかと歪めて濁った声を零した。
視線の先は掃き出し窓のそばにあるスクエアテーブル、その椅子の一つに座っているアウレリウスの右手のグラス。
「厳密にはそのビターズとやらの前身だそうだ」
「はあ!?」
ビターズとはハーブ、香草、樹皮、スパイス、柑橘類、ナッツ、精油などを蒸溜酒に漬け込んで作られる薬酒のこと。
要はリキュールだが、元来薬としての役割が主体だったらしい。故に材料も生薬――リンドウやキナノキの樹皮、ヨモギなどを使用していたそうで、これらには強い苦味がある。必然リキュールも苦いものとなり、中世期の錬金術師や修道士、医師達はハチミツや砂糖を加えて飲み易くしたのだという。
つまり、このビターズもその名が表す通り、苦い。
更に、ジョシュアの言うビターズは後世アロマティックビターズとも称される苦味だけでなく芳香も意識されたリキュールのことだが、アウレリウスは前身と言った。それはどの段階までの "前" なのか。下手をすると甘味を加えられる前の苦いばかりのリキュールの可能性もある。アウレリウスの嗜好からして。
また、アロマティックビターズはカクテルの材料の一つとして数滴垂らすくらいなのが常道らしい。
それをアウレリウスは数滴どころではない量、呷っている。
苦味の苦手なジョシュアの反応が冒頭の通りなのにはこうした訳があるのだ。
「甘味の追加はほぼないな」
「うえぇ」
辟易度は増したようだが顔を歪め続けることに疲れたのか、ジョシュアは半眼と口を曲げる程度に表情を緩和させて嘔吐に似せた挙動を取った。
酒のつまみをアウレリウスの前に並べながら、カナンは終始無言、なだけでなく男達に視線を向けることもしなかった。
飲酒に興味の無いカナンが口を挟んで良い話題ではないからだ。
正直、関心も持てない。酒そのものには。良い意味でも悪い意味でも。
苦味の強い酒、という点はアウレリウス好みっぽい、とは思うもののそれだけだ。
アウレリウスも家妖精も双方愉しんでいるのであればそれに越したことはない。
カナンはただ、好きに肴を提供する。これもカナンが勝手に愉しんでいるだけで義務も義理もない。
並べ終えた後はキッチンへ戻り、自分用の急須、茶葉、湯飲み、ポット、そして自分用にアウレリウスに供したのと同じものを小皿に分けて盆に載せ、デッキテラスへ行く。
着くのはアウレリウスの正面の席。
酒の話に興味がないとはいっても、折角アウレリウスがいるのだ、許容されているのならそばにいたい。
―――そう思う感情の正体を未だはっきりさせていない、させる気もないが、誰も困らない為、現状維持は続く。
カナンの用意したつまみは、タコのオイル漬けとタコのマリネだ。
オイル漬けはタコを茹でるタイプと日干しにするタイプのレシピを知っていたが、何となくで日干しにしたタコを使用。また、一方のレシピにしかない赤唐辛子、にんにく、パセリ、もう一方のレモン果汁、お酢を混ぜ合わせ、香り付けはローリエかオレガノかで前者を選んだ。
お酢は正確には赤ワインビネガー指定だったが、最近家妖精からもう使っても良いと許可の出たバルサミコ酢を使用した。
そう、酒造りの好きな家妖精がジョシュア監修の元にいつの間にか作り上げていた。
カナンはせいぜい柿酢が限界で、ワインビネガーとバルサミコ酢の正確な違いも知らなかった。
ジョシュアが監修したのはそもそも話を持ちかけたのがこの男で、どうやら好みらしい(「酒は酒、酢は酢!」)。
そのことを率直に主張してきたので、昔(今となっては相当だが、感覚的にはトリップする直前から見て)テレビでバルサミコ酢を使ったアイスクリームが紹介されていたのを思い出し、気紛れで作って食べてみたらリアクションに困るくらい明け透け、毒み全くなしの歓喜を表現された(流石に当人がいない時、などという悪質はせず味覚共有を意識して目の前で食べた)。
マリネはタコの他にトマトとオリーブも合わせ、これにもバルサミコ酢を使用。オリーブオイルは精製油の必要ないヴァージンならカナンでも簡単に搾れるので、オイル漬けに合わせて(大体二日後くらいが食べ頃らしい)三日前に用意したものを使っている。
ヴァージンオイルは酸化し易いが、ストレイジバッグ内であれば劣化を防げる為、オイル漬けを作る直前ではなく前日に用意していた。酸化を気にしないのであればもっと前に作り置きしておいても問題はなかっただろうと言えばそうなのだが、一旦切らした後、他の油があったことで何となく先延ばしにしていたのだ。オイル漬けは丁度良いきっかけだったというだけで用意した時期に大した意図はなかった。
ところで。
このオイル漬けとマリネに使用したタコ。
ディルイリッチ・ペレフスロイの海で漁獲されたものだが、カナン自らではない、だけでなく、いわゆる「タコ」ともかなり違う。
ジョシュア言うところのタコクラーケンなのだ。
地球の伝説では全長1.6キロメートルだの外周2.4(乃至2.5)キロメートルだのの記録があるらしいが(全長はともかく外周がどの部分を指すのかの情報は残念ながら見つけられなかった。頭回りか足を放射状に広げた外円か)、ペレフスロイの海にいたのは頭の先から伸ばした足の先まで2キロメートルあったらしい。狩って丸々ストレイジバッグに放り込んできたタコが言うには。
そう、タコが狩った。カナンのヴルガレス―――サウルムン・ガストモアが。
大凡20センチメートルのココナッツの殻にすっぽり入ってしまう程度の大きさのタコが全長2キロメートルのクラーケンを一体でどうやって?
…………聞いていない。
当事者が一体で狩ったと言うのだからそうなのだろう。疑う理由がない。物的証拠もストレイジバッグの中にある。
ガストモアの身体に異常(怪我)がないのであればカナンにはその過程はどうでも良かった。
それよりももっと気になることがあった。
根本として、ペレフスロイの海にクラーケンはいない、筈だった。
少なくともゲーム当時はいなかった。そしてトリップした後もガストモアが狩ったと自己申告してくるまでその存在を確認したことはなかった。
ヴルガレスや妖精、精霊の誰もそのことに言及せず、アウレリウスから聞いたこともない。
一番、事情、仕様、可能性に思い至れるジョシュアはと言えば……
「……………………フラグ?」
と、大変にこやかに言ったっきり、先を続けることなくカナンが諦めて室内へ戻るまで静止していた。
ストレイジバッグ内で解体した後、キッチンでその一部を使った料理を始めると、カナンについて移動してきたジョシュアの方からクラーケンの容体について聞いてきた為、ガストモアの話をそっくり伝えると(カナンにはタコの種類に関する詳しい知識はないが、ガストモアから既に説明を受けていたことで〔解析〕は使わなかった)、意外そうに目を丸くしていた。
狩られたクラーケンはマダコをまま巨大化した姿だったらしいのだが、ジョシュアの言うには一種オンリーは確率的にかなり稀に設定していたらしい。
地球で存在を確認されていたタコ全ての部位データを作り、タコクラーケンは出現の度にランダムでそれらの中から複数を組み合わせた姿になるのがデフォルトで、一種オンリーはカナンが地球にいた頃もジョシュアがこちらへ来るまでにもゲーム内で出現は確認されなかったという。
「でも確率ゼロじゃないからトリップ補正とは関係ないかな-」
偶然? 否定は出来ない。
一種オンリーになったところで何かしら特典があるわけでなし、部位ランダムも能力値の設定とは無関係だったそうだ。
ならば味に関してはどうなのか?
消費の大半がスーパーで売られている茹で蛸だったカナンにはタコごとの味の違いなど分かろう筈もないが、もし部位ごとにリアルの味が再現されていたのなら、違いの分かる者には分かったのだろうか。
この疑問は口には出さず脳裏にうっすら浮かべた程度だったが、カナンの表情を読んだか共有域を覗いたか、ジョシュアは「作った奴はリアルに拘ったってドヤってたけど俺もぜんっぜんわかんなかった!」と毒があるようなないようなことを、カナンとの価値観の一致を嘘偽りなく喜んでいるかのような満面の笑みで宣った。
つまり、ゲーム当時食べたのね……というどうでもいい気付きは、やはり言葉にしなかった。
ジョシュアもそこまでは絡んで来なかった。
巨大過ぎて大味ということもなく、噛めば噛むほど旨味の滲み出るタコの身をのんびり堪能しながら茶を啜るカナンの前で、アウレリウスとジョシュアの棘はあるが他愛ない遣り取りは続いていた。
どうやら、家妖精はより苦みの増す方向で酒に加える薬草を選んでいたようで、内訳を当人から聞いたジョシュアが益々己の顔の造作に頓着しない辟易の表情を作り、それを面白がる人の悪さを隠しもせず、苦みが強いだけでえぐみはない、とフォローになっているようでなっていない感想をアウレリウスが口にしていた。
その様子を、カナンはやはり何も言わず、何かしらの意思表示となる表情も作らず、ぼんやり見遣りながら無為に時を過ごした。
* * *
「まーー…………………お約束?」
タコがいるならイカがいても不思議ではない?
「………………」
不思議に決まっている、とは声に出さずジト目でカナンは訴えた。
タコクラーケン同様、イカクラーケンもペレフスロイの海にいた事実はない。過去。
それが現在、潮騒の妖精を構いに海岸へ来てみれば、前方、沖合で正に巨大イカが海中へ沈んで行くところだった。
そして、その近くの中空に浮かんでいるのもまたイカ―――カナンのヴルガレスのケスロイテロブ。
カナヅチの彼?には抜かりなく〔水中呼吸〕の魔法を効かせている。うっかり海へ落ちても溺れることはない。その安心感からかすっかり水域に対する忌避が薄れ、気付けば海面で日向ぼっこをする趣味に嵌まっていたとは思うが、イカクラーケンにはその最中に遭遇したのか。
あの巨体を屠れるスペックがあるとはまるで知らなかったカナンは何とも言えない心持ちで沖合のイカを見遣った。
しかし、タコにタコ、イカにイカ、というのは偶然にしては出来過ぎな気もするが、作為する運営のいない現状、やはり偶然なのだろう。
耳目の多い[ホーム]でのことだ、誰も何も言ってこないのではそう思うしかない。
「…………………それでどうしてストレイジバッグの中で既に干物になってるの」
ケスロイテロブから申告があったわけではないが、タコクラーケンとガストモアの件から何となく同じ成り行きを予感してバッグの中を確認してみればイカクラーケンらしきデフォルメされたイカのアイコンが追加されており、タップして詳細表示へ切り替えると現れたのはよくあるスルメだった。不自然なほど形の整えられたネット通販のサンプル画像のような。
更にはスルメを作る工程で取り除かれたのだろう、イカ墨、軟甲、くちばし、目、そして精莢もイカクラーケンスルメの横にずらりと並んでいた(精莢が残されているのには、これまたカナンは何とも言えない気分になった。基本、食べてはいけないものの筈。充分に火を通してしまえば食べられる、実際に食べているという記述をネットで見掛けたことがあるが、多少でも火の通りが甘ければ最悪な事態になる為、魔法でどうにかなりそうでもスルーすることにした)。
「ケスロイテロブが気を利かせたんじゃね? イカクラーケン討伐に付随する仕様にんなの設定してなかったし」
カナンは中空にバッグ内の様子を出現させていなかった為、彼女の視界を共有してジョシュアは中身の確認をし、首を傾げながら推測を口にした。体はカナンの頭上で胡座をかいたまま、視線だけを彼女に重ねて何もない空間を見つめる。
「…………ケスロイテロブにそんな能力あった?」
見たことも聞いたこともない。当人からもゲーム内各所で得られた情報源からも。
「デフォではないけど、当人に聞いたら? こっち来てる」
そう言ってジョシュアはやや視線を下げ、沖合から急速に近付いてくるヤリイカというにはやや大きな影を目顔で示した。
その正体は言うまでもない。
自宅では空気の流れのままに脱力状態でふらふらしているだけのケスロイテロブが能動的に宙を移動してくるのは中々に新鮮だ、などと呑気に感心しながら待っていると、カナンのやや上方から顔の位置まで、直前で高度を下げて停止した。
褒められ待ちという雰囲気でもなかったが、まずイカクラーケンのストレイジバッグへの転送の礼を告げた後、何故既にスルメになっているのかの訳を聞いた。
すると、何のことはない、カナンが自宅のキッチンで通常のイカをスルメに加工した時の様子を覚えていて、それを真似ただけだという。
「いやいやいやいやいや」
カナンの内心の突っ込みをジョシュアが即座にする。
本当にデフォルトではなかったらしい。
イカクラーケンが海中に沈んだ後、ケスロイテロブは一見何もしていなかった。そのままバッグへ転送されたように思えたのだが、直前かバッグ内で処理をしたのか。
どうやって? 魔法? スキル? どのような?
いつだったか、自宅内で気儘に漂う為だけに衝撃緩和の結界魔法を構築したように、解体に特化した何かを編み出した?
――――回答は、元々あったスキルがアンロックされた、のだそうだ。
「きーいーてーなーいーー」
以前ガストモアに対して抱いたカナンの内心と同じなのか、ジョシュアは心境を声に出してケスロイテロブに詰め寄った。
それを、自分に言われても、としれっと流したケスロイテロブはもう用は済んだとばかりに海へ戻っていった。そして凪いだ海面に身を任せ、日向ぼっこの続き?
「………………自主的にプレイヤーの真似をするのが条件?」
「誰だーんなニッチな条件仕込んだのー」
運営関係者に分からないものをカナンが分かるわけもない。
ジョシュアも答えを求めていないだろうと、その先は何も言わなかった。
イカクラーケンスルメは肴としても炙って漬けたスルメ酒としてもアウレリウスに殊の外好評で、大半は家妖精行きとなった(まだまだ色々試したいらしい)。
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141 現状維持
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243 良きにつけ悪しきにつけ




