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羽毛、ウレタン、ヒノキ

 これまでの『硬質素材シリーズ』での手痛い失敗(および頬の網目模様)を反省したのか、香先輩が四日目に持ち込んだのは、見るからに贅沢なボリュームを誇る『羽毛フェザー枕』だった。


「守君、私は悟ったわ。安眠とは、抵抗を捨てること。昨日の竹枕は、私と枕が戦っていたのよ。でもこの羽毛は違う。すべてを受け入れ、包み込む……そう、母なるポーランドのガチョウたちの慈愛に満ちているわ」

「ポーランド、まだ引きずってたんですね。……でも確かに、これなら寝跡はつかなさそうです。てかマザーグースってめちゃくちゃ高いし、そもそも入手困難って聞きましたけど、よく手に入りましたね」

「まぁ、これは普通の水鳥のだけれど」


 やはり部長でも無理なことはあったか。


「ふふ、見てなさい。今度こそ私は、雲の上で天使とティータイムを共にするわ……」


 香先輩は、真っ白でフカフカの枕に、ダイビングするように顔を埋めた。ボフッ、という心地よい音と共に、彼女の頭は沈み込んでいく。


 二十分後。僕は窓際の席で、静かにノートをとっていた。今日の香先輩は、文字通り『白い雲』の中に溶け込んでいるようだった。豊かな羽毛が彼女の耳元までを覆い隠し、柔らかそうな髪がその境界を曖昧にしている。目を閉じ、微かな微笑みを浮かべているその姿は、確かに天使の休息と呼ぶにふさわしい。


(……本当に、これでおさまってくれればいいんだけどな。……いや、寝顔は正直、ずっと見ていたいけど)


 そんな不埒な思考が頭をよぎった、その時。先輩の体が、ビクンと大きく震えた。


「ぷはっ! げほっ、ごほっ……! 死ぬ……! 死んじゃうわ守君!」

「どうしたんですか急に! 天使とのティータイムはどうしたんですか!」

「……窒息するわ! これ、柔らかすぎて、呼吸をしようとするたびにガチョウの産毛が私の鼻腔を支配しにくるの! まるで、生きた鳥の群れに顔を押し付けられているような圧迫感……! 安眠どころか、これは生存競争よ!」


 安物のせいなのではと思ったが、口にはしなかった。


 香先輩は、鼻の頭に小さな羽毛を一つ乗せたまま、必死に酸素を求めて喘いでいた。どうやら、柔らかすぎるのも考えものらしい。



 五日目。香先輩の目は、連日の寝不足と格闘のせいで、いよいよ怪しく血走っていた。そんな彼女が最後にすがったのは、宇宙開発の技術を転用したという現代の英知――『低反発ウレタン』だった。


「守君……もう物理現象に頼るのはやめにするわ。これからは科学の時代よ。このウレタンはね、私の後頭部の形状を完全に記憶メモリーし、最適な体圧分散を実現してくれるの。……私が私であるために、この枕が必要なのよ……」

「……科学は物理現象を研究するものだと思いますけど……。それに先輩、ちょっと言動が哲学的になってきてますよ。大丈夫ですか?」


 先輩はフラフラとした足取りで、重厚なグレーのウレタン枕に頭を乗せた。ゆっくりと、重力に従って形が変わっていく。


「ああ……これよ。私が、私の中に沈んでいく……。完璧な、フィット感……」


 今度こそ、本当に。そう確信させるほど、先輩はすぐに深い眠りに落ちた。三十分後。


 僕は息を潜めて、その様子を観察していた。ウレタン枕は、香先輩の美しい頭の形を完璧にトレースし、吸い付くように支えている。彼女の表情には、これまでの試行錯誤では見られなかったような、真の安らぎが浮かんでいた。西日が、彼女の長い睫毛をオレンジ色に染めている。その唇から漏れる、小さな、幸福そうな吐息。


(……やっと、見つけたのかな。先輩にとっての、答え)


 僕はノートに「結論:最新技術による勝利か」と書き込もうとした。しかし、事件は先輩が目を覚ました時に起きた。


「……ん。……あれ? 守君、体が動かないわ」

「え?」


 香先輩が起き上がろうとするが、なぜか頭が枕から離れない。いや、正確には離れるのだが、枕が『先輩の寝ていた時の形』のまま固まって、元に戻らなくなっているのだ。


「守君、見て! この枕、私の顔の形を記憶して離してくれないの! ほら、私が頭を上げても、ここにお面みたいな私の顔の凹凸が残ったまま……! 怖い! 自分が二人いるみたいで怖いわ!」

「……ただのリバウンドが遅いタイプなだけですよ。そんな、人型の呪いみたいに言わないでください」

「無理! 自分の抜け殻と一緒に寝るなんて、そんなホラーな体験、安眠から一番遠いわ! 返して、私の無垢な睡眠を返してちょうだい!」


 結局、ウレタン枕も部室の隅に積み上げられた『失敗作の山』に加わることになった。



 低反発ウレタンの「人型の呪い」に心底震え上がった香先輩が、翌日、厳かな面持ちで抱えてきたのは、部室中に清涼な空気を振りまく『ヒノキ』の枕だった。


 小さなヒノキのチップが詰まったそれは、置くだけで部室が高級旅館の露天風呂のような香りに包まれる。


「守君、私は大切なことを忘れていたわ。嗅覚よ。安眠とは、五感すべてが赦された先に訪れる涅槃なのよ。私の名前は『香』。その私が香りを無視してどうするのっていう話よ」

「……あ、自分の名前にかけてたんですね。確かにいい匂いですけど、これまた随分と硬そうですね」

「チップを詰めているからそこまで硬さはないわ。それにこれはただの木片じゃない。ヒノキチオールによる森林浴効果、そして強力な防虫・消臭作用……。今、私の脳は旧校舎の埃から解き放たれ、長野の原生林へと誘われているわ……。いい、守君。今度こそ、私は森の精霊として眠りにつくわ」


 香先輩は満足げに、ヒノキの香りを深く吸い込みながら横になった。コロコロ、と木が転がる音がして、彼女の頭は天然の芳香剤の上に定まった。


 二十分後。僕は窓からの風に乗って漂うヒノキの香りを楽しみながら、先輩を観察していた。今日の彼女は、森林の女神のようだった。木の香りに包まれ、穏やかに目を閉じる姿は、都会の喧騒(といっても学校だが)を忘れさせるような気高さがある。西日が、透き通るような彼女の肌を透過し、ヒノキのチップが放つ自然な光沢と相まって、神々しさすら感じさせた。


(……このまま、穏やかに眠らせてあげたいな。……でも、先輩の寝顔って、なんでこんなに飽きないんだろう)


 僕は、ノートの端に「香りが非常に良い。先輩の雰囲気にも合っている」と、部活動の記録としては些か主観的な一文を添えた。


 しかし、運命の女神は、森林の女神に微笑まなかった。先輩の鼻が、ピクピクと不規則に動き始めたのだ。


「……んぐ。……ふぇっ、ふぇっくしゅんっ!」


 盛大なくしゃみと共に、先輩が飛び起きた。その目は真っ赤に充血し、鼻の頭も赤くなっている。


「せ、先輩!? 森の精霊はどうしたんですか!」

「……じゅ、無理……。守君、鼻が、鼻が爆発するわ! 目も痒い! 喉もイガイガする! 森林浴どころか、これは毒ガスの散布よ!」

「……まさか、ヒノキアレルギーですか?」

「……知らなかったわ……。自分が、こんなにも自然を拒絶する体質だったなんて……! 安眠どころか、免疫系が総攻撃を仕掛けてきてる! 脳がヒノキチオールに宣戦布告されたわ!」


 結局、高級ヒノキ枕は、先輩の激しいくしゃみと共に廊下へと(一時的に)隔離されることになった。香先輩はティッシュの山を築きながら、潤んだ瞳で僕を恨めしそうに見つめた。


「……ありとあらゆる物質を試したわ。硬いのも、柔らかいのも、科学の結晶も、天然の恵みも。でも、私の体はすべてを拒絶する……。守君、本当の安眠は、この三次元には存在しないのかしら……?」


 物質としての枕の完全な敗北。涙目で鼻をすする先輩を前に、僕は不吉な予感を感じていた。物理的な「道具」をすべて使い果たした彼女が、次に見据えるのは、もっと根源的で、もっと距離の近い「何か」であるはずだ。

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