香
ヒノキアレルギーによる『鼻の爆発』から一夜。香先輩は、真っ赤だった鼻の頭をどうにか落ち着かせ、憔悴しきった様子で部室に現れた。その手には、これまで避けてきた、あまりにも普通すぎる『白いコットン枕』が握られていた。
「守君。私は、原点にして頂点に立ち返ることにしたわ。奇をてらった素材はもういい。結局、綿が一番なのよ。……ただし、環境を支配することでね」
先輩がカバンから取り出したのは、小さな超音波式のアロマディフューザーと、紫色の小瓶だった。
「いい、守君。嗅覚は五感の中で唯一、脳の『大脳辺縁系』に直接届く感覚なの。つまり、理性を介さずに本能を眠らせることが可能なのよ。今日使うのはラベンダー。リラックス効果の王道であり、私の荒んだ免疫系をなだめてくれる聖母のような香りよ」
「……昨日は森の精霊で、今日は聖母ですか。でも確かに、コットンの枕ならアレルギーも起きないでしょうし、一番無難かもしれませんね」
先輩は、丁寧に枕に頭を乗せると、ディフューザーから立ち上る白い霧を深く吸い込んだ。部室に、清潔感のある甘い花の香りが広がっていく。
「ああ……ラベンダーの海が見えるわ。私は今、プロヴァンスの丘で風になっているの……守君、記録をお願いね。……おやすみなさい……」
プロヴァンスはラベンダーで有名だっけ? と思いながら眠りの国へ向かう先輩を見送る。
十分後。僕は、ラベンダーの香りに包まれながら、静かに眠る先輩を観察していた。
コットンの枕は、これまで試したどの枕よりも先輩の頭に自然に馴染んでいるように見えた。香りの効果か、彼女の眉間の皺も消え、まるで深い湖の底で眠っているかのような、完璧な安らぎがそこにはあった。西日が、紫色の霧を透過して、彼女の頬を淡く照らす。その幻想的な光景に、僕は思わずペンを動かすのを忘れ、彼女の寝顔を見つめ続けてしまった。
(……綺麗だ。ラベンダーの香りが、先輩自身の香りと混ざって、なんだか……すごく落ち着く)
僕は、ノートの片隅に「環境制御による成功。香りと本人の相性が非常に良い」と記した。……しかし、その三十分後。先輩は、うなされるような声を上げて目を覚ました。
「……っ、ハッ!? ここはどこ!? 守君、今、西暦何年!?」
「西暦2026年ですけど!? どうしたんですか、あんなに安らかに寝てたのに」
「……だめよ。匂いが、匂いが『記憶』を呼び覚ましすぎたわ……!」
香先輩は、顔面蒼白で自分のこめかみを押さえた。
「ラベンダーの香りに癒やされていたはずなのに、脳がリラックスしすぎたせいか、小学生の頃に夏休みの宿題を最終日まで放置して泣きながら日記を書いた記憶が、4K並みの鮮明さでフラッシュバックしたわ! たしかあの時の日記には行ってもいない北海道旅行のラベンダー畑のことを書いていたわ。脳が『反省モード』に入っちゃって、これじゃ安眠どころか懺悔室よ!」
「……それはアロマのせいじゃなくて、先輩のトラウマのせいですよね?」
「無理! 匂いは記憶と密接に関係しすぎている。この香りを嗅ぐたびに、私は自分の怠惰な過去と向き合わなきゃいけないの? アロマテラピー、却下よ! 精神的なノイズが多すぎるわ!」
結局、ラベンダーの香りは換気扇によって無情にも排出された。香先輩は、空になったディフューザーを恨めしそうに見つめながら、ポツリと呟いた。
「……そば殻、パイプ、竹、羽毛、ウレタン、ヒノキ、そしてアロマ。ありとあらゆる『物質』と『環境』を試したわ。でも、本当の安眠はどこにもない……」
彼女の視線が、ゆっくりと僕の方へと向けられる。その瞳には、これまでの実験で一度も見せたことのない、奇妙な熱が宿っていた。
「守君。……私たち、まだ一つだけ、『生物的』なアプローチを試していないわよね」
不吉で、それでいて心臓を跳ねさせるような予感が、夕暮れの部室に満ちていく。
窓の外では、烏の鳴き声が遠ざかり、旧校舎を深い群青色が包み込み始めていた。ありとあらゆる物質的な枕を試し、そのすべてに拒絶された香先輩は、部室の真ん中で悟りを開いたような顔をして立っていた。
「……守君。私は、独りよがりだったわ」
「急にどうしたんですか。ラベンダーの香りで、まだ過去の反省モードを引きずってるんですか?」
「違うの。私は『物』に頼りすぎていた。でも、人間もまた動物であり、本能の生き物なのよ。……ねえ、守君。赤ちゃんが一番安らかに眠れる場所はどこか、知っている?」
不穏な。あまりにも不穏な導入に、僕は一歩後ずさった。
「……お母さんの、腕の中とか、ですか?」
「正解よ。……つまり、私に足りなかったのは、無機質な反発係数ではなく、有機的な温もり。『人肌』だったのよ」
香先輩が、ジリジリと距離を詰めてくる。その瞳は、獲物を狙うハンターのそれでありながら、同時に救いを求める巡礼者のようでもあった。
「……まさか」
「守君。君の腕を、私に貸してちょうだい。これは、睡眠部における最後にして最大の実験――『腕枕による入眠効果の検証』よ!」
「却下です! 恥ずかしすぎるでしょう! せめて自分で自分の腕を枕にするとか、そういう努力をしてください!」
「自分の腕じゃダメなの! 脳が『自分の体の一部』だと認識している以上、そこには甘えも安心も生まれないわ! 他者の、それも信頼に足るパートナーの鼓動を感じることで、私の脳波はシータ波を通り越して宇宙へと繋がるはずなの!」
「意味がわかりません!」
結局、先輩の「私はもう四日間、合計で十時間も寝ていないのよ……?」という涙ながらの(半分脅迫めいた)訴えに、僕は屈した。
僕は床にそっと寝そべり、その横に先輩が潜り込むような形で横たわる。僕は意を決して、右腕を差し出した。香先輩は「失礼するわね」と、不自然なほど丁寧に言い添えてから、僕の二の腕の上にゆっくりと頭を預けた。
――心臓が、跳ねた。
制服の布越しに伝わる、彼女の後頭部の重み。そして、密着した肩から伝わる彼女の体温。先輩は僕の腕の上で何度か頭を揺らし、収まりのいい場所を探している。僕の腕は羽毛のように柔らかくもなければ、ウレタンのように形を変えもしない。ただの、少し骨張った男の腕だ。
「……あ。……これだわ」
先輩の呟きが、腕の筋肉を通じて直接脳に響いたような気がして、全身に鳥肌が立った。
「温かい……。素材の反発係数なんてどうでもいいわ。この、微かに伝わる血流の振動……。守君、君の腕は、どんな高級ブランドの枕よりも慈愛に満ちているわ……」
「……黙って寝てください。記録が取れませんから」
五分もしないうちに、先輩の呼吸が深く、規則正しいものに変わった。僕は息を殺して、その様子を見守っていた。これまでの実験では、どこか無理に眠ろうとして肩に力が入っていた先輩が、今は驚くほど自然に、深い眠りの底へと沈んでいる。夕闇の中で、彼女の寝顔はどこまでも無防備だった。少しだけ開いた唇から漏れる寝息が、僕のすぐ耳元で聞こえる。
(……なんだこれ。……めちゃくちゃ可愛いじゃないか。というか、これ、一時間も続けたら僕の腕、死ぬんじゃないか……?)
先輩の髪が僕の頬をくすぐる。僕は、自分の心臓が『ドクンドクン』と腕を通じて先輩に伝わってしまうのではないかと、気が気ではなかった。
一時間後。完全に夜の帳が下りた部室で、香先輩は信じられないほどスッキリとした表情で目を覚ました。
「……おはよう、守君。今なら、私、エベレストの頂上まで寝ながら登れる気がするわ」
「よくわかりませんが、よかったです。……僕の右腕、完全に感覚がなくなりました」
「最高だったわ。夢の中で、私はポーランドのガチョウと握手をして、ヒノキの精霊とダンスを踊ったの。これこそが、私が求めていた『真の安眠』よ!」
香先輩は頬を薔薇色に染め、かつてないほど活力に満ち溢れていた。……しかし。
「……じゃあ、守君。次は君の番ね」
「はい?」
「実験は公平に行われるべきだわ。君も安眠の素晴らしさを知るべきよ。さあ、私の腕を貸してあげる。腕枕、試してみる?」
「え、いや、それは……もっと恥ずかしいですって!」
「え? じゃあ膝枕にする?」
「いいから! 遠慮しないで! 私が安眠できたんだから、守君も絶対に安眠できるわ!」
「本当にいいですって!」
「じゃあ今度は守君の膝枕を貸して」
「それは、今はもっと無理です!」
「膝枕の方が頭の位置が安定するから、頸椎の角度的には理想的なのよ?」
「そうじゃなくて!」
結局、今度は僕が先輩の腕枕を体験することになった。先輩の腕は驚くほど柔らかくて、そして……僕の耳が触れるたびに、彼女が「ふふ、守君の髪、ちょっと硬いのね」と優しく撫でてくるのが、僕の脳にはどんな刺激物よりも劇的に作用した。
翌日。睡眠部の部室には、いつになく生き生きとして、全授業で一度も瞬きすらしていないのではないかというほど絶好調の香先輩と。
「……守君。その目の下の隈、私の現役時代より酷くない? もしかして、新種の伝染病?」
と、先輩に本気で心配されるほど、一睡もできずに真っ白に燃え尽きた僕の姿があった。人肌の温もりは、先輩にとっては最強の安眠薬だったようだが、思春期の男子である僕にとっては、一週間は不眠不休で走り続けられるレベルの強力な覚醒剤だったらしい。
夜寝ようとした時、自分の腕の中であんなに無防備に寝ていた先輩の顔が、目を閉じると網膜に焼き付いて離れないのだ。
「……先輩。安眠への道は、やっぱり……まだ遠そうです」
僕は、ノートの片隅に「結論:人肌枕は、使用者の精神状態によって猛毒となる。特に後輩男子への使用は厳禁」と、震える文字で書き込んだ。
「ところで、抱き枕も試したいんだけど」
「勘弁してください」




