かなり荒めの洗礼
富士樹海・深層ゲート。
Aランク指定領域『腐海樹海』の入り口に足を踏み入れた瞬間、サクラは肺を焼かれるような感覚に襲われ、その場に膝をついた。
「……っ、げほっ、かはっ……!」
視界がぐらりと揺れる。空気そのものが重く、どろりとした粘液のようにまとわりついてくる。
「サクラさん!?」
レンが慌てて駆け寄るが、彼自身も顔面を蒼白にしていた。呼吸をするだけで、毒を飲まされているような錯覚に陥る。
「……それがAランク領域特有の『高濃度魔力瘴気』よ。耐性のない低ランク探索者は、ここにいるだけで精神をゴリゴリ削られ、徐々に五感を奪われていくわ」
先頭を歩くアリサは、涼しい顔で周囲を見渡した。彼女の周囲だけは、
見えない風の結界に守られているかのように瘴気が薄らいでいる。
「エキシビションまで残り十日。特級魔物と九条颯真を同時に相手取るなら、この程度の空気に呑まれている暇はないわよ」
アリサが手元の端末を操作すると、周囲の木々が不気味にざわめき始めた。
バキバキと巨大な根が地脈を引き裂く音が響く。
現れたのは、体高五メートルを超える漆黒の樹木型魔物――Aランク『ブラッド・トレント』の群れだった。
さらに、その影から赤い双眸を光らせる四つ足の獣、Aランク『シャドウ・フェンリル』が三体、低い唸り声を上げている。
「さあ、始めましょうか。まずはウォーミングアップよ。……死なない程度にね」
アリサはそう言い残すと、ひらりと後方の巨木の枝へと飛び乗り、完全に「観客」の態勢に入った。
【雷神トール】:いきなりAランクの群れに放り込むとは。あの剣聖の小娘、中々良い性格をしているな。
【戦神アレス】:獅子は我が子を千尋の谷に落とすというやつだ。さあ、どう足掻くか見せてもらおう!
「……来るよ、サクラさん!」
「はい……っ!
サクラが歯を食いしばり、展開できる限りの支援魔法をレンに付与する。
レンは両手に炎と雷を宿し、迫り来るブラッド・トレントの群れへと突っ込んだ。
「はああああっ!」
炎の斬撃が巨木を叩き切る。だが、Cランクモンスターなら一撃で灰になるはずの炎が、分厚い樹皮に阻まれ半分も通らない。
(硬い……! それに、再生速度が異常だ!)
「レンさん、右からシャドウ・フェンリル! 速度、早いです!」
「くそっ!」
サクラの警告を受け、レンは雷のステップで強引に回避行動を取る。
だが、その直後、別のフェンリルが死角からレンの肩口に噛み付いた。
「がっ……!?」
「レンさん!!」
サクラが即座に回復魔法を飛ばすが、瘴気の影響で魔力の通りが悪く、回復速度が追いつかない。
「……やるしかない。サクラさん、『強制同調』だ!」
「でも、こんな瘴気の中でやったら……!」
「構わない! このままじゃ押し切られる!」
レンの叫びに、サクラは覚悟を決め、レンの魔力回路へと自身の意識をダイブさせた。
瞬間、レンの脳内にサクラの視界と戦術予測が直接流れ込んでくる。
『右のトレントの攻撃軌道、読みました! 0.5秒後、左にステップして炎の追撃を!』
「おおおおおっ!」
サクラのナビゲートに従い、レンの身体が最適解の動きで敵を翻弄し始める。水魔法でフェンリルの足元を凍らせ、雷で粉砕する。
確かに動きは劇的に良くなった。だが――。
(……情報量が、多すぎる……ッ!)
レンは内心で悲鳴を上げていた。
敵の動き、サクラからの戦術指示、自身の三属性魔法の緻密な出力制御、そして高ランク特有の殺気。これら膨大な情報を、普通の高校生であるレンの脳が同時に処理できるはずがなかった。
「が、はっ……!」
処理落ち。一瞬の思考のフリーズ。
そのコンマ数秒の遅れが、Aランク戦では致命傷になる。
トレントの丸太のような腕がレンの横腹に直撃し、彼の身体はボールのように吹き飛ばされ、地面を何度も転がった。
「レンさん!!」
サクラが悲鳴を上げ、駆け寄ろうとするが、彼女自身も限界だった。
瘴気による状態異常『魔力毒』が全身を回り、強制同調による精神的負荷が重なり、足がもつれてその場に倒れ込んでしまう。
迫り来る魔物の群れ。万事休すかと思われたその時。
凄まじい風の刃が空間を切り裂き、ブラッド・トレントとシャドウ・フェンリルの群れを一瞬にして細切れの肉片に変えた。
血の雨が降る中、ゆっくりとアリサが着地する。
「……実戦なら、二人とも今ので死んでいたわよ」
冷酷な声。アリサは新しい木刀をアイテムボックスから引き抜き、倒れ伏すレンとサクラに切先を向けた。
「モンスターは待ってくれない。……そして、私も待たないわ。次は私と対人戦よ。立ちなさい」
「……冗談、ですよね……」
全身の骨が軋むような痛みに耐えながら、レンは剣を杖にしてなんとか立ち上がる。サクラも血を吐きながら、必死にレンの背中に手を添えた。
「レンくん。あなたの弱点は『演算能力の不足』よ。強大な魔力とサクラさんの支援を受け止めるだけの、脳の処理速度が圧倒的に足りていない。……だから、思考がショートして動きが止まる」
アリサの木刀が、目にも留まらぬ速さでレンの首筋に迫る。
「サクラさん。あなたの弱点は『状態異常への脆弱性』。Aランクの瘴気や過酷な環境下で、心が折れる前に肉体が悲鳴を上げている。……それじゃあ、レンくんを支えきれない」
ガンッ!!
鈍い音とともに、レンは再び地面に叩きつけられた。手加減されているとはいえ、S級の攻撃だ。
内臓がひっくり返るような衝撃に、意識が飛びかける。
「防ぐのが精一杯ね。……さあ、ポーションを飲んで。すぐに次を始めるわよ」
アリサの無慈悲な特訓は、日が暮れても、夜が明けても終わることはなかった。
魔物との死闘。アリサとの模擬戦。
気絶。ポーションでの強制回復。そしてまた魔物との死闘。
文字通りの、地獄の無限ループ。
その凄惨な光景を、配信のカメラだけが静かに映し出し続けていた。
【古代龍バハムート】:……見るに堪えんな。ボロボロではないか。
【冥王ハデス】:所詮はEランク上がりのガキだ。Sランクの領域には到底届かん。颯真の足元にも及ばないな。
常連たちがため息をつく中。
静かに、二人の戦いを分析し続けていた神々が口を開いた。
【賢神ソフィア】:いや。器は十分に育っている。足りないのは、その器に注ぎ込まれた膨大な力を制御するための『回路』だ。……あの少年の脳は今、知恵の限界を超えようと悲鳴を上げている。
【戦神アレス】:あの娘もそうだ。肉体が瘴気と痛みに蝕まれながらも、その魂だけは少年から決して離れようとしない。……見事な闘志だ。私の加護を与えるに値する。
天界の二柱の神が、同時に笑みを浮かべた。
【賢神ソフィア】:仕方がない。私の『叡智』の欠片を、少年にくれてやろう。
【戦神アレス】:ならば、私は小娘の『魂』に絶対の盾を授けようではないか。
ボロボロになりながらも、決してアリサから目を逸らさないレンとサクラ。
二人の頭上に、天界からの規格外の『スパチャ』が降り注ごうとしていた――。




