九条颯真の過去
九条颯真が自分の「異質」を悟ったのは、八歳の夏だった。
消灯した自室。
まぶたの裏に広がるのは、暗闇ではなく「気配」の地図だ。
廊下の角を曲がる家政婦の体温。
庭の隅、紫陽花の葉を揺らす野良猫の拍動。雨が降る五分前、大気が孕む湿り気の重さ。
「……そんなの、嘘に決まってるじゃん」
無邪気な友人の一言で、颯真は口を閉ざした。 理解されない言葉は、無意味なノイズと同じだ。
それ以来、彼は世界を「観測」するだけで、語ることをやめた。
両親は、優秀な探索者だった。
Bランクの父と、Aランクの母。
家は常に整い、生活に不自由はなかった。
ただ、そこには「生活の音」が欠けていた。
父がいれば母が潜り、母が戻れば父が発つ。
食卓に並ぶのは、栄養学的に完璧で、けれど温もりを失った食事。
一人でいることが、颯真にとっての「正解」になった。孤独は寂しさではなく、彼を形作る静かな鎧だった。
中学の適性検査で叩き出した「Aクラスジョブ」という数字に、職員が顔を上気させて言った。
「素晴らしい。君の将来が楽しみだ」 颯真は、その「楽しみ」という言葉の意味が、辞書的な定義以外に理解できなかった。
ハデスが配信のチャット欄に現れたのは、颯真が十四歳の時だ。
淡々と効率的な攻略を流すだけの地味な配信。そこに、その名は刻まれた。
【冥王ハデス】:九条颯真。お前には、自分でも持て余している力があるはずだ、そうだろ?
荒らしだと思って無視しようとしたが、次の言葉に指が止まった。
【冥王ハデス】:八歳の夜、お前は暗闇の中で『視て』いただろう。孤独を埋めるためのその感覚を
誰にも話していない、記憶の奥底。
恐怖よりも先に、深い納得が颯真を満たした。 「……お前は、誰だ?」
【冥王ハデス】:そうだな、“支援者“とでも言っておこう
マイクに向かって呟いた声は、震えていた。
その夜、ハデスは語った。
神々の代理戦争。候補者としての役割。
「強くなれ。それがお前の存在理由だ」 その言葉は、冷たく、けれど残酷なほどシンプルだった。
理由が欲しかった颯真にとって、それは福音ですらあった。
十六歳でBランク。
同年代では敵なし。
ハデスは「よくやっている」と評価したが、それはチェスの駒が進んだことを確認するような響きだった。
(……俺のことを、どう思っているんだろう)
そんな疑問を抱くことさえ、効率を乱す
「ノイズ」だと切り捨ててきた。
ハデスは「強くなれ」とは言うが、一人の人間としての颯真を肯定する言葉は、一度もなかったからだ。
レンの配信を初めて見たのは、十八歳の春。 SNSでバズっていた『EランクがDランクボスを瞬殺』という切り抜きだ。
そこに、ハデスが警戒していた【バハムート】の名を見つけ、颯真は凍りついた。
だが、アーカイブを辿るほど、颯真の困惑は深まった。
(なんなんだ、こいつは……) 死線を越えた直後に確定申告の心配をし、一千万のスパチャに怯え、リスナーと「普通」の会話を楽しむ男。
一切の計算がなく、最適解から最も遠い場所にいる。
それなのに、その周りには温かな「気配」が満ちていた。
それは、颯真が八歳の夜からずっと、心から消していた色だった。
今、颯真は自室で天井を見上げていた。
情報を分類し、優先順位をつけ、感情を殺す。そんな「最適化」された日常が、レンの隣にいる間だけは、ひどく馬鹿げたことに思えた。
「‥悪くなかったな」
それは彼が人生で初めて口にした、論理的ではない感想だった。
颯真は、ハデスにメッセージを送った。 「一つ、聞いていいですか。……俺に声をかけた時、何を思っていましたか」 数
分の沈黙。重い通知音が響く。
【冥王ハデス】:……この人間は、一人で立ちすぎている。そう思った
【冥王ハデス】:俺が隣にいれば、もっと強くなれると。……だが、俺の隣『以外』の可能性を、俺は考えていなかった
【冥王ハデス】:それが、俺の誤りだったのかもしれない
颯真は、呼吸を忘れた。
完璧であるはずの冥王が、自分の選択を「誤り」と称した。
それは、ハデスなりの謝罪であり、一人の人間として颯真に向き合った証だった。
「俺は、ハデスさんを信頼しています。役割だけじゃなく、伝わっていますよ」
打ち込みながら、視界が少しだけ滲む。 ハデスは不器用だ。自分も不器用だ。
けれど、今夜はそれでいいと思えた。
【冥王ハデス】:……礼はいらない。寝ろ
短く、突き放すような言葉。 けれど、そこには確かな「気配」があった。
「もう少し早くいれば良かった」 レンに零したあの言葉は、過去の自分への弔いだったのかもしれない。
ハデスがいる。
そして今、レンやサクラ、アリサという、計算外の人間たちが現れた。
整理できない混沌こそが、生きているということなのだと、颯真は初めて知った。
向き合う日は、いずれ来る。
その時は、役割としてではなく自分の意志で剣を振るうだろう。
颯真はスマホを置き、静かに目を閉じた。 八歳の夜のような張り詰めた感覚は、もうなかった。
彼は、驚くほど深く、穏やかな眠りへと落ちていった。
新作書きました。
よろしければご覧ください。
S級暗殺者、パティシエになる ースイーツのスの字も知らない男の奮闘記ー
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バトル要素はほとんど無いです。




