閑話 アリサの一日
アリサの朝は、五時半の澄んだ空気とともに始まる。
アラームが鳴る三十分前には意識が覚醒する。
これは強敵の気配を逃さないために染み付いた、S級探索者の「呪い」のような習慣だ。
シャワーを浴び、無機質なキッチンでトーストを焼く。
昨夜、探索者協会から届いた「候補者制度」の極秘資料を思い出し、胃の奥が少し重くなる。
だが、その思考を止めたのは、スマホの隅で光る一件の通知だった。
『今日の話、色々とありがとうございました。また明日も配信します』
レンからの、拍子抜けするほど短いメッセージ。
「……ふふっ」
思わず、ジャムを塗る手が止まる。
世界を揺るがすような秘密を知った夜に、「また明日も配信」なんて言葉で締めくくる人間が他にいるだろうか。
返信を打ち込み、一口かじったトーストは、いつもより少しだけ甘く感じた。
午前中、アリサは協会の本部ビルにいた。
磨き抜かれた大理石の廊下を歩くたび、職員たちの視線が刺さる。
S級――それは畏怖と、好奇の対象だ。
「……霧島さん。最近、随分と渋谷支部に肩入れされていますね」
定期報告の席、担当の管理官が眼鏡の奥の目を光らせた。
「神代レンさんの件ですか?」
「ええ。本部も彼を……いえ、彼の背後にいる『存在』を無視できなくなっています。深入りするのは、S級といえど危険です」
「分かっています」 アリサは淡々と、だが遮る隙を与えないトーンで返した。
「それでも、私は彼を見届けたい。……それが私の『探索』なんです」 管理官はため息をつき、それ以上は何も言わなかった。
正午前、アリサは一人、渋谷のカフェにいた。 窓の外では、何も知らない人々が喧騒の中を歩いている。
一時間後に始まるレンの配信を待ちながら、彼女は昨日の「会議」を思い出していた。
候補者の一人、颯真。
かつて合同訓練で見た彼は、精密機械のように冷徹だった。
(……でも、昨日は違った)
テーブルの下で、ずっと一定のリズムで動き続けていた彼の指先。
冷たい表情とは裏腹に、彼の体は「拒絶」と「緊張」に震えていたのだ。
そしてレンは、その震えを、心配そうに見つめていた。
(あの人は、自分に向けられる刃より、相手の抱える痛みの方を先に見てしまうんだな……)
冷めたコーヒーを一口飲み、アリサは独りごちた。
「お人好しにも、ほどがあるよ」
♦︎
「ここ、安くておいしいんですよ!」 サクラに連れられて入ったのは、路地裏の古びた定食屋だった。
S級探索者が入るような店ではない。
だが、隣に座るレンが「サバの塩焼き定食」を幸せそうに待っているのを見ると、ここは落ち着く場所に思えた。
三人はしばらく、黙ってサバを食べた。 脂の乗った身を口に運ぶたび、張り詰めていた重苦しい感情が、日常の湯気に溶けていく気がした。
午後。レンの配信が始まると、アリサは仕事の手を止め、タブレットを見つめた。
画面の中では、地下三階の薄暗い通路を、レンとサクラが慎重に進んでいる。 いつも通りの、危なっかしくて、けれど温かい光景。
アリサは、柄にもなく震える指でコメントを打ち込んだ。
【kirishima_arisa】:レンくん、今日の話とは関係ないんだけど。
「あ、アリサさん。何ですか?」
レンがカメラに向かって小首をかしげる。
【kirishima_arisa】:この配信を見てると、自分がどこにいるか分かる気がする。
S級になって、目標を失って迷子だった私にとって、ここは一番「安心できる場所」なんだ。
【kirishima_arisa】:……うまく言えないけど。ありがとう。
一瞬、コメント欄が静まり返る。
「……アリサさん。ありがとうございます。僕の方こそ、そう言ってもらえると、明日も頑張れます」
レンは照れくさそうに笑い、すぐにまた前を向いて剣を構えた。 その「普通」の強さに、アリサは深く、救われた気がした。
夜。自室のベッドで、アリサはスマホを開いた。 ふと思い立ち、これまで一度も反応したことのなかった颯真のSNSを覗く。
『今日は少し、整理ができた気がする』
無機質な投稿。
けれど、昨日の今日で彼が何かを呟いたこと自体、小さな奇跡に思えた。
アリサは満足げに微笑み、スマホを置いて目を閉じた。 明日もまた、五時半には目が覚めるだろう。
けれど明日という日は、今日より少しだけ優しいものになる予感がしていた。




