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世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていませんでした  作者: 白川 透


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9/14

第9話 もう一度ではなく、今日の告白

 駅の手前で、道は川を渡る。


 古い鉄の橋だった。欄干の塗装がところどころ剥げていて、下を流れる川は夕方の色をしていた。


 橋の真ん中あたりで、小春が足を止めた。


「ここ、橋だね」

「橋だな」

「戦わないでね」

「戦わない」


 小春は欄干に腕を載せ、川を見下ろした。それからスマートフォンを出して、写真を一枚表示した。


 古本屋の猫だった。あくびの途中で、少しぶれている方だ。


「家に帰ってから、何回か見直したの」

「うん」

「先に言っておくと、写真としてはやっぱり一枚目の方がいいと思ってる」

「知ってる」

「知ってるよね」


 小春は画面の猫を指で拡大した。


「でも、直季くんがこっちを選んだ理由が気になって。私が笑ってたのを思い出せるって言ったでしょ。それで見てたら、私も思い出したの。あくびした瞬間、直季くんが私の後ろで『あ』って言った」

「言ったか」

「言った。私より先に」


 覚えていなかった。


 小春は画面を消した。


「直季くんが何を面白がってたのか、気になっちゃって」

「……そうか」

「今日の映画もそう。靴下、三足だったんでしょ」

「三足だ」

「次に見るときは、私も数える」


 彼女はそう言って、川の方へ顔を戻した。


 俺は欄干の手すりを握った。


 鉄が冷たかった。


 言うなら、今だと思った。


 思ったのに、喉が詰まった。


 元の人生で、俺がこの人に交際を申し込んだのは冬だった。言葉も、場所も覚えている。覚えているからこそ、今それを使うわけにはいかなかった。あれは、あのときの彼女に言った言葉だ。


「小春」


 呼ぶと、彼女がこちらを向いた。


「話がある」

「……うん」


 小春が欄干から腕を下ろした。スマートフォンを持つ手が、少しだけ胸の方へ寄った。


「生姜飴、食べてみるって言っただろ。辛そうって言いながら、まだ食べてないから分からないって」

「言った」

「そのあと会議を始めた」

「始めたね」

「猫の写真は、俺が何を言っても一枚目の方がいいって譲らなかった。でも、二枚目を消さなかった」


 言うたびに、小春の顔が赤くなっていった。


「全部、この三週間で知ったことだ」


 手すりを握る指に力が入った。


「知るたびに、また会いたくなった。次は何を選ぶのか、何を見て笑うのか、隣で見ていたくなった」


 息を吸った。


「小春が好きだ。俺と付き合ってほしい」


 川の音が聞こえた。


 橋の向こうから自転車が一台来て、俺たちの後ろを通り過ぎていった。今度は、振り返って確かめなかった。


 小春は何も言わなかった。


 スマートフォンを胸の前で握ったまま、俺を見ていた。それから、ゆっくり下を向いた。


「……ずるい」

「ずるいか」

「ずるいよ。私が先に言おうと思ってたのに」


 俺は手すりから手を離した。


「先に?」

「今日、言うつもりだったの。猿の映画が終わって、帰りに。それで、ちゃんと準備してきたのに」


 小春はスマートフォンの画面をつけ、こちらに少しだけ傾けた。メモの画面だった。一番上に『言うこと』と書いてあり、その下に何行も続いている。


 見えたのは一行目だけだった。


『・映画を見るとき、すごく真剣』


 小春は慌てて画面を伏せた。


「見ないで」

「見てない。一行しか」

「一行見てるじゃない」


 彼女は伏せたスマートフォンを両手で押さえ、深呼吸した。


「好き」


 顔を上げないまま、小春は言った。


「私も、直季くんが好き。付き合いたい。……付き合ってください」


 はっきりした声だった。橋の上で、川の音に負けなかった。


 返事が遅れた。


 好きだと言われたのは初めてではない。結婚式の日にも、寝る前の暗がりでも聞いた。それなのに、今聞いた言葉の前では、手をどこに置けばいいのか分からなかった。


「……ああ」


 ようやく声が出た。


「よろしく、お願いします」


 敬語になった。小春が顔を上げて、目を丸くした。


「なんで敬語」

「分からない」

「私もさっき、ください、って言った」

「言ってた」


 二人で同時に吹き出した。小春は笑いながら、目の端を指で押さえていた。


「理由もね、言おうと思ってたの。いっぱい書いてきたの」

「メモの」

「そう。でも、今読んだら、恥ずかしくて死ぬ」

「死なないでくれ」

「だから、また今度。ちゃんと言えるときに言う」


 小春はスマートフォンを鞄の奥にしまった。しまってから、鞄の上から一度軽く叩いた。


「好きなのは、本当だから。それは今言った」

「聞いた」

「ちゃんと聞いた?」

「ちゃんと聞いた」


 彼女は満足そうにうなずいて、それから急に欄干の方を向いた。耳が真っ赤だった。


 俺も川を見た。顔が熱かった。


*


 駅まではあと五分だった。


 橋を渡り終えたところで、小春が言った。


「一駅、歩かない?」

「歩こう」


 隣町から学校のある駅まで、線路沿いに歩けば三十分ほどかかる。日はもう沈みかけていた。小春は家に連絡を入れ、少し遅くなると送った。


 並んで歩きながら、どちらもしばらく何も言わなかった。言わなくても、さっきより近いところを歩いていた。


「明日、学校でどうする?」

「どうするって」

「古賀くんに言う?」

「聞かれたら言う」

「聞かれるかな」

「卵焼きを一個取られた時点で、もう怪しまれてる」


 小春が笑った。


 線路の向こうを、電車が一本通り過ぎた。窓の明かりが、二人の影を一度だけ長く伸ばした。


 元の人生では、冬だった。


 今日は十月の終わりで、まだ手袋も要らない。


 俺はそれ以上は数えずに、隣を歩く彼女の話の続きを聞いた。


お読みいただきありがとうございます!

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