第9話 もう一度ではなく、今日の告白
駅の手前で、道は川を渡る。
古い鉄の橋だった。欄干の塗装がところどころ剥げていて、下を流れる川は夕方の色をしていた。
橋の真ん中あたりで、小春が足を止めた。
「ここ、橋だね」
「橋だな」
「戦わないでね」
「戦わない」
小春は欄干に腕を載せ、川を見下ろした。それからスマートフォンを出して、写真を一枚表示した。
古本屋の猫だった。あくびの途中で、少しぶれている方だ。
「家に帰ってから、何回か見直したの」
「うん」
「先に言っておくと、写真としてはやっぱり一枚目の方がいいと思ってる」
「知ってる」
「知ってるよね」
小春は画面の猫を指で拡大した。
「でも、直季くんがこっちを選んだ理由が気になって。私が笑ってたのを思い出せるって言ったでしょ。それで見てたら、私も思い出したの。あくびした瞬間、直季くんが私の後ろで『あ』って言った」
「言ったか」
「言った。私より先に」
覚えていなかった。
小春は画面を消した。
「直季くんが何を面白がってたのか、気になっちゃって」
「……そうか」
「今日の映画もそう。靴下、三足だったんでしょ」
「三足だ」
「次に見るときは、私も数える」
彼女はそう言って、川の方へ顔を戻した。
俺は欄干の手すりを握った。
鉄が冷たかった。
言うなら、今だと思った。
思ったのに、喉が詰まった。
元の人生で、俺がこの人に交際を申し込んだのは冬だった。言葉も、場所も覚えている。覚えているからこそ、今それを使うわけにはいかなかった。あれは、あのときの彼女に言った言葉だ。
「小春」
呼ぶと、彼女がこちらを向いた。
「話がある」
「……うん」
小春が欄干から腕を下ろした。スマートフォンを持つ手が、少しだけ胸の方へ寄った。
「生姜飴、食べてみるって言っただろ。辛そうって言いながら、まだ食べてないから分からないって」
「言った」
「そのあと会議を始めた」
「始めたね」
「猫の写真は、俺が何を言っても一枚目の方がいいって譲らなかった。でも、二枚目を消さなかった」
言うたびに、小春の顔が赤くなっていった。
「全部、この三週間で知ったことだ」
手すりを握る指に力が入った。
「知るたびに、また会いたくなった。次は何を選ぶのか、何を見て笑うのか、隣で見ていたくなった」
息を吸った。
「小春が好きだ。俺と付き合ってほしい」
川の音が聞こえた。
橋の向こうから自転車が一台来て、俺たちの後ろを通り過ぎていった。今度は、振り返って確かめなかった。
小春は何も言わなかった。
スマートフォンを胸の前で握ったまま、俺を見ていた。それから、ゆっくり下を向いた。
「……ずるい」
「ずるいか」
「ずるいよ。私が先に言おうと思ってたのに」
俺は手すりから手を離した。
「先に?」
「今日、言うつもりだったの。猿の映画が終わって、帰りに。それで、ちゃんと準備してきたのに」
小春はスマートフォンの画面をつけ、こちらに少しだけ傾けた。メモの画面だった。一番上に『言うこと』と書いてあり、その下に何行も続いている。
見えたのは一行目だけだった。
『・映画を見るとき、すごく真剣』
小春は慌てて画面を伏せた。
「見ないで」
「見てない。一行しか」
「一行見てるじゃない」
彼女は伏せたスマートフォンを両手で押さえ、深呼吸した。
「好き」
顔を上げないまま、小春は言った。
「私も、直季くんが好き。付き合いたい。……付き合ってください」
はっきりした声だった。橋の上で、川の音に負けなかった。
返事が遅れた。
好きだと言われたのは初めてではない。結婚式の日にも、寝る前の暗がりでも聞いた。それなのに、今聞いた言葉の前では、手をどこに置けばいいのか分からなかった。
「……ああ」
ようやく声が出た。
「よろしく、お願いします」
敬語になった。小春が顔を上げて、目を丸くした。
「なんで敬語」
「分からない」
「私もさっき、ください、って言った」
「言ってた」
二人で同時に吹き出した。小春は笑いながら、目の端を指で押さえていた。
「理由もね、言おうと思ってたの。いっぱい書いてきたの」
「メモの」
「そう。でも、今読んだら、恥ずかしくて死ぬ」
「死なないでくれ」
「だから、また今度。ちゃんと言えるときに言う」
小春はスマートフォンを鞄の奥にしまった。しまってから、鞄の上から一度軽く叩いた。
「好きなのは、本当だから。それは今言った」
「聞いた」
「ちゃんと聞いた?」
「ちゃんと聞いた」
彼女は満足そうにうなずいて、それから急に欄干の方を向いた。耳が真っ赤だった。
俺も川を見た。顔が熱かった。
*
駅まではあと五分だった。
橋を渡り終えたところで、小春が言った。
「一駅、歩かない?」
「歩こう」
隣町から学校のある駅まで、線路沿いに歩けば三十分ほどかかる。日はもう沈みかけていた。小春は家に連絡を入れ、少し遅くなると送った。
並んで歩きながら、どちらもしばらく何も言わなかった。言わなくても、さっきより近いところを歩いていた。
「明日、学校でどうする?」
「どうするって」
「古賀くんに言う?」
「聞かれたら言う」
「聞かれるかな」
「卵焼きを一個取られた時点で、もう怪しまれてる」
小春が笑った。
線路の向こうを、電車が一本通り過ぎた。窓の明かりが、二人の影を一度だけ長く伸ばした。
元の人生では、冬だった。
今日は十月の終わりで、まだ手袋も要らない。
俺はそれ以上は数えずに、隣を歩く彼女の話の続きを聞いた。
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