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世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていませんでした  作者: 白川 透


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第10話 恋人の歩幅

 月曜日の朝、小春は俺より先に教室にいた。


「おはよう、直季くん!」


 声が大きかった。黒板の前でしゃべっていた二人がこちらを振り向いた。


「……おはよう」

「今日、晴れてるね!」

「晴れてるな」

「一時間目、数学だね!」

「数学だな」


 小春はうなずき、自分の席に戻って教科書を出した。出したのは古文の教科書だった。三枝が無言で数学の教科書を差し出し、小春は無言で受け取った。


 一時間目のあと、小春がシャープペンの芯のケースを振っていた。空だったらしい。


 気づいたときには、自分の替え芯を一本持って、彼女の席の横に立っていた。


「……ありがとう」


 小春は芯を受け取り、しばらく指先でつまんで眺めていた。それから大事そうにシャープペンへ入れた。芯一本にしては、ずいぶん嬉しそうな顔だった。


 二時間目のあと、小春が窓を開けようとして鍵に手こずった。俺は席を立ち、窓の前まで行って開けた。


 小春が隣から、俺の顔を見上げた。


「直季くん」

「うん」

「さすがに多い」


 言いながら、彼女は肩を震わせていた。後ろの席で三枝が、見なかったことにして教科書をめくった。


 三時間目の終わりに、小春が「ちょっと寒いかも」と三枝に言った。俺は自分のブレザーを脱ぎかけた。


 前の席の古賀が、振り返ったまま固まっていた。


「芦沢」

「何だ」

「お前、今日、鳴瀬の執事?」

「違う」

「さっきから立ってばっかりだな」

「窓が固かった」

「ブレザーは?」

「暑かった」


 古賀は窓の外を見た。十月の終わりの空は、どう見ても涼しかった。


 俺はブレザーを着直した。


 困っているのを見ると、頼まれる前に手が出る。家でもそうだった。


 ここは家ではない。昨日から恋人になったばかりの相手に、いきなり執事が付いたら困るだろう。


 昼休み、小春がこちらへ来た。


「直季くん」

「うん」

「さっき、ブレザー脱ぎかけてたでしょ」

「……見てたのか」

「紗和が教えてくれた」

「すまない。手が勝手に」

「手が勝手に、ブレザー脱ぐんだ」


 小春は笑いをこらえる顔をしていた。それから、ポケットから何かを出して俺の机に置いた。


 苺ミルクの飴だった。三つあった。


「これ、今日の分」

「三つもか」

「朝、多めに持ってきちゃった。……あと、これも」


 さらに一つ、生姜飴が置かれた。


「生姜?」

「コンビニで見つけたから。直季くん、好きなんでしょ」

「好きというか」

「私は食べないけど、直季くんの分」


 机の上に、飴が四つ並んだ。


 古賀がそれを見て、黙って自分の弁当に戻った。


「……小春も、今日すごいな」

「すごくない。普通」

「数学の時間に古文を出してた」

「あれは紗和しか見てない」

「俺も見てた」


 小春は飴の山に目を落とした。


「……私も、手が勝手に」


 二人とも黙った。それから、小春が先に笑い出した。


「お互い、何してるんだろうね」

「分からない」

「明日はもうちょっと普通にしよう」

「努力する」

「窓は開けていいよ。固いから」


*


 放課後、二人で校門を出た。


 坂を下りて、駅までの道を並んで歩いた。前にもこの道を一緒に歩いた。同じ道なのに、今日は小春の手がやけに近くに見えた。


 鞄を持っていない方の手だった。指先が、歩くたびに少しだけ揺れている。


 元の人生では、初めて手をつないだのは、付き合ってから二週間後の帰り道だった。妻はその日のことを、俺の手汗がすごかったという話でしか覚えていなかった。


 今の俺の手も、すでに湿っていた。


 信号で立ち止まった。赤だった。


「小春」

「うん」

「手を、つないでもいいか」


 小春がこちらを見た。


 何か言われるより先に、小春の左手が俺の前に差し出された。指先が、少しだけ開いていた。


「……どうぞ」


 俺は、その手を取った。


 小さかった。覚えているよりも、少しだけ冷たかった。握り方が分からなくて、最初は指先だけをつかんだ。小春が手のひらの方へずらしてきた。


 信号が青になった。


*


 歩き出してすぐ、歩幅が合わなかった。


 俺が一歩出すと、小春が半歩遅れる。小春が急ぐと、今度は俺の足が前に出すぎる。つないだ手が、二人の間で前後に引っ張られた。


「直季くん、速い」

「そっちが急に速くなった」

「合わせようとしたの」

「俺も合わせようとした」


 二人で一度止まった。


「せーので出そう」

「せーので」


 せーの、で同時に一歩出した。二歩目で、どちらも相手の足を見てしまった。三歩目は、ほとんど行進だった。


 自転車ですれ違った男子生徒が、ちらりとこちらを見ていった。


「……これ、余計に変じゃない?」

「変だな」


 小春が吹き出し、俺もつられて笑った。笑っているうちに、足を見るのを忘れていた。少しゆっくり歩き出すと、さっきより靴音が揃っていた。


 坂の途中で、小春が小さく言った。


「これ、思ってたより難しいね」

「難しいな」

「直季くん、慣れてると思ってた」

「なんで」

「なんとなく。落ち着いてそうだったから」


 慣れているはずだった。四年間、この手と並んで歩いた。買い物の帰りも、正月の初詣も、終電を逃した夜も。


 それなのに、今は心臓が落ち着かなかった。指一本動かすたびに、小春の手がどう返すのかが気になって、前を見ていられない。


「全然慣れてない」

「ほんと?」

「手汗がひどい」

「それは、ちょっと思ってた」


 小春は笑いながら、それでも手を離さなかった。


 駅に着くまでの十分が、とても短かった。


*


 改札の前で、手を離した。


 離す瞬間、小春の指が一度だけ俺の指に引っかかった。それから、ゆっくり離れていった。


 右手が急に軽くなった。


 小春は定期入れを出し、少しだけ迷ってから、こちらを振り向いた。


「明日も、一緒に帰れる?」

「帰れる」

「じゃあ、明日も」


 彼女はそう言って、離したばかりの左手を顔の横で小さく振った。指先を、閉じたり開いたりしている。さっきまで俺の手があったところを、確かめているみたいだった。


 俺も、同じ手で振り返した。


 改札を抜けていく背中を見送ってから、自分の手のひらを見た。まだ少し湿っていた。


 明日も、手をつないで帰る。

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