第11話 弁当を食べるまでが長すぎる
木曜日の昼休み、中庭のベンチで、小春は弁当箱を二つ並べた。
一つは見慣れた水色の箱だった。もう一つは紺色で、少し大きい。
「こっちが直季くんの」
紺色の箱が、俺の膝の上に置かれた。
作ってきてくれると言われたのは、火曜日の帰り道だった。つないだ手を少し揺らしながら、木曜日に作ってくるから一緒に食べよう、と小春は言った。
古賀には水曜日のうちに話してある。古賀は「いいよ。俺は購買のパン組に混ざる」とだけ言い、それから「卵焼き、一個は残しとけよ」と付け足した。何の権利なのかは分からない。
「開けていいよ」
小春は自分の箱に手をかけたまま、こちらを見ていた。
蓋を持ち上げた。
白いご飯の半分に、海苔で何かが描いてあった。細長い胴体と、左右に大きく開いた二本の腕。腕の先が、それぞれ二つに分かれている。
「……ザリガニ」
「分かった?」
「分かった。はさみで分かった」
「よかった。作ってるとき、途中から蜘蛛に見えてきて」
おかずの段には、唐揚げが三つ、卵焼きが二切れ、ほうれん草のおひたし、ミニトマト、ちくわにきゅうりを詰めたものが並んでいた。卵焼きの端が、少しだけ茶色くなっている。
俺は箸を持ったまま動けなくなった。
弁当を作ってもらうのは、初めてではない。妻は忙しい朝でも、時々俺の分を詰めてくれた。会社の昼休みに蓋を開けて、隅に小さな付箋が入っているのを見つけたこともある。
それでも、膝の上の箱は、今の小春が今朝詰めてくれたものだった。早起きをして、海苔を切って、ザリガニのはさみを二つに分けてくれた。
「……直季くん?」
「うん」
「食べないの?」
「食べる」
「さっきから三十秒くらい、ザリガニと見つめ合ってるけど」
小春の箸は止まっていた。自分の弁当には、まだ一口も手をつけていない。
「味、変かもしれないから。卵焼き、ちょっと焦げたし。唐揚げは昨日の夜に下味つけたけど、しょっぱすぎたら残していいから」
「残さない」
「まだ食べてないでしょ」
前にも聞いた台詞だった。
俺は息を吸った。
「嬉しい。ありがとう」
小春が少し目を見開いて、それから弁当箱の縁に視線を落とした。
「……どういたしまして」
*
唐揚げを一つ口に入れた。
次にご飯をザリガニの尾の方から崩し、おひたしをつまみ、ちくわを半分かじった。もう一つの唐揚げを取ろうとしたところで、手首に小春の箸が当たった。
「待って」
「ん」
「待って待って。まだ感想聞いてない!」
気づくと、おかずの段が三分の一ほど空いていた。
口の中のものを飲み込んでから、自分の箸の先を見た。
向こうの十年で、飯は移動の合間に流し込むものになっていた。座って食べられる日の方が少なかった。温かいうちに腹に入れておけば、次にいつ襲われても動ける。
ここは中庭のベンチで、襲ってくるのは購買帰りの一年生くらいだ。
「……すまない」
「早すぎるよ。ザリガニの頭、もうないじゃない」
「尾から食べた」
「頭もないの」
小春は空いた場所を見下ろして、口元を押さえた。笑っているのか呆れているのか、肩が小さく揺れていた。
「おいしくて急いだ、ってこと?」
「おいしかった。急いだのは、癖だ」
「どういう癖」
「食べられるときに食べる癖」
「運動部みたい」
「そんなところだ」
小春は箸を置き、自分の弁当の蓋を膝の上に載せた。
「じゃあ、ここからは一個ずつ。一個食べたら、一個感想」
「一個ずつ」
「唐揚げは?」
残っていた唐揚げを一つ取った。今度はゆっくり噛んだ。
衣が少し固く、中まで醤油と生姜の味が入っている。ご飯が欲しくなる味だった。
「しょっぱくて、うまい。ご飯が進む」
「しょっぱすぎない?」
「ちょうどいい。コロッケの店の隣で売ってもいい」
「それは褒めてる?」
「かなり褒めてる」
小春は小さくうなずき、膝の上でこっそり拳を握った。
「次。おひたし」
「普通にうまい」
「普通に、が付いた」
「おひたしは普通にうまいのが一番いい」
「……それはそうかも」
ちくわのきゅうりは、端が少しはみ出していた。ミニトマトはヘタが取ってあった。一つずつ感想を言うたびに、小春がうなずいたり、首をかしげたりした。
最後に、卵焼きが残った。
小春の箸が、また止まった。
「それ、一番緊張してる」
「なんで」
「直季くん、卵焼き自分で巻くんでしょ。金物屋さんで鍋の話してたし。古賀くんから守ってたし」
「守ってた」
「だから、勝負」
焦げた端の方から一切れ、口に入れた。
甘かった。
砂糖がしっかり入っていて、焦げたところが少しだけ香ばしい。俺がいつも巻くのは出汁を入れた甘くないものだ。結婚してからも、ずっとそうだった。
甘い卵焼きを、こんなにちゃんと味わったのは初めてだった。
「……どう?」
「甘い」
「甘いだけ?」
小春の声が、飴の交換をしたときと同じだった。
「甘くて、焦げたところがうまい。俺の巻くやつと全然違う。これが一番好きだ」
「えっ」
小春が箸を落としかけた。
「卵焼きが? 唐揚げじゃなくて?」
「卵焼きが」
「卵焼き職人に言われても、信じていいのか分からない」
「職人じゃない。でも、本当にこれが一番好きだ」
小春は弁当箱の蓋を持ったまま、しばらく黙っていた。それから急にポケットからスマートフォンを出し、メモを開いた。
「何書いてるんだ」
「見ないで」
見えてしまった。
『直季くん:甘いもの三つまで。そのあとコロッケ。卵焼きは甘くても例外』
「例外になった」
「なったの。今なった」
小春はメモを保存して、ようやく自分の弁当に箸をつけた。最初に食べたのは、自分の卵焼きだった。
「……ほんとだ。焦げたとこ、ちょっとおいしい」
「だろう」
「なんで直季くんが得意そうなの」
*
食べ終わると、二人で弁当箱を片付けた。
中庭の水道で箱を軽くすすぎ、小春が持ってきた布巾で拭く。俺が拭いた箱を、小春が袋に入れる。手順を言い合わなくても、自然とそうなった。
「洗って返そうか」
「ううん。うちで洗う。お母さんに、どうだったか聞かれるから」
「全部うまかったと言っておいてくれ」
「ザリガニの頭がすぐなくなったって言う」
小春は袋の口を結びながら、少しだけ黙った。
「また作ってもいい?」
「いいのか」
「毎日は無理だけど。朝、けっこう早起きしたし」
「毎日じゃなくていい」
「じゃあ、また作りたくなったら」
彼女はそう言って、袋を膝の上でぽんと叩いた。
予鈴が鳴った。立ち上がりながら、俺は空になった紺色の箱のことを考えていた。
今朝の小春は、海苔のはさみを二つに分けていた。俺も、何か返したかった。卵焼きではない何かを。
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