第12話 二本ある傘を一本にする理由
水族館を出ると、外はもう暗かった。
土曜日の夜間開館は、六時で入場が締め切られる。俺たちは五時過ぎに入り、閉館の音楽が流れるまで館内にいた。
「クラゲ、よかったね」
展示室からロビーへの階段を下りながら、小春が言った。三回目だった。
「よかった」
「光ってたね」
「光ってた」
「直季くん、ずっとカニの前にいたけど」
「あれはタカアシガニだ」
「知ってる。名前の板、三回読んでたもん」
市内の小さな水族館で、水槽は二十ほどしかない。小春は入ってすぐ、暗い部屋の奥にあるクラゲの水槽へ俺を引っ張っていった。青や紫の光の中を、透明な傘がゆっくり上下していた。
小春はガラスに額がつきそうなほど近づいて、黙って見ていた。写真は一枚も撮らなかった。撮るより見ていたい、と小さく言った。
俺の方は、その隣の水槽のタカアシガニから離れられなかった。脚を広げると三メートルを超えるという。あの脚の長さで、あの関節の数で、海の底をどう歩くのか。どの脚から出すのか。
「ずっと脚の順番を数えてたでしょ」
「数えてた」
「分かった?」
「分からなかった。たぶん、カニ本人も分かってない」
小春が笑った。
「アシカの餌やり、見逃したね」
「見逃したな」
「四時半だったんだって。入る前に終わってた」
「次は四時半に来よう」
「次もカニ見るの?」
「見る」
ロビーの出口の前で、俺はスマートフォンを出した。
「一枚、撮っていいか」
「私を?」
「クラゲの看板と」
小春は看板の横に立ち、クラゲの真似なのか、両手を顔の横でゆらゆらさせた。撮れた写真の小春は、半分目をつぶっていた。
「撮り直す?」
「これでいい。残す」
「それ、私の台詞」
出口の自動ドアが開くと、雨の匂いがした。
*
降り始めたばかりらしかった。歩道の色が、まだらに変わっている。
二人とも傘は持っていた。天気予報で、夜から雨だと言っていたからだ。小春は鞄から水色の折り畳み傘を出し、俺は持ってきた紺色の傘を開いた。
駅までは歩いて十分ほどだった。
並んで歩き出そうとしたとき、小春が自分の傘を開きかけた手を止めた。
「直季くん」
「うん」
「ちょっとだけ、そっちに入ってもいい?」
俺は自分の傘を見上げた。
普通の大きさの傘だった。二人で入れば、どちらかの肩は濡れる。雨脚はまだ弱いが、駅までの間に強くなるかもしれない。小春の傘は折り畳みで、骨が細い。風が出たら俺の傘の方が持つ。だとしたら、小春が俺の傘に入り、小春の傘は畳んだまま俺が持ち、濡れる側を俺にして――
そこまで考えて、小春の顔を見た。
小春は折り畳み傘を半分開いたまま、こちらを見上げていた。
どちらの傘が強いかを聞かれたわけではなかった。
「……どうぞ」
俺は傘を少し傾けた。小春は自分の傘を畳んで鞄にしまい、俺の隣へ入ってきた。
狭かった。
思っていたよりずっと狭かった。肩と肩が当たり、歩くたびに傘の縁から雫が落ちる。俺が小春の側へ傘を寄せると、自分の左肩がすぐに冷たくなった。小春がそれに気づいて傘の柄を押し戻すと、今度は小春の右肩が濡れる。
「これ、二人とも濡れてない?」
「濡れてるな」
「傘、二本あったのにね」
「あったな」
小春が吹き出した。俺もこらえきれなかった。笑うと傘が揺れて、また雫が落ちた。
「直季くん、もうちょっとこっち」
俺はまた傘を小春の側へ寄せた。
「傘じゃなくて」
「じゃあ、何だ」
「直季くんが、こっち」
半歩寄ると、肩と肩がしっかりくっついた。傘はちょうど二人の真ん中に来た。濡れ方は、さっきとあまり変わらなかった。
「ほら、ちょうどいい」
「濡れてるけどな」
「濡れてるけど、ちょうどいいの」
結局、二人とも少しずつ濡れたまま、駅まで歩いた。歩幅は、月曜日よりずっと合っていた。
*
駅の屋根の下に入ると、小春は鞄からハンカチを出して、自分の肩より先に俺の左肩を拭いた。
「冷たいでしょ」
「大丈夫だ」
「大丈夫な濡れ方じゃないよ」
改札の上の時計は、七時を少し過ぎていた。
小春は時計を見て、それから改札の方を見た。定期入れは出さなかった。
「ねえ」
「うん」
「もうちょっとだけ、話していい?」
駅の入口から外を見ると、雨はさっきより細くなっていた。少し待てば、傘がなくても歩けそうなくらいだった。
小降りになったから今のうちに帰った方がいい、と言うこともできた。
「いい。ちょうど、座りたかった」
改札の横に、ベンチが一つあった。並んで座ると、濡れた肩同士がまた触れた。
小春は膝の上に鞄を載せ、傘の柄を指でなぞった。
「クラゲの話、まだしたかったの」
「三回したぞ」
「四回目。光ってたって話じゃなくて」
小春はガラスの前で見ていたことを話した。クラゲは泳いでいるように見えて、ほとんど水に運ばれていること。それでも、時々自分で傘を閉じて向きを変えること。その瞬間を見つけたくて、ずっと見ていたこと。
「三回見つけた」
「俺はカニの脚の順番が一回も分からなかった」
「勝ったね」
「勝負だったのか」
「今決めた」
話しているうちに、外の雨はほとんど止んでいた。
駅前の歩道が、街灯の光を映して光っている。傘を差して歩く人は、もういなかった。
小春は外を見て、少し残念そうに笑った。
「止んじゃった」
「止んだな」
「でも、もうちょっと話そう。あと一個だけ」
「一個だけ」
「直季くんは、カニのどこが一番よかった?」
俺は脚の関節について話し始めた。
一個だけでは、終わらなかった。
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