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世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていませんでした  作者: 白川 透


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12/15

第12話 二本ある傘を一本にする理由

 水族館を出ると、外はもう暗かった。


 土曜日の夜間開館は、六時で入場が締め切られる。俺たちは五時過ぎに入り、閉館の音楽が流れるまで館内にいた。


「クラゲ、よかったね」


 展示室からロビーへの階段を下りながら、小春が言った。三回目だった。


「よかった」

「光ってたね」

「光ってた」

「直季くん、ずっとカニの前にいたけど」

「あれはタカアシガニだ」

「知ってる。名前の板、三回読んでたもん」


 市内の小さな水族館で、水槽は二十ほどしかない。小春は入ってすぐ、暗い部屋の奥にあるクラゲの水槽へ俺を引っ張っていった。青や紫の光の中を、透明な傘がゆっくり上下していた。


 小春はガラスに額がつきそうなほど近づいて、黙って見ていた。写真は一枚も撮らなかった。撮るより見ていたい、と小さく言った。


 俺の方は、その隣の水槽のタカアシガニから離れられなかった。脚を広げると三メートルを超えるという。あの脚の長さで、あの関節の数で、海の底をどう歩くのか。どの脚から出すのか。


「ずっと脚の順番を数えてたでしょ」

「数えてた」

「分かった?」

「分からなかった。たぶん、カニ本人も分かってない」


 小春が笑った。


「アシカの餌やり、見逃したね」

「見逃したな」

「四時半だったんだって。入る前に終わってた」

「次は四時半に来よう」

「次もカニ見るの?」

「見る」


 ロビーの出口の前で、俺はスマートフォンを出した。


「一枚、撮っていいか」

「私を?」

「クラゲの看板と」


 小春は看板の横に立ち、クラゲの真似なのか、両手を顔の横でゆらゆらさせた。撮れた写真の小春は、半分目をつぶっていた。


「撮り直す?」

「これでいい。残す」

「それ、私の台詞」


 出口の自動ドアが開くと、雨の匂いがした。


*


 降り始めたばかりらしかった。歩道の色が、まだらに変わっている。


 二人とも傘は持っていた。天気予報で、夜から雨だと言っていたからだ。小春は鞄から水色の折り畳み傘を出し、俺は持ってきた紺色の傘を開いた。


 駅までは歩いて十分ほどだった。


 並んで歩き出そうとしたとき、小春が自分の傘を開きかけた手を止めた。


「直季くん」

「うん」

「ちょっとだけ、そっちに入ってもいい?」


 俺は自分の傘を見上げた。


 普通の大きさの傘だった。二人で入れば、どちらかの肩は濡れる。雨脚はまだ弱いが、駅までの間に強くなるかもしれない。小春の傘は折り畳みで、骨が細い。風が出たら俺の傘の方が持つ。だとしたら、小春が俺の傘に入り、小春の傘は畳んだまま俺が持ち、濡れる側を俺にして――


 そこまで考えて、小春の顔を見た。


 小春は折り畳み傘を半分開いたまま、こちらを見上げていた。


 どちらの傘が強いかを聞かれたわけではなかった。


「……どうぞ」


 俺は傘を少し傾けた。小春は自分の傘を畳んで鞄にしまい、俺の隣へ入ってきた。


 狭かった。


 思っていたよりずっと狭かった。肩と肩が当たり、歩くたびに傘の縁から雫が落ちる。俺が小春の側へ傘を寄せると、自分の左肩がすぐに冷たくなった。小春がそれに気づいて傘の柄を押し戻すと、今度は小春の右肩が濡れる。


「これ、二人とも濡れてない?」

「濡れてるな」

「傘、二本あったのにね」

「あったな」


 小春が吹き出した。俺もこらえきれなかった。笑うと傘が揺れて、また雫が落ちた。


「直季くん、もうちょっとこっち」


 俺はまた傘を小春の側へ寄せた。


「傘じゃなくて」

「じゃあ、何だ」

「直季くんが、こっち」


 半歩寄ると、肩と肩がしっかりくっついた。傘はちょうど二人の真ん中に来た。濡れ方は、さっきとあまり変わらなかった。


「ほら、ちょうどいい」

「濡れてるけどな」

「濡れてるけど、ちょうどいいの」


 結局、二人とも少しずつ濡れたまま、駅まで歩いた。歩幅は、月曜日よりずっと合っていた。


*


 駅の屋根の下に入ると、小春は鞄からハンカチを出して、自分の肩より先に俺の左肩を拭いた。


「冷たいでしょ」

「大丈夫だ」

「大丈夫な濡れ方じゃないよ」


 改札の上の時計は、七時を少し過ぎていた。


 小春は時計を見て、それから改札の方を見た。定期入れは出さなかった。


「ねえ」

「うん」

「もうちょっとだけ、話していい?」


 駅の入口から外を見ると、雨はさっきより細くなっていた。少し待てば、傘がなくても歩けそうなくらいだった。


 小降りになったから今のうちに帰った方がいい、と言うこともできた。


「いい。ちょうど、座りたかった」


 改札の横に、ベンチが一つあった。並んで座ると、濡れた肩同士がまた触れた。


 小春は膝の上に鞄を載せ、傘の柄を指でなぞった。


「クラゲの話、まだしたかったの」

「三回したぞ」

「四回目。光ってたって話じゃなくて」


 小春はガラスの前で見ていたことを話した。クラゲは泳いでいるように見えて、ほとんど水に運ばれていること。それでも、時々自分で傘を閉じて向きを変えること。その瞬間を見つけたくて、ずっと見ていたこと。


「三回見つけた」

「俺はカニの脚の順番が一回も分からなかった」

「勝ったね」

「勝負だったのか」

「今決めた」


 話しているうちに、外の雨はほとんど止んでいた。


 駅前の歩道が、街灯の光を映して光っている。傘を差して歩く人は、もういなかった。


 小春は外を見て、少し残念そうに笑った。


「止んじゃった」

「止んだな」

「でも、もうちょっと話そう。あと一個だけ」

「一個だけ」

「直季くんは、カニのどこが一番よかった?」


 俺は脚の関節について話し始めた。


 一個だけでは、終わらなかった。

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