第6話 普通に歩くのが一番難しい
古本屋の前まで戻ると、留守だった猫が帰ってきていた。
店先の段ボール箱に、茶色い縞の猫が収まっている。小春はしゃがんでスマートフォンを構えた。
一枚目を撮ったとき、猫はまっすぐこちらを見ていた。二枚目を撮る瞬間、猫が大きくあくびをした。小春が「あ」と笑い、手元が揺れた。
その背中の方から、自転車が来ていた。
狭い通りだった。乗っている男の人は前を見ているが、画面をのぞき込んだ小春は気づいていない。
「自転車、後ろから来てる」
声をかけると、小春が顔を上げた。二人で店先の方へ寄る。自転車は会釈して通り過ぎていった。
「ありがとう。全然気づかなかった」
「たまたま見えた」
たまたまではなかった。向こうで十年、歩くたびに背後を確かめていた癖が抜けていない。
小春は撮ったばかりの写真を確かめてから、俺を見上げた。
「ねえ。直季くんも撮っていい?」
「俺を?」
「人が写ってる写真、あんまり撮ったことないの。練習させて」
商店街の裏手に、小さな神社があった。境内には誰もいない。銀杏の木が一本、まだ青い葉をつけていた。
小春は鳥居の前に俺を立たせ、数歩下がった。
「そこ。うん、そのまま」
言われたとおりに立った。
立ちながら、境内の入口を見た。社殿の裏。銀杏の陰。人の気配はない。ないことを確かめると、今度は反対側の入口が気になった。
「直季くん」
「うん」
「今はこっち見て」
顔を向けた。
小春がスマートフォンを下ろした。
「……すごい真剣」
「真剣に見たんだ」
「決闘の前みたい」
彼女は耐えきれずに笑い出した。
*
「もうちょっと普通の顔できる?」
「普通の顔って、どうやるんだ」
「いつもの顔」
「いつもこうじゃないか」
「いつもはもっと、こう……」
小春はそれから、いくつか注文をつけた。少し右を向いて。手はポケットに。空を見て。空じゃなくて銀杏。
俺はそのたびに動いた。銀杏を見上げたまま、首が痛くなってきた。
小春も画面を見ながら、だんだん眉が寄っていった。
「……違うなあ」
「首の角度か」
「首じゃないの。たぶん、私が注文しすぎ」
小春はスマートフォンを下ろし、石段に腰を下ろした。
「やめた。注文、もうしない」
「いいのか」
「いい。立たせっぱなしでごめんね」
隣に座ると、石段は少し冷たかった。
小春は膝の上でスマートフォンを転がしていた。
「前にね、家族の写真を撮ろうとしてタイマーかけたの。走って戻ったら、つまずいて」
「転んだのか」
「転んだ。ちょうどシャッターが切れて、写ってたのが、お父さんとお母さんと、地面に伸びてる私の足」
「足だけ」
「足だけ。お母さん、その写真を年賀状に使おうとした」
「見出しは」
「『長女、着地に失敗』」
こらえる間もなく、声が出た。
石段に手をついて笑っていると、隣で小春が「あ」と言った。
見ると、彼女はスマートフォンを構えかけたまま固まっていた。
「今の、撮りたかった」
「今の?」
「直季くん、すごく普通に笑ってた。それが撮りたかったのに」
画面には銀杏の葉しか写っていなかった。
「もう一回笑って」
「急に言われても」
「お願い。足の話、もう一回するから」
「二回目は笑えない」
「じゃあ、思い出して笑って」
思い出そうとした。父と母と、地面の足。
思い出すほど、顔のどこに力を入れればいいのか分からなくなった。
小春がシャッターを切った。画面を見た彼女の肩が震え始める。
「……何これ」
見せてもらうと、歯を食いしばった男が写っていた。笑っているというより、重い荷物を持ち上げる途中に見えた。
「『男性一名、笑顔を試みる』」
「記事にしないでくれ」
小春は石段に額がつきそうなほど笑っていた。
今度は俺が、その顔を見ている番だった。
「交換しよう」
ようやく息を整えた小春が、石段に座り直した。
「私、足の話したでしょ。直季くんの失敗も聞かせて」
十年分の失敗なら山ほどあった。橋で挟み撃ちにされたこともある。けれど、それは今の俺の失敗ではない。
俺はもっと前の記憶を探した。
「小学三年の夏休みに、自由研究でアリの巣を観察しようとした」
「うん」
「アリを集めるために、台所の砂糖を庭にまいた」
「どのくらい?」
「一袋」
「全部?」
「全部。次の日、母が砂糖を探して、庭が黒くなってるのを見つけた」
小春が口を押さえた。
「アリ、来た?」
「来すぎた。観察どころじゃなかった。自由研究の題は『アリの行列』から『アリの撤退』になった」
「見出しは?」
言われて少し考えた。
「……『小学生、砂糖を一袋まく』」
「それは見出しじゃなくて説明」
小春は真顔で言ってから、こらえきれずに肩を揺らした。
「『庭、黒くなる』の方がいい」
「怖いだろ、それは」
「怖いのがいいの。何があったのか読みたくなるでしょ」
見出しにも作り方があるらしい。俺はもう一度考えたが、庭が黒くなる以上のものは思いつかなかった。
*
笑いが収まったころ、俺は言った。
「一緒に写らないか」
「二人で?」
「さっきから俺ばかり撮ってる。これじゃ、今日の小春が一枚も残らない」
小春は少し考えてから、鞄の中を探った。出てきたのは手のひらに乗るほどの三脚だった。
「持ってたのか」
「念のため」
「何に備えてるんだ」
「直季くんの真似」
三脚は石段の上でしか安定しなかった。小春がタイマーを十秒に合わせ、急いで戻ってきて隣に座る。足の話を思い出したのか、走り方がやけに慎重だった。
シャッターの音がした。
確かめると、写真は傾いていた。鳥居が右へ倒れかけ、俺たちは左の端に寄っている。二人とも、少しだけ笑っていた。
「撮り直す?」
「ううん」
小春は画面を見たまま首を振った。
「これがいい。残す」
駅へ戻る途中、小春は今日の写真を見返し始めた。
「猫、どっちがいいと思う?」
古本屋の猫が二枚並んでいた。一枚目は段ボール箱の中から、猫がまっすぐこちらを見ている。輪郭がくっきりして、後ろの値札の文字まで読める。二枚目はあくびの途中で、猫の顔が少しぶれていた。
「私はこっち」
小春が一枚目を指した。
「ちゃんと撮れてるし、猫も堂々としてる」
「俺はこっちだな」
俺は二枚目を指した。
「ぶれてるよ?」
「撮る直前に、小春が笑ってた」
あくびを見て「あ」と笑った声を、俺は覚えていた。
「この写真を見ると、それを思い出せる」
小春は二枚目をじっと見た。
「……写真としては、一枚目の方がいいと思うけどな」
「それは、そうかもしれない」
「かもしれないじゃなくて、そうだよ」
そう言いながら、彼女は二枚目を消さなかった。
改札で別れて電車に乗ると、すぐにスマートフォンが震えた。
小春から写真が四枚届いていた。古本屋の猫が二枚。歯を食いしばった男が一枚。傾いた鳥居の前で、端に寄って笑っている二人が一枚。
『全部あげる。笑顔の練習用も』
俺は傾いた一枚を、降りる駅まで画面に出したままにしていた。
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