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世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていませんでした  作者: 白川 透


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第5話 好きなものを答えてください

 日曜日の待ち合わせは、商店街の入口にある時計の下だった。


 小春は十時二十八分に来た。俺が着いたのは十五分前だ。


「今日は点検してない?」

「十五分だけした」

「進歩だね」


 右耳の上に、先週と同じ髪留めがあった。


 小春は俺の服を上から下まで眺め、満足そうにうなずいた。


「約束、守ったね」

「そっちも」


 彼女は髪留めに指先を当てただけで、それ以上は何も言わなかった。


 代わりに鞄から飴を一つ出した。苺ミルクの包み紙だった。


「今日の分。生姜は持ってきてない?」

「家に置いてきた」

「よし」


 口に入れると、先週と同じ甘さがした。


「じゃあ、発表しよう」


 小春がスマートフォンを出した。俺はポケットから四つ折りの紙を出した。


「紙なんだ」

「書いたら、紙で出したくなった」


 広げた紙には、映画館の名前と上映作品を写してある。隣町の古い映画館が、来月まで冒険映画の特集を組んでいる。今日は三時から、密林で黄金の猿を追う映画だった。


「黄金の猿」

「猿が黄金なのか、黄金を持った猿なのか、予告では分からなかった」

「それは気になる」


 小春は真剣な顔で紙をのぞき込み、それから自分の画面をこちらへ向けた。


 地図の上に、赤い印がいくつも打たれている。


「私はこれ。この商店街を歩いて、写真を撮る。撮影散歩」

「今いる場所だな」

「そう。移動時間ゼロ。お得」


 彼女は少し胸を張った。


「どっちにする?」


 どちらでもいい、と言いかけた。言う前に、券売機の画面が頭をよぎった。


「……猿も気になる。でも、小春がここで何を撮るのか見たい」


 小春は少し考えて、紙を俺に返した。


「特集は来月までやってるんだよね。だったら今日は晴れてるうちに散歩にして、猿は取っておきたい」

「次は映画だな」

「次は直季くんのにしよう」


 俺は紙を丁寧に畳み直し、財布の内側にしまった。


*


 商店街は駅から川の方へ、ゆるい下り坂になって延びていた。


 八百屋、金物屋、閉店の貼り紙が何年も変わっていないらしい呉服店。小春はまず八百屋の前で足を止めた。


「ここ、大根がたまに変な形してるの」


 今日の大根はまっすぐだった。小春は残念そうに一枚だけ撮った。


 妻のスマートフォンに入っていた二股の大根も、こういう店先で撮ったのかもしれない。聞いたことはなかった。


 隣の金物屋の前で、今度は俺の足が止まった。


 店先の台に、銅の卵焼き器が一つだけ出ていた。四角い鍋の縁が、使い込まれたように落ち着いた色をしている。値札には手書きで『職人もの』とあった。


「……いいな、これ」

「卵焼き器?」

「銅だ。熱の回りが均一だから、端まで焦げずに巻ける。ただ手入れが要る。使ったあとに放っておくと緑になる」


 気づくと、小春が俺の顔を見ていた。


「直季くん、料理するの?」

「少し」


 少しではなかった。妻と台所に立っていた四年間、卵焼きは俺の担当だった。巻くのが下手だった最初の一年、妻は崩れた卵焼きを「スクランブル」と呼んで毎朝食べた。


「卵焼き、自分で作ってるの?」

「朝、時々」

「じゃあ教室で古賀くんから守ってたのって」

「自分で巻いたやつだ」

「それは守るね」


 小春はスマートフォンを構え、卵焼き器を見下ろす俺を撮った。


「『男性一名、鍋を見極める』」

「見極めてない。見てただけだ」

「ずっと持ち手の角度見てたよ」


 店の奥から店主が出てきて、手入れの仕方を説明し始めた。俺が「油ならしは何回しますか」と聞くと話が長くなり、小春はそのあいだ一歩後ろで、俺と店主を交互に撮っていた。


 店を出てから、彼女は撮った写真を見返して笑った。


「真剣な顔、また撮れた」

「また?」

「映画のときも、こういう顔してた」


 卵焼き器は買わなかった。次に来たときまで残っていたら考える、と店主に言うと、小春が「次も来るんだ」と小さく言った。


「次、駄菓子屋さん。その先にたい焼き屋さんがあって、あと古本屋さんの店先の猫と、銭湯の煙突と、パン屋さんの看板の――」

「全部行くのか」

「行けるよ。近いから」


 近かった。近いのに、終わらなかった。


 駄菓子屋では、小春がラムネを二本買って一本を俺にくれた。ビー玉が落ちる音を撮りたいと言い、三回やり直した。音は写らなかった。


 たい焼き屋では、小春が二つ買って一つを俺にくれた。古本屋の猫は留守で、小春は空の段ボール箱を撮った。


「『本日休業』」

「猫が?」

「猫が」


 面白かった。本当に面白かった。


 ただ、たい焼きの次はクレープだった。


「ここのクレープ、写真映えするの」

「さっきたい焼き食べたよな」

「別腹」


 小春はクリームの多い一つを選び、俺にもメニューを見せた。


「直季くんは?」


 苺と生クリーム、チョコバナナ、キャラメル。どれも甘かった。


「……小春と同じで」

「いいの?」

「いい」


 よくなかった。


 口の中で、たい焼きの餡とクレープのクリームが合流した。向こうで三日間干し果物しか食べられなかったときでさえ、ここまで糖分に囲まれたことはない。


 小春の地図には、まだ赤い印が四つ残っていた。


「次はね、和菓子屋さん」


 俺はうなずいた。うなずいてから、自分が何にうなずいたのか考えた。


 彼女は楽しそうだった。今日のために考えてきてくれた道だった。


 だから、次の店にもついていった。


 和菓子屋のショーケースには、栗きんとんと大福と練り切りが並んでいた。


「直季くん、どれがいい?」


 選べなかった。どれもうまそうで、どれも今は入らなかった。


「……小春は?」

「私?」


 小春もショーケースを見たまま、黙った。


*


 二人でしばらく栗きんとんを見ていた。


 店の奥から、店主のおばあさんがこちらをうかがっている。買うのか買わないのか、そろそろはっきりしてほしいという顔だった。


 俺は息を吸った。


「小春」

「うん」

「しょっぱいものが食べたい」


 言ってから、ずいぶん情けない告白だと思った。


 小春がゆっくりこちらを向いた。


「……ほんとに?」

「ほんとに。甘いのが嫌なわけじゃない。ただ、たい焼きとクレープで二連続だった」

「ラムネ忘れてる」

「……三連続だった」

「朝の飴も入れたら四つ」

「数えてたのか」


 小春はショーケースから一歩離れ、口元を押さえた。


「私も、しょっぱいもの食べたかった」


「クレープの時点で、ちょっと思ってた。でも地図に印つけちゃったし。直季くん、全部楽しそうについてきてくれるし」

「楽しかった」

「知ってる。だから言い出せなかった」


 顔を見合わせて、同時に笑った。店主のおばあさんが首をかしげた。


「すみません、また来ます」


 二人で頭を下げて店を出た。


 来た道を少し戻ったところに、肉屋があった。店先で揚げたてのコロッケを売っている。小春の地図には、印のついていなかった店だ。


「ここ、いつも通り過ぎてた」

「入ろう」


 一個八十円のコロッケを二つ買った。紙に包まれたまま、店の前のベンチに並んで座る。


 かじると、ソースをつけなくても塩気が来た。じゃがいもが熱い。


「……しょっぱい」

「しょっぱいね」


 小春は目を閉じて噛みしめ、もう一口かじった。


「生き返る」

「同感だ」


 半分ほど食べたところで、小春がスマートフォンを出した。撮るのかと思ったら、メモを開いていた。


「何書いてるんだ」

「直季くん、甘いもの三つのあとはしょっぱいもの」

「記録するのか」

「する。次の地図に反映する」


 画面をのぞくと、本当に書いてあった。


『直季くん:甘いもの三つまで。そのあとコロッケ』


「四つ目は」

「四つ目は相談」


 小春はメモを保存して、満足そうにコロッケの続きをかじった。


 ベンチの横で、彼女のスマートフォンは伏せたままだった。この店では、一枚も写真を撮っていなかった。

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