第4話 教室では、なんて呼べばいい
月曜日、俺は七時半に教室の前にいた。
始業は八時四十分だ。
早すぎることは、駅を出る前から分かっていた。分かっていて足が速くなった。木曜日、廊下で小春についていきかけたときと同じで、体の方が先に動く。
戸を開けると、教室には誰もいなかった。
黒板はきれいに消され、窓際の机に朝日が差している。小春の席は廊下側の前から三番目だ。椅子はちゃんと机の下に収まっていた。
スマートフォンを出しかけて、ポケットに戻した。もう学校にいると送ったところで、彼女の電車が早くなるわけではない。朝の支度を急がせるだけだ。
自分の席に座り、数学の教科書を開いた。
開いてすぐ閉じたくなった。
二次関数の問題が並んでいる。見覚えはある。解き方も、昔は知っていたはずだ。けれど十年間、俺が計算してきたのは野営地までの距離と、残りの干し肉の数くらいだった。
頂点の座標を求めよ。
魔王城の位置なら、地図がなくても指させるのに。
ノートの端には、昨日の夜に書いておいたことが三つある。駅前のザリガニのポスターが一枚増えていたこと。土曜の服を見た母に、それどこで買ったのと聞かれたこと。来週の候補。
月曜に学校で、と送り合った。だから話したいことは、ここまで取っておいた。
八時を過ぎると、少しずつ人が増えた。
最初に来たのは古賀だった。
「うわ、芦沢がいる」
「いたら悪いか」
「悪くはないけど怖い。何、日直?」
「違う」
「じゃあ何で」
「早く目が覚めた」
古賀岳人は鞄を机に放り、俺の前の席に後ろ向きで座った。一年のときから昼を一緒に食べている。俺にとっては二十年以上前の友人だが、こいつにとっては先週の金曜日の続きだ。
「数学やってんの? えらいな。……それ、三問目からずっと同じとこ見てない?」
「見てる」
「分かんないの?」
「頂点がどこにいるか分からない」
「グラフ描けよ。俺も分かんないけど」
古賀は自分のノートを広げ、同じ問題で止まった。二人で十分ほど頂点を探した。見つからなかった。
「土曜、何してた?」
古賀がシャープペンを回しながら聞いた。
「映画を見た」
「何の」
「ザリガニ」
「あれ見たのかよ! 橋どうなった?」
「折れた」
「やっぱりな。予告の時点で折れそうだったもんな」
古賀は妙に満足そうにうなずいた。それから、ふと顔を上げた。
「一人で?」
答える前に、廊下から聞き覚えのある笑い声がした。
小春が三枝と一緒に入ってきた。三枝紗和は小春と同じ中学の出身で、教室ではたいてい彼女の隣にいる。
小春は鞄を置いてから、こちらを見た。
目が合った。
土曜日には改札の前で手を振った相手だ。名前を呼んでいいと言われ、呼んだら返事をもらえた。
ここは教室で、間に机が四列ある。古賀がいて、三枝がいる。黒板の前では誰かが昨日のドラマの話をしている。
「おはよう、なお――」
小春の声が途中で止まった。
隣の三枝が彼女を見た。小春は鞄の持ち手を握り直した。
「……芦沢くん」
「おはよう、鳴瀬」
口から出たのは、それだった。
小春が一度まばたきをした。それから「うん」とだけ言って、自分の席に座った。
前の席で古賀が首をひねった。
「お前ら、挨拶する仲だったっけ」
「掃除当番が一緒だった」
「へえ」
古賀はすぐに興味をなくし、また頂点を探し始めた。
俺はノートの端を見下ろした。話したいことが三つ書いてある。どれも、名字で呼んだ相手には切り出しにくかった。
一時間目が終わったとき、小春の席を見た。彼女は三枝と話していた。
昼休み、古賀と机をくっつけて弁当を広げていると、小春が教室の後ろを通った。
「あ、芦沢く――」
ちょうど古賀の箸が俺の卵焼きに伸びたところだった。それを阻止して振り向いたときには、小春はもう三枝に呼ばれて出ていった後だった。
何を言いかけたのかは分からなかった。
午後の授業はあまり頭に入らなかった。
名前で呼んでいいと言われたのは、休日の駅で二人きりのときだ。教室で急に呼べば、周りに何か言われるかもしれない。彼女が困るかもしれない。
だから名字に戻した。たぶん、それで正しい。
そう思うのに、朝の「うん」が耳に残っていた。
*
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声がした。
「芦沢くん」
小春だった。鞄を両手で持ち、下駄箱の端に立っている。三枝の姿はなかった。
「ちょっといい?」
「ああ」
校門を出て、駅とは反対の坂を少し上った。部活へ向かう生徒が自転車で追い越していく。
小春はしばらく黙っていた。坂の途中の自動販売機の前で、ようやく口を開いた。
「今朝、名字だったね」
「……ああ」
「私が先に、名字にしちゃったから」
小春は自動販売機のボタンを眺めた。何も買わなかった。
「なお、まで言ったんだけど」
「聞こえてた」
「聞こえてたんだ」
「紗和が隣にいたから、急に恥ずかしくなって。それで名字にしたら、芦沢くんも名字で返してきて」
「うん」
「あ、これ戻るんだ、って思った」
彼女は笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「俺も、周りを見てた。古賀がいて、三枝がいて、急に呼んだら鳴瀬が何か言われるかと思った」
自動販売機が低く唸っていた。
「……二人とも、照れて戻ったんだ」
「そうなる」
小春が小さく吹き出した。
「昼休みも呼ぼうとしたんだよ。でも、古賀くんと卵焼きの取り合いしてたから」
「あれは防衛戦だった」
「勝った?」
「半分取られた」
今度はちゃんと笑った。
坂の上から、運動部の掛け声が降りてくる。俺は鞄の持ち手を握り直した。
「小春」
彼女の肩が小さく跳ねた。
「俺は、教室でも名前で呼びたい。小春が嫌じゃなければ」
小春はしばらく俺を見ていた。それから鞄を胸の前に抱え直した。
「嫌じゃない。私も、直季くんって呼びたい。明日から」
「からかわれたら?」
「からかわれる」
「そこは、何とかするって言うところじゃない?」
「何とかはできない。古賀は止められない」
小春が吹き出した。
「じゃあ、一緒にからかわれよう」
坂を下りて、そのまま駅まで並んで歩いた。平日に二人で帰るのは初めてだった。
小春は乗る電車が違った。改札の前で彼女は定期入れを出し、俺は自分の路線の方へ一歩下がった。
「じゃあね、直季くん」
試すような声だった。知り合いのいない改札で、もう名前を使っている。
「また明日、小春」
彼女は満足そうに改札を抜けていった。
今日は、ついていこうとしなかった。明日になれば教室で会える。
*
翌朝、教室に入ると、小春はもう席にいた。
目が合うと、彼女は小さく息を吸った。
「おはよう、直季くん」
昨日より少し大きな声だった。何人かがこちらを見た気がしたが、確かめなかった。
「おはよう、小春」
それだけ言って席に着いた。
ノートの端の三つは、休み時間に一つずつ話せた。ザリガニのポスターの話をすると、小春は「二枚目、橋が無事なやつだった?」と真剣に聞いてきた。
「無事だった。まだ上陸前だ」
「じゃあ、また折れるね」
母に服のことを聞かれた話をすると、小春は少し得意そうな顔をした。
「お母さんにも分かるんだ」
「どこで買ったかを聞かれただけだ」
「似合ってるから聞かれたんだよ」
三つ目の候補だけは、話さずに取っておいた。
昼休み、古賀と机をくっつけていると、小春が弁当袋を持って通りかかった。
「直季くん、候補決まった?」
「決まった。送ろうか」
「ううん。日曜に見せ合おう。その方が楽しい」
「分かった」
「私も、まだ内緒」
彼女はそれだけ言って、三枝の待つ窓際へ戻っていった。
古賀の箸が止まっていた。
「……直季くん?」
「何だ」
「掃除当番で何があったんだよ」
「窓を拭いた」
古賀はしばらく俺の顔を見ていたが、それ以上は聞かずに卵焼きを狙ってきた。今日は全部守った。
窓際で、小春が三枝と話しながら弁当を開けている。一度だけこちらを見て、箸を持ったまま小さく手を振った。
俺も小さく振り返した。向かいの古賀が、見なかったことにして自分の卵焼きを食べた。
教室の真ん中で、土曜日の続きをしている気がした。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




