第3話 知らない予定が増えていく
「ごめん」
小春が顔を上げた。
「鳴瀬はこれが好きだって、勝手に決めてた。違うって分かっても、自分の予定ばかり気にしてた」
「……そんなに謝らなくても」
「いや。せっかく来てくれたのに」
小春は鞄の紐を指でつまんだ。
「楽しみだったから、言ったんだよ」
俺は彼女を見た。
「どうでもよかったら、普通に映画見て帰る。気まずくなるかと思ったけど、ずっと黙ってるのも嫌だったから」
耳が少し赤くなっていた。言い終えると彼女は壁のポスターへ目を移した。
俺は誘いを断られるのが怖かった。彼女も何かを言うたびに迷っていたのだと、ようやく気づいた。
壁の時計は十二時五十二分だった。
今ならまだ間に合う。券を買って席に着けば、思い出と同じ映画が始まる。
手の中で財布を握っていた。券売機の前で出したまま、しまい忘れていた。
小春が時計を見た俺に気づいた。
「行こうか。映画、始まっちゃう」
その声が優しかったので、足が動きかけた。
彼女は一緒に見てくれると言っている。誰かを傷つけてまで無理に連れていくわけじゃない。謝ったのだから、ここから気をつければいい。
そう考えたとき、家の玄関が浮かんだ。
靴べらの横に立てた海老の天ぷら。小春が作った方は衣が薄く、俺のものは海老の所在が分からなかった。
あの教室を出たあとも、俺はもっと上手に作れたはずだと悔しがっていた。妻は笑いながら二つを並べて撮った。
『直季くん、途中から本気すぎ。そんなに楽しかった?』
楽しかったと答えると、次の機会にも俺に内緒で行き先を考えた。
あの人は、俺の反応を見るのが好きだった。
俺が全部を知っていて先に決めてしまったら、その番はいつ来るのだろう。
「さっきの店へ戻らないか」
小春が目を丸くした。
「映画のあとで大丈夫だよ?」
「映画が嫌になったわけじゃない。ただ今、鳴瀬ともう少し話したくなった」
小春は俺を見てから、鞄の紐をつまんでいた指を離した。
「……私も。さっきまで、何を話したらいいか分からなくなってた」
「聞きたい。あのソーダも飲んでみたい」
少し考えてから言い足した。
「ただ、二杯とも同じだと、途中でコーヒーが欲しくなりそうだ」
小春が少し首を傾げた。
「……じゃあ、ソーダとコーヒーにする?」
「そうしたい」
「うん。私もそれがいい」
彼女は答えてから上映案内を振り返った。
「でも、大事な映画なんでしょ」
その問いにはすぐ答えられなかった。
隣の小春は黙って待っていた。困ったように笑ってもいない。行きたい方を言ってくれるまで待つつもりらしかった。
「大事だよ。でも、今日は鳴瀬と話したい」
口にしてしまうと、怖さは残ったままでも決められた。
「あの映画は、また誘いたい」
小春は俺を見つめ、少しだけ口元を緩めた。
「うん。じゃあ今日は、雲の方へ行こう」
出口の自動ドアの前で、一度だけ足が止まった。
二歩先で小春が振り返った。
財布をポケットに押し込んで、俺は彼女の隣まで歩いた。
今日はここからどうなるのか、もう知らなかった。
*
雲は思っていたより大きかった。
運ばれてきた青空ソーダは、グラスの口を白い綿菓子で覆っていた。横にはソーダを注ぐための小さなピッチャーがある。
小春は身を乗り出して眺めた。
「天気、盛ってる」
「これで二人分を頼んでたら、向こうが見えなかったな」
店員に取り分け用の小さなグラスを借り、二人の間に置く。小春はスマートフォンを取り出し、撮っていいかと俺に聞いた。
「もちろん」
「手だけ入れて。大きさが分かるように」
言われたとおりグラスの隣へ手を置いた。小春は写真を撮り、すぐ画面を見せてくれた。
「『男性一名、雲を前に立ち往生』」
「災害の記事にしないでくれ」
笑うと彼女も笑った。さっきまで鞄の紐を握っていた指が、今は画面の俺の手を拡大している。
「こういうの、いつもやるのか?」
「写真に変な見出しつけるの? たまに」
「ほかも見たい」
小春は少し迷ったあと、画面を何度か送った。
途中で、淡い色の夕焼けが一枚だけ通り過ぎた。見出しはついていないようだった。小春の指はそこで止まらず、次の写真で画面から離れた。
自宅らしい庭で植木鉢が横倒しになっている。その隣に猫が座っていた。添えられた文字は『関与を否定』だった。
俺が笑うと次が出てきた。四角いプランターに猫がぴったり収まり、『入居済み』と書かれている。
「同じ猫か?」
「うん。被告が住民になった」
そんなものを作っていたとは知らなかった。
妻もよくスマートフォンを差し出してきた。スーパーで見つけた妙な形の大根や、植木鉢に入った猫。俺が見る前から本人が笑い始め、何がおかしいのか説明できなくなることもあった。
けれど今の彼女は写真を一枚見せるたび、俺の顔を確かめてから次を選んだ。見せたいものを全部見せていいほど、まだ俺たちは近くない。
「これが一番くだらないんだけど」
小春が出した写真には、椅子の上に開いた筆箱があった。中身が床へ散らばっている。
『着席に失敗。鉛筆ら六本が転落』
「なんで自分の失敗まで記事にするんだよ」
「片付ける前に思いついちゃって」
肩を揺らして笑うと、小春は満足そうに画面を閉じた。
その表情を見て、俺は一瞬コーヒーカップに目を落とした。十年かけて帰ってきた場所で、こんなことで笑えるとは思わなかった。
「芦沢くん?」
「いや。見せてもらえてよかった」
「そんなに?」
「ああ」
小春は口元を緩めたまま、綿菓子へ目を戻した。
「じゃあ、こっちも見てて。天候を変えます」
ピッチャーを持ち、ソーダを雲へかける。白い塊が音もなくへこんでいった。グラスの縁に貼りついた最後の一片まで青く染まって消える。
俺たちはしばらく黙っていた。
「……全滅だな」
「晴れたって言って」
小春は先に一口飲んだ。すぐには感想が来なかった。
「どうだ?」
「すごく……雲の味がする」
「砂糖か」
「砂糖です」
小春は小さなグラスへソーダを少し注いだ。
「芦沢くんもどうぞ。自分の感想を持ってください」
グラスを受け取って一口飲む。予想した甘さのさらに先にいた。コーヒーを頼んだ自分を褒めたい。
「上陸したザリガニも帰ると思う」
「倒せる?」
「追い返せる」
小春が声を上げて笑った。
「よかった。橋、助かるね」
俺は笑いながらカップを置いた。小春はもう一口飲み、今度は分ける量を少し減らしてくれた。
好みと違っても、今日はこれを頼んでよかったと思えた。彼女が俺の顔を見るたびに、それは強くなった。
時計は一時二十分を回っていた。
あの映画はもう始まっている。俺は時計を一度見ただけで、彼女の方へ向き直った。
「鳴瀬は、あのザリガニの映画を見たい?」
「見たい。でも、芦沢くんは?」
「見たい。橋が気になってる」
「うん。私も弁償の件が気になってる」
二時二十分の回には十分間に合う。そう二人で確認してから、残ったソーダをどう飲み切るか相談した。
小春がグラスを置いたとき、青い雫がテーブルへ落ちた。俺がティッシュを出すと彼女は「助かる」と受け取り、グラスの底まで丁寧に拭いた。
小春はコーヒーを一口もらって「苦い」と言い、俺は小さなグラスにソーダを足して「甘い」と言った。
「お互い、交換するもの間違ってない?」
「飴の時点で気づくべきだった」
それでも彼女は、次に俺が何を選ぶのか聞いてきた。
*
映画館へ戻ると、小春は自分で券を買った。
喫茶店では約束どおり彼女に出してもらったので、次は俺がお茶を出す。そう決めると小春は「覚えておきます」と言い、券を鞄へしまった。
真ん中の列に並んで座った。隣の座席へ荷物を置く癖が出かけたが、今日は隣に彼女がいる。鞄を膝に載せ直すと、小春がこちらを見た。
「今のも点検?」
「動作確認だ」
「忙しいね」
俺は携帯電話の電源を切った。
巨大ザリガニは、思ったより長く海から出てこなかった。漁師が網を引き、研究者が不穏な顔で海水を調べ、町長だけが祭りを決行すると言っていた。
そのたびに小春の指が膝の上で動いた。見出しを考えているのだろうか。
最初のはさみが水面から現れたとき、隣から小さく息をのむ音がした。
俺も身を乗り出した。海岸線に対してはさみが大きすぎる。町の道路では迎え撃てない。だがここで逃げ道を塞いでいるのは――。
小春と目が合った。
彼女は笑いそうになるのをこらえ、口を手で覆っていた。俺の方を見ていたらしい。
俺がスクリーンへ目を戻した直後、橋が折れた。
小春も音につられて前を向いたが、もう水しぶきしか残っていなかった。俺は声を出さずに笑い、彼女は悔しそうにこちらを一度見た。
結局、町の人たちは巨大な餌でザリガニを港へ誘導した。町長が持ってきた祭りの大鍋が妙に活躍し、研究者は最後まで難しい顔をしていた。
明るくなってからも、小春は席を立たなかった。
「どうした?」
「橋、見逃した」
「一番気にしてただろ」
「芦沢くんがすごく真剣に見てたから」
彼女は券を折り畳んで鞄にしまった。
「どうしてあんなに応援してたの?」
「町長も途中から頑張ってただろ」
「そこ?」
小春はひとしきり笑ってから、少し声を落とした。
「来てよかった」
俺はうなずいた。違う映画を見たら知っている帰り道へ進めないと思っていたが、まだ帰りたくなかった。
外へ出ると、駅へ向かう人で歩道が混んでいた。小春が時計を見たので、帰る時間を尋ねた。
「六時には帰るって言ってある。まだ大丈夫」
「もう少し話したいんだけど、どこか寄らないか」
「私も。あっちの公園は?」
彼女が指したのは川と反対側だった。俺はそちらへ向き直った。
公園のベンチに並んで座る。自動販売機では二人とも水を買った。俺が出す番だったが、何が飲みたいかを聞くと小春は迷わずボタンを指した。
「雲で十分」
「俺も」
空は高く、少し風があった。小春はストールを肩へかけ、俺の方へ端を寄せた。
「寒くない?」
「大丈夫」
「本当に? 私には何回も聞いたのに」
彼女は俺の手元を見た。
「手、冷たそう」
触れられるかと思って指を握ってしまった。小春はそれを見て首を傾げ、俺の鞄を指さした。
「念のためのやつ、使えば?」
俺は黙ってカイロを出した。
何に期待したのか顔に出ていないといい。魔王にも見せたことのない隙だった。
袋を開けて振ると、小春が隣で笑った。
「私の分、持ってきてくれたんだよね」
「まあ」
「ありがとう。さっき言ってなかった」
俺はカイロを両手で包んだ。
「世話を焼きすぎた」
「助かったのもあるよ。ソーダこぼしたとき、すぐティッシュ出てきたし」
小春は鞄の持ち手を膝に収めた。
「でも、カイロは自分にも使って」
うなずくと彼女は安心したように水を飲んだ。
四年間暮らした妻と同じ声で、俺の知らなかった彼女が話している。
「鳴瀬」
「うん?」
「今日、一緒に出かけてくれてありがとう」
「こちらこそ」
「俺、鳴瀬が笑ってくれればいいと思ってたんだ。でも、自分もこんなに笑うと思わなかった」
小春が水の蓋を閉めた。
「猫の写真も、雲も、橋を見逃したのも。もっと話してみたいし、次に何を選ぶのかも知りたい」
「次も変なのを選ぶとは限らないよ」
「普通のものでもいい。鳴瀬と行きたい」
彼女は俺を見て、すぐ自分の膝へ目を落とした。
返事を待っている間、カイロが熱くなってきた。手を開いて持ち替える。胸の方はどうにもならない。
「……次は私から誘ってもいい?」
俺は背筋を伸ばした。
「もちろん」
彼女の指が鞄の持ち手をなぞった。
「日曜日、空いてる? 来週の」
「空いてる」
「まだ何するか言ってない」
「空いてることは言える」
小春は顔を上げて笑った。その頬は少し赤かった。
「じゃあ、私が行きたいところを送る。芦沢くんも候補を一個考えて」
「分かった」
「それで一緒に決めよう。今度は、ちゃんとデートってことで」
水のボトルが膝の上で傾いた。落ちる前に押さえたが、返事まで手が回らなかった。
「……嫌だった?」
「嫌じゃない!」
公園の鳩が二羽飛んだ。
小春は目を丸くしてから口元を隠した。
「分かった。声、大きい」
「ごめん」
「謝らなくていいよ。私も今、かなり頑張ったから」
ストールの端で口元を隠し、彼女は俺を見た。
「ちゃんと返事が来てよかった」
俺はうなずき、今度は静かに行きたいと伝えた。
来週は彼女が一つ選び、俺も一つ選ぶ。
知らない予定を増やせることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
駅へ戻る道で、小春はスマートフォンを取り出した。
「連絡するね。直季くんも候補、送って」
足を止めた俺を二歩先で振り返り、彼女は少し困ったように笑う。
「名前、早かった?」
「いや。嬉しかっただけで」
言ってから、自分が何を口にしたか分かった。小春は視線を外して髪留めに触れた。
「……じゃあ、私も名字じゃなくていいよ」
呼び慣れた名前だった。
毎朝呼んだ。帰宅したときも、休日の予定を決めるときも。呼べなくなってからは、眠れない夜に何度も思い浮かべた。
それでも、今の彼女に呼んでいいと言われると喉が詰まった。
「小春」
彼女がうなずいた。
「うん」
その短い返事を聞いて、俺はやっと隣へ追いついた。
改札の前で別れるとき、つい口が動いた。
「帰ったら連絡して。……よかったら」
「するよ。急に遠慮するね」
小春は笑いながら定期入れを出した。
「直季くんもしてね。点検のお仕事、終わったら」
「時計はもう大丈夫だ」
「じゃあ、まっすぐ帰って」
手を振って改札を通る彼女を見送った。
夕飯を一緒に食べることも、玄関でおかえりと言ってもらうことも、まだできない。
けれど駅を出る前にスマートフォンが鳴った。
『まだ電車。さっき言い忘れたけど、次もその服がいい』
俺は自分のシャツを見下ろした。鏡の前で三回着替えた末に選んだ服だった。
『ありがとう。俺も今日の髪留め、好きだった』
少し待つと返事が来た。
『じゃあ、来週もつけていく』
世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていなかった。
その妻から届いた一行で、俺は駅の柱にぶつかりかけた。
*
家に着いて靴を脱いだところで、スマートフォンが鳴った。
『着いた。今日はありがとう。ザリガニの夢を見そう』
玄関に立ったまま返事を打った。
『おかえり。俺も楽しかった。夢の中では橋を守る』
送ってから、おかえりと書いたことに気づいた。取り消すには遅かった。
『ただいま。橋はもう手遅れです』
短い文字を何度も読み返した。声が聞きたくなって、電話をかける理由を探しかけた。
やめた。彼女は帰ったばかりで、家族と話している時間かもしれない。今日一日、十分すぎるほど話してくれた。
『じゃあ、月曜に学校で』
『うん。候補、忘れないでね』
夜、布団に入ってから隣を向いた。今夜も本棚しかなかった。
寂しさは、木曜の夜と同じ形でそこにあった。ただ、今夜は月曜の約束がある。
起き上がって机の明かりをつけ、映画館でもらった上映案内を広げた。隣町の古い映画館で、来月まで冒険映画の特集をやっているらしい。
小春はこれを見て、何と言うだろう。
答えを知らないまま、俺は候補の欄に一つ書き込んだ。
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