↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていませんでした  作者: 白川 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/14

第3話 知らない予定が増えていく

「ごめん」


 小春が顔を上げた。


「鳴瀬はこれが好きだって、勝手に決めてた。違うって分かっても、自分の予定ばかり気にしてた」

「……そんなに謝らなくても」

「いや。せっかく来てくれたのに」


 小春は鞄の紐を指でつまんだ。


「楽しみだったから、言ったんだよ」


 俺は彼女を見た。


「どうでもよかったら、普通に映画見て帰る。気まずくなるかと思ったけど、ずっと黙ってるのも嫌だったから」


 耳が少し赤くなっていた。言い終えると彼女は壁のポスターへ目を移した。


 俺は誘いを断られるのが怖かった。彼女も何かを言うたびに迷っていたのだと、ようやく気づいた。


 壁の時計は十二時五十二分だった。


 今ならまだ間に合う。券を買って席に着けば、思い出と同じ映画が始まる。


 手の中で財布を握っていた。券売機の前で出したまま、しまい忘れていた。


 小春が時計を見た俺に気づいた。


「行こうか。映画、始まっちゃう」


 その声が優しかったので、足が動きかけた。


 彼女は一緒に見てくれると言っている。誰かを傷つけてまで無理に連れていくわけじゃない。謝ったのだから、ここから気をつければいい。


 そう考えたとき、家の玄関が浮かんだ。


 靴べらの横に立てた海老の天ぷら。小春が作った方は衣が薄く、俺のものは海老の所在が分からなかった。


 あの教室を出たあとも、俺はもっと上手に作れたはずだと悔しがっていた。妻は笑いながら二つを並べて撮った。


『直季くん、途中から本気すぎ。そんなに楽しかった?』


 楽しかったと答えると、次の機会にも俺に内緒で行き先を考えた。


 あの人は、俺の反応を見るのが好きだった。


 俺が全部を知っていて先に決めてしまったら、その番はいつ来るのだろう。


「さっきの店へ戻らないか」


 小春が目を丸くした。


「映画のあとで大丈夫だよ?」

「映画が嫌になったわけじゃない。ただ今、鳴瀬ともう少し話したくなった」


 小春は俺を見てから、鞄の紐をつまんでいた指を離した。


「……私も。さっきまで、何を話したらいいか分からなくなってた」

「聞きたい。あのソーダも飲んでみたい」


 少し考えてから言い足した。


「ただ、二杯とも同じだと、途中でコーヒーが欲しくなりそうだ」


 小春が少し首を傾げた。


「……じゃあ、ソーダとコーヒーにする?」

「そうしたい」

「うん。私もそれがいい」


 彼女は答えてから上映案内を振り返った。


「でも、大事な映画なんでしょ」


 その問いにはすぐ答えられなかった。


 隣の小春は黙って待っていた。困ったように笑ってもいない。行きたい方を言ってくれるまで待つつもりらしかった。


「大事だよ。でも、今日は鳴瀬と話したい」


 口にしてしまうと、怖さは残ったままでも決められた。


「あの映画は、また誘いたい」


 小春は俺を見つめ、少しだけ口元を緩めた。


「うん。じゃあ今日は、雲の方へ行こう」


 出口の自動ドアの前で、一度だけ足が止まった。


 二歩先で小春が振り返った。


 財布をポケットに押し込んで、俺は彼女の隣まで歩いた。


 今日はここからどうなるのか、もう知らなかった。


*


 雲は思っていたより大きかった。


 運ばれてきた青空ソーダは、グラスの口を白い綿菓子で覆っていた。横にはソーダを注ぐための小さなピッチャーがある。


 小春は身を乗り出して眺めた。


「天気、盛ってる」

「これで二人分を頼んでたら、向こうが見えなかったな」


 店員に取り分け用の小さなグラスを借り、二人の間に置く。小春はスマートフォンを取り出し、撮っていいかと俺に聞いた。


「もちろん」

「手だけ入れて。大きさが分かるように」


 言われたとおりグラスの隣へ手を置いた。小春は写真を撮り、すぐ画面を見せてくれた。


「『男性一名、雲を前に立ち往生』」

「災害の記事にしないでくれ」


 笑うと彼女も笑った。さっきまで鞄の紐を握っていた指が、今は画面の俺の手を拡大している。


「こういうの、いつもやるのか?」

「写真に変な見出しつけるの? たまに」

「ほかも見たい」


 小春は少し迷ったあと、画面を何度か送った。


 途中で、淡い色の夕焼けが一枚だけ通り過ぎた。見出しはついていないようだった。小春の指はそこで止まらず、次の写真で画面から離れた。


 自宅らしい庭で植木鉢が横倒しになっている。その隣に猫が座っていた。添えられた文字は『関与を否定』だった。


 俺が笑うと次が出てきた。四角いプランターに猫がぴったり収まり、『入居済み』と書かれている。


「同じ猫か?」

「うん。被告が住民になった」


 そんなものを作っていたとは知らなかった。


 妻もよくスマートフォンを差し出してきた。スーパーで見つけた妙な形の大根や、植木鉢に入った猫。俺が見る前から本人が笑い始め、何がおかしいのか説明できなくなることもあった。


 けれど今の彼女は写真を一枚見せるたび、俺の顔を確かめてから次を選んだ。見せたいものを全部見せていいほど、まだ俺たちは近くない。


「これが一番くだらないんだけど」


 小春が出した写真には、椅子の上に開いた筆箱があった。中身が床へ散らばっている。


『着席に失敗。鉛筆ら六本が転落』


「なんで自分の失敗まで記事にするんだよ」

「片付ける前に思いついちゃって」


 肩を揺らして笑うと、小春は満足そうに画面を閉じた。


 その表情を見て、俺は一瞬コーヒーカップに目を落とした。十年かけて帰ってきた場所で、こんなことで笑えるとは思わなかった。


「芦沢くん?」

「いや。見せてもらえてよかった」

「そんなに?」

「ああ」


 小春は口元を緩めたまま、綿菓子へ目を戻した。


「じゃあ、こっちも見てて。天候を変えます」


 ピッチャーを持ち、ソーダを雲へかける。白い塊が音もなくへこんでいった。グラスの縁に貼りついた最後の一片まで青く染まって消える。


 俺たちはしばらく黙っていた。


「……全滅だな」

「晴れたって言って」


 小春は先に一口飲んだ。すぐには感想が来なかった。


「どうだ?」

「すごく……雲の味がする」

「砂糖か」

「砂糖です」


 小春は小さなグラスへソーダを少し注いだ。


「芦沢くんもどうぞ。自分の感想を持ってください」


 グラスを受け取って一口飲む。予想した甘さのさらに先にいた。コーヒーを頼んだ自分を褒めたい。


「上陸したザリガニも帰ると思う」

「倒せる?」

「追い返せる」


 小春が声を上げて笑った。


「よかった。橋、助かるね」


 俺は笑いながらカップを置いた。小春はもう一口飲み、今度は分ける量を少し減らしてくれた。


 好みと違っても、今日はこれを頼んでよかったと思えた。彼女が俺の顔を見るたびに、それは強くなった。


 時計は一時二十分を回っていた。


 あの映画はもう始まっている。俺は時計を一度見ただけで、彼女の方へ向き直った。


「鳴瀬は、あのザリガニの映画を見たい?」

「見たい。でも、芦沢くんは?」

「見たい。橋が気になってる」

「うん。私も弁償の件が気になってる」


 二時二十分の回には十分間に合う。そう二人で確認してから、残ったソーダをどう飲み切るか相談した。


 小春がグラスを置いたとき、青い雫がテーブルへ落ちた。俺がティッシュを出すと彼女は「助かる」と受け取り、グラスの底まで丁寧に拭いた。


 小春はコーヒーを一口もらって「苦い」と言い、俺は小さなグラスにソーダを足して「甘い」と言った。


「お互い、交換するもの間違ってない?」

「飴の時点で気づくべきだった」


 それでも彼女は、次に俺が何を選ぶのか聞いてきた。


*


 映画館へ戻ると、小春は自分で券を買った。


 喫茶店では約束どおり彼女に出してもらったので、次は俺がお茶を出す。そう決めると小春は「覚えておきます」と言い、券を鞄へしまった。


 真ん中の列に並んで座った。隣の座席へ荷物を置く癖が出かけたが、今日は隣に彼女がいる。鞄を膝に載せ直すと、小春がこちらを見た。


「今のも点検?」

「動作確認だ」

「忙しいね」


 俺は携帯電話の電源を切った。


 巨大ザリガニは、思ったより長く海から出てこなかった。漁師が網を引き、研究者が不穏な顔で海水を調べ、町長だけが祭りを決行すると言っていた。


 そのたびに小春の指が膝の上で動いた。見出しを考えているのだろうか。


 最初のはさみが水面から現れたとき、隣から小さく息をのむ音がした。


 俺も身を乗り出した。海岸線に対してはさみが大きすぎる。町の道路では迎え撃てない。だがここで逃げ道を塞いでいるのは――。


 小春と目が合った。


 彼女は笑いそうになるのをこらえ、口を手で覆っていた。俺の方を見ていたらしい。


 俺がスクリーンへ目を戻した直後、橋が折れた。


 小春も音につられて前を向いたが、もう水しぶきしか残っていなかった。俺は声を出さずに笑い、彼女は悔しそうにこちらを一度見た。


 結局、町の人たちは巨大な餌でザリガニを港へ誘導した。町長が持ってきた祭りの大鍋が妙に活躍し、研究者は最後まで難しい顔をしていた。


 明るくなってからも、小春は席を立たなかった。


「どうした?」

「橋、見逃した」

「一番気にしてただろ」

「芦沢くんがすごく真剣に見てたから」


 彼女は券を折り畳んで鞄にしまった。


「どうしてあんなに応援してたの?」

「町長も途中から頑張ってただろ」

「そこ?」


 小春はひとしきり笑ってから、少し声を落とした。


「来てよかった」


 俺はうなずいた。違う映画を見たら知っている帰り道へ進めないと思っていたが、まだ帰りたくなかった。


 外へ出ると、駅へ向かう人で歩道が混んでいた。小春が時計を見たので、帰る時間を尋ねた。


「六時には帰るって言ってある。まだ大丈夫」

「もう少し話したいんだけど、どこか寄らないか」

「私も。あっちの公園は?」


 彼女が指したのは川と反対側だった。俺はそちらへ向き直った。


 公園のベンチに並んで座る。自動販売機では二人とも水を買った。俺が出す番だったが、何が飲みたいかを聞くと小春は迷わずボタンを指した。


「雲で十分」

「俺も」


 空は高く、少し風があった。小春はストールを肩へかけ、俺の方へ端を寄せた。


「寒くない?」

「大丈夫」

「本当に? 私には何回も聞いたのに」


 彼女は俺の手元を見た。


「手、冷たそう」


 触れられるかと思って指を握ってしまった。小春はそれを見て首を傾げ、俺の鞄を指さした。


「念のためのやつ、使えば?」


 俺は黙ってカイロを出した。


 何に期待したのか顔に出ていないといい。魔王にも見せたことのない隙だった。


 袋を開けて振ると、小春が隣で笑った。


「私の分、持ってきてくれたんだよね」

「まあ」

「ありがとう。さっき言ってなかった」


 俺はカイロを両手で包んだ。


「世話を焼きすぎた」

「助かったのもあるよ。ソーダこぼしたとき、すぐティッシュ出てきたし」


 小春は鞄の持ち手を膝に収めた。


「でも、カイロは自分にも使って」


 うなずくと彼女は安心したように水を飲んだ。


 四年間暮らした妻と同じ声で、俺の知らなかった彼女が話している。


「鳴瀬」

「うん?」

「今日、一緒に出かけてくれてありがとう」

「こちらこそ」

「俺、鳴瀬が笑ってくれればいいと思ってたんだ。でも、自分もこんなに笑うと思わなかった」


 小春が水の蓋を閉めた。


「猫の写真も、雲も、橋を見逃したのも。もっと話してみたいし、次に何を選ぶのかも知りたい」

「次も変なのを選ぶとは限らないよ」

「普通のものでもいい。鳴瀬と行きたい」


 彼女は俺を見て、すぐ自分の膝へ目を落とした。


 返事を待っている間、カイロが熱くなってきた。手を開いて持ち替える。胸の方はどうにもならない。


「……次は私から誘ってもいい?」


 俺は背筋を伸ばした。


「もちろん」


 彼女の指が鞄の持ち手をなぞった。


「日曜日、空いてる? 来週の」

「空いてる」

「まだ何するか言ってない」

「空いてることは言える」


 小春は顔を上げて笑った。その頬は少し赤かった。


「じゃあ、私が行きたいところを送る。芦沢くんも候補を一個考えて」

「分かった」

「それで一緒に決めよう。今度は、ちゃんとデートってことで」


 水のボトルが膝の上で傾いた。落ちる前に押さえたが、返事まで手が回らなかった。


「……嫌だった?」

「嫌じゃない!」


 公園の鳩が二羽飛んだ。


 小春は目を丸くしてから口元を隠した。


「分かった。声、大きい」

「ごめん」

「謝らなくていいよ。私も今、かなり頑張ったから」


 ストールの端で口元を隠し、彼女は俺を見た。


「ちゃんと返事が来てよかった」


 俺はうなずき、今度は静かに行きたいと伝えた。


 来週は彼女が一つ選び、俺も一つ選ぶ。


 知らない予定を増やせることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。


 駅へ戻る道で、小春はスマートフォンを取り出した。


「連絡するね。直季くんも候補、送って」


 足を止めた俺を二歩先で振り返り、彼女は少し困ったように笑う。


「名前、早かった?」

「いや。嬉しかっただけで」


 言ってから、自分が何を口にしたか分かった。小春は視線を外して髪留めに触れた。


「……じゃあ、私も名字じゃなくていいよ」


 呼び慣れた名前だった。


 毎朝呼んだ。帰宅したときも、休日の予定を決めるときも。呼べなくなってからは、眠れない夜に何度も思い浮かべた。


 それでも、今の彼女に呼んでいいと言われると喉が詰まった。


「小春」


 彼女がうなずいた。


「うん」


 その短い返事を聞いて、俺はやっと隣へ追いついた。


 改札の前で別れるとき、つい口が動いた。


「帰ったら連絡して。……よかったら」

「するよ。急に遠慮するね」


 小春は笑いながら定期入れを出した。


「直季くんもしてね。点検のお仕事、終わったら」

「時計はもう大丈夫だ」

「じゃあ、まっすぐ帰って」


 手を振って改札を通る彼女を見送った。


 夕飯を一緒に食べることも、玄関でおかえりと言ってもらうことも、まだできない。


 けれど駅を出る前にスマートフォンが鳴った。


『まだ電車。さっき言い忘れたけど、次もその服がいい』


 俺は自分のシャツを見下ろした。鏡の前で三回着替えた末に選んだ服だった。


『ありがとう。俺も今日の髪留め、好きだった』


 少し待つと返事が来た。


『じゃあ、来週もつけていく』


 世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていなかった。


 その妻から届いた一行で、俺は駅の柱にぶつかりかけた。


*


 家に着いて靴を脱いだところで、スマートフォンが鳴った。


『着いた。今日はありがとう。ザリガニの夢を見そう』


 玄関に立ったまま返事を打った。


『おかえり。俺も楽しかった。夢の中では橋を守る』


 送ってから、おかえりと書いたことに気づいた。取り消すには遅かった。


『ただいま。橋はもう手遅れです』


 短い文字を何度も読み返した。声が聞きたくなって、電話をかける理由を探しかけた。


 やめた。彼女は帰ったばかりで、家族と話している時間かもしれない。今日一日、十分すぎるほど話してくれた。


『じゃあ、月曜に学校で』

『うん。候補、忘れないでね』


 夜、布団に入ってから隣を向いた。今夜も本棚しかなかった。


 寂しさは、木曜の夜と同じ形でそこにあった。ただ、今夜は月曜の約束がある。


 起き上がって机の明かりをつけ、映画館でもらった上映案内を広げた。隣町の古い映画館で、来月まで冒険映画の特集をやっているらしい。


 小春はこれを見て、何と言うだろう。


 答えを知らないまま、俺は候補の欄に一つ書き込んだ。

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。