第2話 初デートの正解を知っているはずだった
金曜日の放課後、小春は俺の机へ一枚のチラシを置いた。
「映画、これ?」
紙面いっぱいに巨大なザリガニがいた。
「違う」
「分かってる。駅でもらった」
小春は笑って向かいの席の背もたれに手を置いた。裏返すと『春の待ち合わせ』の案内も載っていた。駅前の小さな映画館が二つのスクリーンで流す作品だった。
「この組み合わせ、すごくない? 待ち合わせしてる間に町がなくなりそう」
巨大ザリガニが橋を挟んでいた。宣伝文句は『逃げ場なし。夕食時、上陸。』だった。
「橋は捨てた方がいいな」
「え?」
「そこで戦うと退路がなくなる」
「予告を見た人の感想じゃないよね」
小春はチラシを少し持ち上げた。
「私は橋の方を心配してた。弁償するならいくらかなって」
「弁償できる生き物じゃないと思う」
「じゃあ、壊して踏み倒すんだ」
妙に真面目な顔で言うので笑ってしまった。小春も笑い、空いた椅子へ腰を下ろした。
「『春の待ち合わせ』って、好きな映画?」
「大事な映画なんだ」
「もう見たことあるんだね」
うなずいてから少し迷った。本当のことだが、この時代の俺が見たという意味ではない。
「もう一回見たくて」
「そっか」
結婚後も二人で見直した。妻は映画の内容より、誘ったときの俺の声が大きすぎたことや、財布を拾う指が震えていたことをよく話した。
スクリーンの中で何が起きるかは知っている。俺が見たいのは、そのあとの帰り道だった。
「行こうかな、土曜日」
顔を上げると、小春がチラシの角を折っていた。
「いいのか?」
「誘ったの芦沢くんでしょ」
「そうだけど」
「さっきの続き、ちょっと聞いてみたくなったし」
「橋の攻略か?」
「違う。普通に、芦沢くんと話すの」
返事が遅れた。魔王の第二形態には即応できたのに、これは予測していなかった。
小春は椅子から立ち、鞄を持った。
「じゃあ、待ち合わせどうする?」
「あとで連絡する」
言ってから気づいた。
妻の電話番号なら今も十一桁言える。今の彼女の番号は知らないし、そもそも聞いていない。
「……そのために、連絡先を聞いてもいいか」
「映画に誘う方が先なんだ」
「順番を間違えた気がしてる」
「今から直せるよ。はい、スマホ」
取り出した画面は真っ暗だった。小春に指摘される前に電源ボタンを押す。戦場で剣を抜き忘れたことは一度もなかった。
表示された名前は『鳴瀬小春』。俺の記憶では、もう四年も『芦沢小春』だった。それを見ていると、横からメッセージが届いた。
『橋では戦わないこと』
隣を見ると小春が口元を押さえていた。
「守る」
「よし」
十年ぶりに、明日の予定を立てるのが楽しみだった。
*
家へ帰ってから、映画館の上映時刻を確かめた。土曜日の午後一時十分。待ち合わせは十二時半にした。昼食はそれぞれ済ませてくると決めた。
机に紙を一枚広げ、時刻を書き出した。十二時半、駅前。一時十分、『春の待ち合わせ』。終わったら喫茶店。それから川沿い。帰りに、駅の手前の自動販売機。
そこで初めて名前を呼ばれる。財布を落とすところまでは、さすがに予定に書かなかった。
妻と暮らしていた頃は、休日の行き先を交代で考えることがあった。
『次は私が決める番ね』
水族館から帰った夜、小春はそう言って翌週の予定を探していた。行き先を聞いても当日まで教えてくれず、連れていかれたのは食品サンプル作りの体験教室だった。
二人で作った天ぷらは玄関に飾った。俺の海老は衣をつけすぎていた。異世界へ行く前の朝も、靴べらの隣に立っていた。
あそこへ、また帰りたい。
向こうの世界で眠れない夜には、あの玄関を思い浮かべた。靴べらの隣の天ぷら。おかえりと言う声。どれだけ遠くへ歩いても、帰り道の先にはいつもあの家があった。
机の上で地図を開き、映画館から喫茶店までの道をなぞった。この一日を同じようにたどれば、あの天ぷらにもたどり着ける気がした。
紙の端に書いた時刻を、もう一度指で確かめた。間違えるわけにはいかなかった。
*
土曜日、小春は十二時二十六分に来た。
「早いね。待った?」
「いや、今来たところだ」
「ほんと? そこの時計、さっきから見てたでしょ」
彼女の指す先で駅前の時計の秒針が動いた。俺は三十分前からその下にいた。
「時計の調子を見てた」
「点検の人?」
小春は笑って、肩にかけた小さな鞄を直した。薄いクリーム色のカーディガンに紺のスカート。右耳の上だけ小さなピンで髪を留めている。
妻も髪を留めることはあった。けれど、このピンは知らない。
「その服、似合ってる」
小春はカーディガンの袖を指で引いた。
「……ありがとう。制服じゃないと、ちょっと変な感じだね」
「変じゃない」
「悪い意味で言ってないよ」
早くも会話の受け取り方を間違えた。妻なら服を買った日に褒められた。今日は褒めることにも準備が要る。
「寒くないか?」
「大丈夫」
「映画館、冷えるかもしれないから」
「これ、ちゃんと持ってきた」
彼女は鞄からストールの端を見せた。俺はうなずき、持参した使い捨てカイロを鞄の奥へ押し込んだ。
「今、何しまった?」
「念のためのもの」
「何に備えてるの?」
俺は鞄を開けて見せた。カイロ。ポケットティッシュ。絆創膏。折り畳み傘。
「……一緒に出かけると安心そう」
褒められたらしい。
「あと、これ」
生姜飴を出すと小春は首を傾げた。
「おばあちゃんちにある」
「好きじゃなかった?」
「食べたことないけど、辛そう」
妻は仕事机にいつもこれを入れていた。なくなる前に買っておくと喜ばれた品だ。渡す相手を間違えたような気分になり、袋を引っ込めようとした。
小春の手が先に伸びた。
「一個ちょうだい。食べてみる」
「無理しなくても」
「まだ食べてないから分からないでしょ」
正論だった。
小春は包みを開けて口へ入れた。少し歩いたところで眉間に皺が寄る。
「……強い」
「辛いか」
「喉の奥で生姜が会議してる」
吹き出すと彼女はこちらを見た。
「満場一致で生姜です」
「水、買おうか」
「ある。会議は自分で解散させる」
鞄から出した水を飲んでから、彼女は苺ミルクの飴を俺にくれた。
「私はこっち。交換ね」
包装紙を開ける指先まで見てしまう。小春は、俺が口に入れるのを待ってから尋ねた。
「どう?」
「甘い」
「甘いだけ? もうちょっと感想ちょうだい」
妻なら生姜飴の袋をそのまま鞄に入れていた。今の彼女は水をもう一口飲み、まだ少し眉を寄せている。その顔がおかしくて笑うと、肩で軽く笑い返してくれた。
映画館へ向かう道に、例の喫茶店があった。
元の人生では映画のあとに寄った店だ。入口横の看板に『雲の上の青空ソーダ』と書かれている。青い飲み物の上に綿菓子が載った写真だった。
小春が足を止めた。
「これ、見て。飲み物に天気がついてる」
「映画のあと、ここへ来ようと思ってた」
「ほんと?」
「チーズケーキがおいしいんだ」
妻はここのケーキが好きだった。家で半分ずつ食べたこともある。
「映画のあと、これ飲みながら感想言い合わない?」
「そのあと川沿いを歩こうと思ってる。飲み物は持ち帰れるものにしよう」
小春はもう一度写真を見たあと、俺の隣に戻ってきた。
時間には余裕があった。予定どおりに映画を見て、店に寄ればいい。
映画館の前では巨大ザリガニが俺たちを出迎えた。壁の半分を使ったポスターで、昨日よりいっそう橋が危ない。
「こっちも今日からなんだね」
小春が立ち止まる。
「二時二十分か。こっちなら予告で見た橋の続きが分かるよ」
「そうだな」
俺は『春の待ち合わせ』の上映案内を確かめた。時刻も変わっていない。元の人生で座った席まで空いていた。
「先に券を買おう。鳴瀬、窓側が――」
言いかけて口を閉じた。映画館に窓側の席はない。家で食事をするときの位置が口から出た。
「窓?」
「いや。端の方が出やすいかと思って」
「私、真ん中がいい。首をひねらなくて済むし」
「ああ、そうだな」
自動券売機の画面へ指を伸ばす。小春の手元で財布が開いた。
「俺が出すよ」
「自分の分、あるよ」
「誘ったの俺だし」
「じゃあ、このあとお茶は私が出す」
「そっちも気にしなくていい」
画面が次へ進んだところで、小春が財布を閉じた。
「待って。お茶くらい、私にも選ばせて」
振り向くと、彼女は小さな財布を両手で持っていた。
俺の指が画面の前で止まった。
小春は後ろに人がいないことを確かめ、券売機から半歩離れた。俺も画面を戻して脇へ寄る。
「考えてくれたのは嬉しいよ。映画も見たい。でも、私が行きたいところも聞いてほしかった」
「そんなつもりじゃ――」
言いかけてやめた。
金を払わせたくなかった。疲れさせたくなかった。彼女にとって楽しい一日にしたかった。
けれど、彼女がお茶を出すと言った理由を一度も考えていなかった。
「私も、楽しませたかったんだけど」
小春が財布を鞄にしまった。
「さっきのソーダ、二人で飲んだら面白いかなって思ったんだ。芦沢くん、ああいうの嫌い?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ、そういうの聞きたかった」
俺は喫茶店の看板を思い出した。
彼女が見ていたのは雲の載ったグラスだった。俺が思い出していたのは、何年も先に二人で食べたケーキだった。
鞄の中で生姜飴の袋が鳴った。
俺はまだ一度も、目の前の彼女と予定を決めていなかった。
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