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世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていませんでした  作者: 白川 透


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2/14

第2話 初デートの正解を知っているはずだった

 金曜日の放課後、小春は俺の机へ一枚のチラシを置いた。


「映画、これ?」


 紙面いっぱいに巨大なザリガニがいた。


「違う」

「分かってる。駅でもらった」


 小春は笑って向かいの席の背もたれに手を置いた。裏返すと『春の待ち合わせ』の案内も載っていた。駅前の小さな映画館が二つのスクリーンで流す作品だった。


「この組み合わせ、すごくない? 待ち合わせしてる間に町がなくなりそう」


 巨大ザリガニが橋を挟んでいた。宣伝文句は『逃げ場なし。夕食時、上陸。』だった。


「橋は捨てた方がいいな」

「え?」

「そこで戦うと退路がなくなる」

「予告を見た人の感想じゃないよね」


 小春はチラシを少し持ち上げた。


「私は橋の方を心配してた。弁償するならいくらかなって」

「弁償できる生き物じゃないと思う」

「じゃあ、壊して踏み倒すんだ」


 妙に真面目な顔で言うので笑ってしまった。小春も笑い、空いた椅子へ腰を下ろした。


「『春の待ち合わせ』って、好きな映画?」

「大事な映画なんだ」

「もう見たことあるんだね」


 うなずいてから少し迷った。本当のことだが、この時代の俺が見たという意味ではない。


「もう一回見たくて」

「そっか」


 結婚後も二人で見直した。妻は映画の内容より、誘ったときの俺の声が大きすぎたことや、財布を拾う指が震えていたことをよく話した。


 スクリーンの中で何が起きるかは知っている。俺が見たいのは、そのあとの帰り道だった。


「行こうかな、土曜日」


 顔を上げると、小春がチラシの角を折っていた。


「いいのか?」

「誘ったの芦沢くんでしょ」

「そうだけど」

「さっきの続き、ちょっと聞いてみたくなったし」

「橋の攻略か?」

「違う。普通に、芦沢くんと話すの」


 返事が遅れた。魔王の第二形態には即応できたのに、これは予測していなかった。


 小春は椅子から立ち、鞄を持った。


「じゃあ、待ち合わせどうする?」

「あとで連絡する」


 言ってから気づいた。


 妻の電話番号なら今も十一桁言える。今の彼女の番号は知らないし、そもそも聞いていない。


「……そのために、連絡先を聞いてもいいか」

「映画に誘う方が先なんだ」

「順番を間違えた気がしてる」

「今から直せるよ。はい、スマホ」


 取り出した画面は真っ暗だった。小春に指摘される前に電源ボタンを押す。戦場で剣を抜き忘れたことは一度もなかった。


 表示された名前は『鳴瀬小春』。俺の記憶では、もう四年も『芦沢小春』だった。それを見ていると、横からメッセージが届いた。


『橋では戦わないこと』


 隣を見ると小春が口元を押さえていた。


「守る」

「よし」


 十年ぶりに、明日の予定を立てるのが楽しみだった。


*


 家へ帰ってから、映画館の上映時刻を確かめた。土曜日の午後一時十分。待ち合わせは十二時半にした。昼食はそれぞれ済ませてくると決めた。


 机に紙を一枚広げ、時刻を書き出した。十二時半、駅前。一時十分、『春の待ち合わせ』。終わったら喫茶店。それから川沿い。帰りに、駅の手前の自動販売機。


 そこで初めて名前を呼ばれる。財布を落とすところまでは、さすがに予定に書かなかった。


 妻と暮らしていた頃は、休日の行き先を交代で考えることがあった。


『次は私が決める番ね』


 水族館から帰った夜、小春はそう言って翌週の予定を探していた。行き先を聞いても当日まで教えてくれず、連れていかれたのは食品サンプル作りの体験教室だった。


 二人で作った天ぷらは玄関に飾った。俺の海老は衣をつけすぎていた。異世界へ行く前の朝も、靴べらの隣に立っていた。


 あそこへ、また帰りたい。


 向こうの世界で眠れない夜には、あの玄関を思い浮かべた。靴べらの隣の天ぷら。おかえりと言う声。どれだけ遠くへ歩いても、帰り道の先にはいつもあの家があった。


 机の上で地図を開き、映画館から喫茶店までの道をなぞった。この一日を同じようにたどれば、あの天ぷらにもたどり着ける気がした。


 紙の端に書いた時刻を、もう一度指で確かめた。間違えるわけにはいかなかった。


*


 土曜日、小春は十二時二十六分に来た。


「早いね。待った?」

「いや、今来たところだ」

「ほんと? そこの時計、さっきから見てたでしょ」


 彼女の指す先で駅前の時計の秒針が動いた。俺は三十分前からその下にいた。


「時計の調子を見てた」

「点検の人?」


 小春は笑って、肩にかけた小さな鞄を直した。薄いクリーム色のカーディガンに紺のスカート。右耳の上だけ小さなピンで髪を留めている。


 妻も髪を留めることはあった。けれど、このピンは知らない。


「その服、似合ってる」


 小春はカーディガンの袖を指で引いた。


「……ありがとう。制服じゃないと、ちょっと変な感じだね」

「変じゃない」

「悪い意味で言ってないよ」


 早くも会話の受け取り方を間違えた。妻なら服を買った日に褒められた。今日は褒めることにも準備が要る。


「寒くないか?」

「大丈夫」

「映画館、冷えるかもしれないから」

「これ、ちゃんと持ってきた」


 彼女は鞄からストールの端を見せた。俺はうなずき、持参した使い捨てカイロを鞄の奥へ押し込んだ。


「今、何しまった?」

「念のためのもの」

「何に備えてるの?」


 俺は鞄を開けて見せた。カイロ。ポケットティッシュ。絆創膏。折り畳み傘。


「……一緒に出かけると安心そう」


 褒められたらしい。


「あと、これ」


 生姜飴を出すと小春は首を傾げた。


「おばあちゃんちにある」

「好きじゃなかった?」

「食べたことないけど、辛そう」


 妻は仕事机にいつもこれを入れていた。なくなる前に買っておくと喜ばれた品だ。渡す相手を間違えたような気分になり、袋を引っ込めようとした。


 小春の手が先に伸びた。


「一個ちょうだい。食べてみる」

「無理しなくても」

「まだ食べてないから分からないでしょ」


 正論だった。


 小春は包みを開けて口へ入れた。少し歩いたところで眉間に皺が寄る。


「……強い」

「辛いか」

「喉の奥で生姜が会議してる」


 吹き出すと彼女はこちらを見た。


「満場一致で生姜です」

「水、買おうか」

「ある。会議は自分で解散させる」


 鞄から出した水を飲んでから、彼女は苺ミルクの飴を俺にくれた。


「私はこっち。交換ね」


 包装紙を開ける指先まで見てしまう。小春は、俺が口に入れるのを待ってから尋ねた。


「どう?」

「甘い」

「甘いだけ? もうちょっと感想ちょうだい」


 妻なら生姜飴の袋をそのまま鞄に入れていた。今の彼女は水をもう一口飲み、まだ少し眉を寄せている。その顔がおかしくて笑うと、肩で軽く笑い返してくれた。


 映画館へ向かう道に、例の喫茶店があった。


 元の人生では映画のあとに寄った店だ。入口横の看板に『雲の上の青空ソーダ』と書かれている。青い飲み物の上に綿菓子が載った写真だった。


 小春が足を止めた。


「これ、見て。飲み物に天気がついてる」

「映画のあと、ここへ来ようと思ってた」

「ほんと?」

「チーズケーキがおいしいんだ」


 妻はここのケーキが好きだった。家で半分ずつ食べたこともある。


「映画のあと、これ飲みながら感想言い合わない?」

「そのあと川沿いを歩こうと思ってる。飲み物は持ち帰れるものにしよう」


 小春はもう一度写真を見たあと、俺の隣に戻ってきた。


 時間には余裕があった。予定どおりに映画を見て、店に寄ればいい。


 映画館の前では巨大ザリガニが俺たちを出迎えた。壁の半分を使ったポスターで、昨日よりいっそう橋が危ない。


「こっちも今日からなんだね」


 小春が立ち止まる。


「二時二十分か。こっちなら予告で見た橋の続きが分かるよ」

「そうだな」


 俺は『春の待ち合わせ』の上映案内を確かめた。時刻も変わっていない。元の人生で座った席まで空いていた。


「先に券を買おう。鳴瀬、窓側が――」


 言いかけて口を閉じた。映画館に窓側の席はない。家で食事をするときの位置が口から出た。


「窓?」

「いや。端の方が出やすいかと思って」

「私、真ん中がいい。首をひねらなくて済むし」

「ああ、そうだな」


 自動券売機の画面へ指を伸ばす。小春の手元で財布が開いた。


「俺が出すよ」

「自分の分、あるよ」

「誘ったの俺だし」

「じゃあ、このあとお茶は私が出す」

「そっちも気にしなくていい」


 画面が次へ進んだところで、小春が財布を閉じた。


「待って。お茶くらい、私にも選ばせて」


 振り向くと、彼女は小さな財布を両手で持っていた。


 俺の指が画面の前で止まった。


 小春は後ろに人がいないことを確かめ、券売機から半歩離れた。俺も画面を戻して脇へ寄る。


「考えてくれたのは嬉しいよ。映画も見たい。でも、私が行きたいところも聞いてほしかった」

「そんなつもりじゃ――」


 言いかけてやめた。


 金を払わせたくなかった。疲れさせたくなかった。彼女にとって楽しい一日にしたかった。


 けれど、彼女がお茶を出すと言った理由を一度も考えていなかった。


「私も、楽しませたかったんだけど」


 小春が財布を鞄にしまった。


「さっきのソーダ、二人で飲んだら面白いかなって思ったんだ。芦沢くん、ああいうの嫌い?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ、そういうの聞きたかった」


 俺は喫茶店の看板を思い出した。


 彼女が見ていたのは雲の載ったグラスだった。俺が思い出していたのは、何年も先に二人で食べたケーキだった。


 鞄の中で生姜飴の袋が鳴った。


 俺はまだ一度も、目の前の彼女と予定を決めていなかった。

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