第1話 妻に雑巾を渡された
十年ぶりに再会した妻は、俺に雑巾を差し出した。
「芦沢くん。起きてるなら窓の方お願い」
その声で、椅子が後ろへ倒れた。
立ち上がった俺を、彼女が驚いた顔で見上げている。少し低くて、語尾だけが上がる声。眠る前にその日の話をするとき、いつも隣から聞こえていた声だった。
顔を確かめた。笑う前に一度だけ唇を結ぶ癖。困ると左の眉だけが動くところ。どれも覚えているとおりだった。
両腕が勝手に前へ出た。
抱き締める寸前で、紺のブレザーが目に入った。赤いリボン。胸ポケットの校章。
伸ばした手を、俺は机についた。
妻は制服を着ていた。四年間同じ名字を使ってくれた人より頬が丸く、左手の薬指には何もない。
名前を呼ぼうとした。喉の奥で声がつかえ、息だけが漏れた。呼べば返事のある場所へ帰るために十年戦ってきたのに、最初の一音が出てこない。
「……芦沢くん?」
彼女が雑巾を持ったまま半歩近づいた。
「泣いてる?」
言われて頬に触れると、指先が濡れていた。
向こうで飲み込んできたものが、掃除当番の教室で勝手にあふれていた。
「ごめん。何でもない」
「何でもない顔じゃないけど」
小春は倒れた椅子を起こし、背もたれを机に揃えた。
「とりあえず座って。保健室、行く?」
「いや……大丈夫だ。少しだけ、このままで」
彼女が直した椅子に、俺は腰を下ろした。
小春は少し迷ってから、隣の机に雑巾を置いた。何も聞かずに自分の机を拭き始め、時々こちらを見る。俺が顔を上げると、すぐ机の角へ目を戻した。
窓の外で運動部の掛け声がしていた。
生きている。すぐそこにいる。
それだけで、しばらくは息をするのに精一杯だった。
呼吸が落ち着いてから、ようやく窓に映った自分を見た。髭がなかった。魔王につけられた頬の傷まで消えている。首の辺りを触るとネクタイがあった。最後に締めたのは十年以上前だ。
帰還の術は、帰りたい場所の記憶をたどる。
地球側の時間ごと巻き戻ることもあると神官に説明されていた。妻が別の未来に取り残されることはない。それを何度も確かめてから、俺は小春を思い浮かべた。
食卓や駅の改札が浮かんでは消え、最後に残ったのは高校の教室だった。初めて彼女を映画に誘った場所だ。
術が終われば向こうとの道は閉じる、とも神官は言っていた。二度と呼ばれない代わりに、二度と戻れない。俺はそれでいいと答えた。
会いたいとは願った。交際前まで戻してほしいとは頼んでいない。
「……鳴瀬」
やっと出たのは、呼びたかった名前ではなかった。
「うん。ほかに誰かいた?」
「いや」
「具合、まだ悪い?」
「長い夢を見てた」
「怖い夢?」
「最後はいい夢だった」
小春は唇を一度結んでから、少しだけ笑った。
「じゃあ、窓拭きで目を覚まして」
渡された雑巾は冷たかった。
俺は二十四歳で鳴瀬小春と結婚した。二十八歳で異世界へ召喚され、帰るために十年かけて魔王を倒した。その結果、もう一度十七歳の芦沢直季をやっている。
魔力はない。手を握っても空気は震えず、爪が手のひらに食い込むだけだった。筋肉も装備も没収されたらしい。雑巾だけは現地支給された。
小春は隣で机を拭いている。
もう一度名前を呼びたかったが、呼んだあと何を言えばいいのか分からなかった。
「芦沢くん、そっちはもうきれいじゃない?」
同じ窓を磨き続けていた。俺は一枚隣へ移った。
目の前の彼女にとって、俺はほとんど話したこともない同級生だ。ただいまと言うことさえできない。
*
掃除が終わると、小春はバケツの水を替えに行き、戻ってきて鞄を机に載せた。ペンケースをしまい、椅子を机の下へ入れる。
帰ってしまう。
当たり前のことだった。ここは二人の家ではなく、放課後の教室だ。彼女には彼女の帰る家があって、俺はそこで待っていてもらえる立場にない。
それでも、もう少し声を聞いていたかった。
話しかける理由を探して、記憶をたどった。きっかけなら覚えている。
十月の土曜日。駅前の映画館で『春の待ち合わせ』を見た。喫茶店へ寄り、川沿いを歩いた。帰りの自動販売機の前で初めて名前を呼ばれ、俺は財布を落とした。
あの日から二人で出かけるようになり、冬には付き合い始めた。
黒板の端の日付を確かめると、あの土曜日は二日後だった。
「鳴瀬。今度の土曜日、空いてるか?」
机の端を握る手に力が入った。魔力が残っていたら割っていたところだ。最初の誘いに器物損壊を添えずに済んだ。
「土曜日? 午後なら」
「映画、一緒に見ないか。『春の待ち合わせ』」
小春は鞄の留め具にかけた手を止めた。
「……私と?」
「ああ」
「急だね」
こちらは十年待った。そう言えないので、俺はうなずいた。
「急だと思う。でも、一緒に行きたい」
小春は俺を見たあと、鞄に視線を落とした。
「明日、返事してもいい?」
「もちろん」
彼女は鞄を肩にかけ、床に置いていたバケツを持ち上げた。俺は取っ手へ伸ばしかけた手を止めた。
「持とうか」
「じゃあお願い。用具入れまで」
俺は頼まれたものを受け取った。かつて魔王の城門を押し開いた腕が、水の重みで普通に痛かった。
「重い?」
「重い」
「正直だね」
小春が笑った。今日初めて、ちゃんと声を出して笑った。
用具入れにバケツを戻すと、彼女は「ありがとう」と言って昇降口の方へ歩き出した。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
彼女が背を向けた。
気づくと、俺も一歩踏み出していた。同じ電車に乗り、同じ駅で降りて、同じ玄関の鍵を開ける。体のどこかが、まだそれを当然だと思っている。
二歩目の前で止まった。
小春は振り返らずに廊下の角を曲がった。上履きの音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
また明日と言えた。明日には返事をもらえる。向こうの世界では、どれほど願っても届かなかった近さの約束だ。
それでも、一緒に帰れない廊下は長かった。
*
家の玄関は、記憶より少し新しかった。
ドアを開けると、台所から母の声がした。
「おかえり。今日遅かったね」
靴を脱ぎかけたまま、動けなくなった。
母の声を最後に聞いたのは、召喚される少し前の電話だった。正月に帰れなかったことを謝って、それきりだった。
「……ただいま」
台所をのぞくと、母が鍋をかき混ぜていた。髪がまだ黒い。高校のころ見慣れていた、花柄のエプロンをしている。
「何、その顔。お腹すいた?」
「すいた」
「あと十分」
十分なら待てる。十年に比べれば一瞬だ。
夕食には父も間に合った。テレビのニュースに文句を言いながら、ご飯をおかわりしている。俺が味噌汁を二杯飲むと、母は「育ち盛りか」と笑い、父は「部活でも始めたのか」と聞いた。
「掃除当番で窓を拭いた」
「それでそんなに食べるのか」
俺は答えずに三杯目を頼んだ。母は呆れた顔で、それでも鍋の底まで注いでくれた。
風呂から上がって、自分の部屋へ戻った。勉強机に教科書が積まれ、本棚には読みかけの漫画が並んでいる。十七歳の俺が、そのまま置いていった部屋だ。
布団に入ってから、今日のことを思い返した。
雑巾の冷たさ。倒れた椅子。急だね、と言った小春の顔。重いと答えたときの笑い声。
話したいことがたくさんあった。
「なあ、小春。今日――」
寝返りを打って、隣を向いた。
そこには本棚があった。
暗がりに背表紙が並んでいるだけで、返事はなかった。
しばらくそのまま天井を見ていた。母の味噌汁を飲めた。父の文句を聞けた。そのうえで、隣に誰もいない夜はまだ続いている。
枕元のスマートフォンには、彼女の連絡先さえ入っていない。
明日、返事をもらえる。
断られたらどうするか考えかけて、やめた。断られても、明日も彼女は教室にいる。十年間、それすら願っていた。
目を閉じても眠れなかった。誘えた。その一言が胸の中で何度も鳴り、明日の放課後が来るのが怖いくらい待ち遠しかった。
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