第3話 病院
第3話 病院
数学の時間だった。
放物線と直線の交点と原点を結ぶ三角形の面積を求めよ、という訳の分からない問題を、若山先生が黒板を使って説明していた。
黒板には放物線と斜めの直線。
その横には数式が並んでいる。
なんでこれで三角形の面積が出るんだろう。
そんなことを考えながら、私はノートに黒板を写していた。
突然、教室の扉が開いた。
三浦先生だった。
「若山先生、ちょっとすいません」
若山先生が説明を止める。
三浦先生は教室の中を見た。
「黒川さん」
「はい」
「荷物をまとめて来てください」
「えっ?」
なんだろう。
私は言われたとおり、机の中の教科書とノート、筆記用具を鞄の中に詰めた。
途中だった数学のノートを閉じる。
椅子を戻して立ち上がった。
クラスのみんなが私を見ている。
私は三浦先生のあとをついて、教室を出た。
職員室へ行くと、
そこにお父さんがいた。
「えっ。どうして?」
お父さんは私を見ると、
「いくぞ」
それだけ言った。
お父さんのこんな声、
聞いたことない。
「う、うん」
私はお父さんに連れられて、学校を出た。
駐車場には、
黒のステップワゴンが停まっていた。
私はいつものように助手席に乗る。
シートベルトを締める。
お父さんが車を出した。
いつもなら流れているTRFの音楽が、
今日はかかっていなかった。
車の中が静かだった。
「どこ行くの?」
お父さんは答えない。
「……」
「……」
しばらくして、
「病院」
と言った。
「えっ?」
病院?
「おじいちゃん?
おばあちゃん?」
今朝の二人の顔を思い出した。
おじいちゃんも、
おばあちゃんも、
いつもと変わらなかった。
普通に私を送り出してくれた。
「ちょっと悪い」
お父さんは前を見たまま言った。
「運転に集中したい」
「……うん」
お父さんの横顔を見る。
真剣な顔をしていた。
私は黙った。
病院に着いた。
お父さんは早足で歩いていく。
私はそのあとをついていった。
受付を通り過ぎる。
さらに奥へ。
奥へ。
どこまで行くんだろう。
廊下に、
おじいちゃんとおばあちゃんがいた。
二人とも椅子に座っていた。
いる。
おじいちゃんも、
おばあちゃんもいる。
じゃあ……。
その近くに、
警察官が二人いた。
警察?
私とお父さんは、
ある部屋の扉の前に立った。
小さな表札がある。
――慰霊室。
お父さんが扉を開けた。
何もない部屋だった。
部屋の中央に、
小さな車輪のついた台がある。
その上に、
人が寝ていた。
白い布に覆われている。
お父さんが近づいた。
顔のところにかけられていた、
小さな布を取る。
お母さんの顔があった。
「えっ……」
声が出ない。
息が吸えない。
動けない。
なんで。
なんでお母さん、
こんなところで寝ている?
「交通事故……」
お父さんが口を開いた。
「横断歩道を渡っていたら、
赤信号で突っ込んできたオートバイにはねられたそうだ」
わからない。
お父さんが何を言っているのか、
わからない。
「そこから逃げたそうだけど……」
逃げた?
「もう捕まってるらしい」
だから。
なんでお母さんは、
ここで寝ているの?
それとお母さん、
何か関係あるの?
そう言おうとした。
でも、
口が動かなかった。
「うっ……」
変な音が出た。
「グッ……」
何これ。
しゃべれない。
声が出ない。
動かない私を見つめて、
お父さんは警察の方へ行った。
私は、
お母さんを見る。
何もない部屋。
台の上のお母さん。
慰霊室。
交通事故。
警察。
急にわかった。
お母さん、死んじゃった?
人って、
そんなに簡単に死ぬんだ。
朝、
いつものように慌ただしく朝食作って。
お化粧して。
「いってきます」
って言ったお母さん。
今日、
なんにも話してないよ。
あれ、
ちがうか……。
「おはよう」
は、
言ったかな?
ふふふ。
あれ。
お母さん、
なんでここにいるの?
ここは。
あれ?
お母さん。
後ろでは、
警察官の声が聞こえる。
「少年」
「無免許」
「赤信号」
「そのまま逃走」
そんな声が聞こえた。
でも、
何を話しているのか、
よく分からなかった。
しばらくして、
警察官が帰った。
私は廊下に出て、
長椅子に座った。
お父さんと、
おじいちゃんと、
おばあちゃん。
三人とも、
私を見ていた。
「瑠璃ちゃん……」
おばあちゃんが声をかけた。
私は顔を上げた。
おばあちゃんの目が、
真っ赤だった。
私は少し微笑んだ。
それから、
また下を向いた。
大人三人で、
何か話をしている。
私は聞いていなかった。
どのくらい経ったんだろう。
廊下の向こうから、
黒いスーツを着た二人の男性が歩いてきた。
私たちの前で立ち止まる。
二人は一礼した。
「この度は……」
お父さんに声をかける。
お父さんは立ち上がった。
慰霊室の扉を開ける。
黒いスーツの二人が、
中へ入っていった。
私も廊下から見ていた。
二人の男が、
お母さんの前に立つ。
手を合わせる。
そして。
台に手をかけた。
連れて行かれる!!
そう思った。
「ダメッ!」
廊下に、
私の大声が響き渡った。
みんなが私を見る。
私は立ち上がった。
私がお母さんを守る。
私は慰霊室の中へ入ろうとした。
お父さんが、
私を抱きとめる。
「お母さん、
連れていかれちゃうよ!」
自分でもびっくりするぐらい、
大きな声が出た。
「お母さん!
お母さん、連れていかれちゃう!」
私を抱きしめたお父さんの腕に、
力が入る。
「瑠璃、大丈夫だから」
「だって、だって……」
「大丈夫だから……」
お父さんの腕の中で、
私の力が急に抜けた。
立っていられない。
お父さんに身体を預ける。
黒いスーツの男の人が、
動きを止めていた。
しばらくして、
「よろしいでしょうか?」
ひとこと言った。
お父さんが、
小さくうなずいた。
男の人たちは、
もう一度台に手をかけた。
車輪が動く。
お母さんが、
慰霊室から出てくる。
私の横を通り過ぎる。
「……お母さん」
私は、
その姿を目で追うしかなかった。




