優しさの中へ
整との日々は重なりを持たないままであっても 過ぎていく。
放っておいて
あの夜弱弱しくも言い放った私の言葉は 整の心を遠ざけさせるに
十分だった。
私の言葉通りに 接してくれている。
整は決して
私に嫌悪を抱いているのではない。
扱い方を 私の求めるものに 合わせただけだ。
整は十分なほど私を気遣ってくれていた。それは整が遊郭へ連れてこられた時から
変わらない。
私の思うように自分を変える。
注がれる器によって形を変える水の様に 自分を変える。
どんなに小っこい器だって
どんなに自分には見合わない器だって知っていたって
どんなに自分の欠片がはみ出し 零れ落ちていくと分かっている上で
整は自分を変えられる。
その流動性の優しさが私を窒息させようとする。
何も応えられない自分が浮遊させる。
何も受け取れない自分が露呈させられる。
押しとどめようとしても
何も言わない
責めもしない
整の寡黙さが私の腹の中身をかき混ぜる。指一本触れることなく
整は私に 最大の罪悪感と自責の念を持たせることが出来る。
優しくしてもらっているのにも関わらず
私の心は ここに居ない。
最大の悪意に思える。自分が自分の 心を 知っているが故に
故意的悪にさえ思えちまう。
出逢っちまったのが 間違えだった。
親方が私を どうにかしてやりてえ そう思いさえしなければ
整は私と出会うことなく 町を自由に行き来する女と出会えていたはずだ。
他人の果たせない 同情その全てを整は請け負った。
まるで
拒むことを許さない 遊郭に居た時の私みたいだ。
神と呼ばれるものが 偶然という賭けを持たないのであるならば
この出逢いには
一体何の意味が 含まれているのだろうか。
私に 整に 神と呼ばれるものは何を 求めていたのだろうか。
出逢い間違い
一期一会の出逢い方を普通とする私にとって
出逢った その後を 想像するのは不可能だった。心を精神を思うままに動かすことは
遊郭に居た時よりも制限下に置かれたように感じちまう。
監視のない場所で
物理的制限のない場にて
思考の中で課す 条件の無い中で儲けられる 条件
整との距離が開けば開くほど 私の中の罪悪感は膨らんでいった。
何かがあって膨らむ罪悪感ではなく 勝手に思いながら膨らませた罪悪感だ。
だからと言って
整との距離を縮めようとは試みやしない。
整が熱心に仕事に向き合っていれば
私が居さえしなければ そう背を向ける。
整が合った視線をすっと逸らせば
自分さえ居なければ
整が こんな風になることはなかったはずだ
そう胸の中で呟く。
根源にある してしまった させてしまった 申し訳なさは
私の目に映る全てを曲げる。私の感情がみるもの全てに判断を下す。
私の中の罪悪感と自責の念が 誤った加害意識と結託する。
自分の存在価値の否定が
整に対する罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。
知っているんだ。
歩み寄りは
歩み寄らせるものがあってこそ 成り立つ。
差し出す側と受け取る側
この二つの試みの全てを私は遮っていた。
私は静かに扉を開けると 外へと出た。日は西へと傾いていた。
秋の日差しは夏のそれよりも 目の奥へと入り込む。私は空を見上げていた顔を
太陽から背けた。
既に過去となった 記憶の中の遊郭を徘徊する。あの床の冷たさを
足の裏には確かに感じている。私を苦しめていた場所が 懐かしさを
湧き上がらせようとする。
遊郭に居た時
私の下した判断を
独断で良かれと思い行ったことを記憶の中行き来し
今という結果を創り出した
ほつれを一生懸命探し出そうとしていた。
誤りの始まりを探しに戻る。
重々しい足取りは 草履が地べたを擦る音を吐き出させる。思考は遊郭の中を歩き回っている。当てもなく歩く。
行き交う人と視線がぶつかる。瞬発的に目を逸らす。
人々の視線が私を見据えているように思えてくる。
どこを見ても人に見られている。
私は思わず小走りにその場を去る。
私が悪いからだ
私が薄汚い女だからだ
それでも視線はついて回ってくる。視線は私の乱れた髪を掴もうとしている。
おくれ毛を取り残さないように必死に両手で抑えては
息が切れても 足を止めることなく走った。
着物は肩からずり落ちていたが気にならなかった。
私は足を止め後ろを振り返る。誰もついてきてはいない。何も後ろに居ない。
後ろめたさが私を再びつつく。
私は走った。
どこまで来たのか分からなかった。草履は今にもほつれ切れてしまいそうだった。
私はようやく足をとめ辺りを見渡した。
誰も居ない。人一人も居ない。
安堵から大きな呼吸許された。肩が震える。
着物が更に落ちかかったが私は元の場所へ戻した。
ここはどこだろう。
どこまで来てしまったのか。
ゆっくりと歩く。目の前に海が姿を現した。私は足を止めた。
ああ
あの潮の匂いは ここから運ばれていたのね
不思議と古い友人に出逢ったように感じた。
ここに居たのね
私は海へとそう呟く。
ようやく来てくれたのね
海は私へそう言った。
それ以外私達の間に言葉は無かった。
海風が私の耳元を幾度もかすめていく。
私は思わず着物の前衣をぎゅっと合わせた。
風が不意を突いて
衣をはぎ取っていきそうだったからだ。
誰一人と居ない海は 心地が良かった。
私の周りに 今 誰一人として 人間が居ない。
記憶の中で行っていた探りは 止まっている。
あれだけ騒ぎ続けていた 罪悪感は黙っていた。
海のずっと先の方には 空との境界線が引かれている。
ここには静けさが在った。
その時
突然頭の中に
安治と過ごした時間が蘇ってきた。
それはまるで
止めていた記憶が流れ出したようだった。
手つかずの記憶が溢れかえる。
安治の声が
安治の言葉が頭の中にこだまする。
なあ
久ちゃんよ
俺
構わなねえよ
つまんねえ話で 朝が来たって
あなた お名前は
安治
安心の安あんに 治おさめると書いて やすじ っていう
もしもよ
遠い 遠い ずっと遠い後の世に
安治さんと私が出逢うことが在るとするならば
その時は
やすじ って名乗ってね
思いもよらない
記憶の回想に涙が零れ落ちた。
気付けば私は その場で嗚咽を上げて泣き出していた。
灰色の波は絶えることなく 押しては引いていく。
私の嗚咽を波が攫う。
過ちは ほつれは
整と出逢ったことじゃない
自分の身分も忘れて
安治を
好いてしまったことだ
安治へ持った想いを直視できずに
尊子へと差し出した
自分の弱さが こんな結果を生み出したんだ
膝から崩れ落ちた。
どんなに懇願しても
遊郭に居た私には 戻れない。
人々を巻き込んだ私の弱さを
懺悔しても
狂わせた人々の人生を基の姿には
もう戻せない。
泣き叫んでいた。幾度も砂を掴んでは叩きつけた。
ねっちゃん
ねっちゃんみたいな
女になりてえな
無邪気に笑顔を向けた 尊子が現れる。
ごめんよ
尊子
ごめんよ
久ちゃん
久ちゃんの
好きにしたらいい
いつかの整の言葉が今更胸を刺す。
ごめんなさい
整
ごめんなさい
いくら叫んでも海は海のままで
私以外に誰一人 そこにはいなかった。誰にも聞き入れられない私の叫びを
海だけが聞いていた。
遊郭に戻れない
戻ってやり直したい
どんなに
そう望んでも
今という時は
過去に位置できない。
泣き叫んで過ちを詫び
砂に涙を捧げても 懺悔は受け入れられることはない。
空しく響く。
どれだけそうしていただろうか。
私はゆっくりと身体を起き上がらせた。
涙の跡は幾筋も頬に残っている。
引きつる肌は私のものではないみたいだった。
最後に見上げた太陽の姿は 既にそこになかった。
しゃくりあげる私の肩に 着物の姿は見当たらない。
露出し右肩に そっと左手を乗せ摩る。
肌が温かい。
人肌を自分の肌で感じる。
私は泣きはらした顔を海へと向けた。
安治さん
心の中で安治の名を呼ぶ。
安治さん
右手の小指を胸の前に立てる。
ずっとずっと後の世に
安治さんと私が 出逢うことがあるとするならば
その時は
やすじって名乗ってね
私を
何があっても 見つけてね
安治の居ない今
胸の前に在る空に一人で指切りをした。
海が証人だった。
海風は私の身体を通り抜けていく。
額に髪が躍る。
風は在る私の身体を 無いように 通り抜けるようだった。
縋りつこうともしない。
踊らされている髪だけは
連れて行ってくれ
そう風に頼み込んでいる様に思える。
そして
額に張り付いて 置いていかれる。
そしてまた
連れて行ってよ とごねる。
風は逆さだな
生にしがみついていた私とは
私は額に張り付く髪を耳へとかけた。
生かされるために 生きて来た
死なないために 生きていた
生きることは 死なないこと
その矛盾の中だけを 生きてきた。
だから
喜びとか 幸せとか 憧れとか 希望とか 愛とか
そんなもんを感じるようには 私は出来てない。
出来損ない
私は海と向かい合い立っていた。
幸せを差し出されても 受け取らない
ヘドロの水を飲み続けた女は
ヘドロの水が最大の 安定 なんだ
海と私の間に掛け合う声はない。
何か問いかけても戻ってくる声はねえ。
姿ないもんに語り掛けるのは楽だな。
何も気にしないでいい。
何も期待することもない。
見返りを求めることもない。
辺りは暗くなってきていた。海が鼠色に変わる。。
かっさらってくれればいいのにな
そんな呟きは ここでは許される。
連れて行ってくれ
願うことが許される。
瞳が乾く。
私の中から出せるものは もう無い。
落とすもんはねえ
この砂地に落とすものは もう 何も残っていない。
雲は 今にも泣きだしそうだった。
海も黙って
空上の言うことを聞くように 灰色の波を使いに出して従わせる。
上も下も 鼠色なら
真ん中に位置する私が
限りなく色を持てねえとしても 目立ちやしねえな
安心した。
青い海か
海の色
本当の色は 何色が正しいのだろう
真っ青な 藍の海
見てみたかったな
本物 と呼ばれる 海の色
波音は絶え間ない。
波間は絶え間ない。
頼まれもしねえのに 動き続ける鼓動みてえだ
私は瞳を閉じた。
風は耳元に居る 。波は足元を誘う。
私は
生きたかったのだろうか
一度でも 生きていたい
そう願ったことが 私には 在ったのだろうか
この生の中で
生かされるよう選択する私ではなく
生きることを選択したい
その可能性を見ようとした私が
存在していたことは あったのだろうか
もし在ったとするのならば
何のために
誰のために
生きたいと想っていたのだろうか
どんな風に 生きてみたいと思ったのだろうか
私は一足 一足 海へと近づいた。
脱いだ草履が砂地に残る。
濡れた砂浜は 薄く裸足の跡を残す。
ぎゅっと踏まれた砂は 一度固まり 足が離れれば ふと 緩む。
足跡は残さないでな
海風は首元に纏わりつき 前へ前へと私を引っ張る。
海は優しかった。
どこまでも どこまでも 優しかった。
私を拒まない。
何も言わなくても 私を分かってくれている。
そんな
自分勝手な思いが 海の懐を飛び込みたい場所にする。
優しさの中へと 初めて自ら 入り込んでいく。
手招きは要らねえ
おいで
なんつう声も要らねえ
私は海へと入った。
身体を覆う波を許す 。
波は私を抱え込もうとする。着物が水分を含んで下がる。脇の下を持ち上げるように
波が入り込む。
結わいた髪が海風の勢いに ほどけ散る。
私の居場所はどこにもなかった。
遊郭にも 外の世界にも 身を休める場所は 一つも無かった。
身体は
波の思うままに 右左と動かされる。
ゆらり ちゃぷん ゆらり ちゃぷん
身体にあたる波だけが不規則な動きを成す。
私は身体を委ねる。
ほどけた髪が鼻先を撫でる。 泳ぐ髪が口元を拭う 。
あの頃に 戻りたい
過る思いは私を 柔らかくあの頃へと連れていく。
あの頃に帰りたい
行き場のない空気が 口元から漏れ 外へと出られる場所を闇雲に探す。
安治さんたら
また
着物の襟を間違えている
木連格子から合わせた視線
安治さん
あんた 久子っていうの?
安治さん
もしもよ
遠い 遠いずっと遠い
後の世に 安治さんと私が出逢うことが
在るとするならば
その時は やすじ って
名乗って ね
安治さん
安治さん
ごめんなさい
遊廓に戻りたい
あの時に 戻りたい
安治さんのところへ 帰りたい
安治さんの場所に
戻りたい
遊郭で過ごした日々が私を あの頃へ引き戻す。
海の中で私は膝をついた。
海はこんな私を 外へと放り出さず 内へ内へと飲み込んだ。
落ちそうな涙さえ 拭ってくれた。
ちゃぷん ちゃぷん
膝が浮く。波は私の顔を覆う。そして髪を引き連れながら引いていく。
私の頭が波の動きに引っ張られる。
膝で歩く。
どんどん
海の奥へと入っていった。
頭の全てが海へと潜りこむ。
私は膝を伸ばし立ち上がった。
そして数歩歩くとつま先が感じていた地がなくなった。
全身が波に揺らされる。
空気を求め顔を水面へとあげることはない。
引く波に身体は持っていかれる。力を抜いた私の身体は
容易く波に運ばれていく。波間から 時折見える砂浜に 戻りたいという憧れはない。
ゆらり ゆらりと運ばれていく。
そしてゆっくりと私の身体は 海の中へと沈んでいった。
口の端から泡っ玉が一つ上がった。
帰りたい
くの字に曲がった身体は 太陽のない暗い海を 揺らいで下る。
もう一つ
泡っ玉が上へと上がった 上を目指して上ってく。
ごめんなさい
出ない声は 肉体の中で呟かれる。
海に泳ぐ着物でさえ 上がりたがっている。
でも
ごめんな
道連れだ
涙と海はもう見境がない。
泣いていい
好きなだけ
もう
泣いていいんだ
もう
我慢なんてしないでな
もう一個 ちっこい ちっこい 泡っ玉が 私の口から出ていった。
最後の泡っ玉だった。
それを見届けると 私は瞳を閉じた。
力の抜けた身体は 自由を現わせたようだった。
ここに空気はない。
私の中にも もう 残ってない。
揺らぐ肉体は 既に海の含有物であって 私の物じゃなくなっていた。
ああ
また
手放しちまった
私の身体
私はいつまでも
私のものにはならねえんだな
私のものにならない
私
そんならな
海に同化したまま無くなっちまえ
泡っ玉達は
きっと私の思いを陸へ上げてくれる
思いだけ 上がっていけ
精神の終わりが 肉体の終わりを告げる。
肉体が先じゃねえ
精神が先に 終わる。
口から御霊が 出ようとする。
肉体と御霊の分離が始まった。
遊郭に
あの時に 帰りたい
安治さん
海は私を最後まで抱きしめてくれた。
私は
思う存分甘えるように
海の揺らぎに いつまでも いつまでも
抱きしめられていた。




