居るのに居ない
寄せる波が触れるか触れないか
そのすぐそばに
役目を終えた肉体 一つ 砂浜に横たわっていた。
波は肉体のすぐそばまで来ると 戻っていく。あと少しというところで
戻っていく。
肉体を海に連れ戻したい
そう思っているように見える。
砂浜に横たわる肉体は女だった。
開けた着物から突き出た 青白い両足は思いのままに投げ出され
辛うじて巻き付いている帯が青白い肉体への執着を見せている。
寄せては引いてを繰り返される波の動きの中で
起き上がろうとする意志のない肉体は 違和感を抱かせる。
ただそこに在る大きな物体でしかない。
在る重さを砂地に託すその姿は 生きている内には感じ得ないが
人間という物体
そのほとんどが 液体で出来ているという真実を目の当たりにさせられた気がする。
皮膚が外部との境界線だ。
私は離れた場所から見ていた。
振り乱した髪の間から 女の顔が少し覗いている。はっきりとは見えないが
女の目は閉じられていることが分かった。
見える片目が優しく閉じられていた。
いい顔をしている。
そう思った。
濡れた髪が死人には勿体ねえくらい 艶やかにみえた。
私は空を見上げた。
鼠色した空は心地が良い。
その時誰かの声が聞こえた。
私は声の聞こえる方を向いた。何人かの男達が小走りに駆け寄って来た。
そして そこに横たわる女に声をかける。
「おい おい」
一人が
急いでしゃがむと女の顔を覗き込んだと思うと
そこに居る男達に目配せをし 首を大きく振ってみせた。
だめだ
死んでいる
男達は無言の中
目の前の女の死を共有し合っているようだった。しゃがんでいた男は
開けていた女の着物を整えてやった。襟元を整え前をぎゅっと閉じさせ
投げ出されていた足元に着物を巻きつける。
せめてな
こんな時くらい 辱しめを 持たないように
男は静かに手を合わせた。
見知らぬ女に対して 精一杯の敬意を持っているのが分かった。
扱い方一つで 横たわる物体から 死んだ女に変わった気がした。
遊郭に居た頃
男っていうもんは
女に感情をかけてやることはねえ
そう思っていたものだから
今目の前の男がしている行動を見て
男が女に対して持つ 利害の無い敬意と優しさを 初めて目にしたように感じた。
いくら死後に与えられた優しさであっても
きっと 横たわる女にとって せめてもの救いになる
そんな気がした。
風が男の着物の裾を揺らしている。
ああ 今朝は 風が強い日なのか
激しく揺れる男の着物の裾を見て ようやく気付いた。
それと同時に
私の髪は一つも風に揺らされていないことに気付いて 不思議に思った。
男達は両手を袖の中に入れ 腕を組んで話をしている。
「若えのにな」
「まだ 若え 勿体ないな 何があったんだか」
「上がっちまって」
この女は陸にあがりたかったのか
あがっちまったのか
それとも
あげられたのか
男たちの会話に混ざることなく 私は離れた場所で考えていた。
「かわいそうにな
こんな寒空に
どうにかして 上がりたがったんだな」
一人の男がそうつぶやいた。それに対して肉体は頷きもしない。
微動だにせず
同じところに 同じ格好で横たわっているだけだった。
そこに転がっているのは抜け殻でしかねえ
何も言わねえ 何も応えねえ
頭ではそう知っていたけれども
死んだものが 本当に 何も聞こえないのか
何も言わない 何も応えないのか
今ははっきり 分からねえな
知っているつもりは 知っているとは違うんだもんな
人々が集まって来た。
転がるものを人は見下ろし 今度は口々に重しを持たない言葉を投げ合う。
私は何も言わず
目の前で繰り広げられることを ただ眺めていた。
かわいそうにな
私の胸が死んだ女へと そう呟いた。
すると
人々が一斉に左の方角を向いた。私も人々の向いた方へと目を向けた。
一人の男が息を切らせ駆けて来るのが見えた。
激しく振られる両腕は駆ける両足に 一切の有無なしに従っているようだった。
男は空気を掴みながら一歩でも早く一歩でも早く目的地へ近づけるように
駆けている様にみえる。
乱れた呼吸のせいで肩が大きく揺れている。
男は砂に足を取られ勢いよく転んだ。両手で砂を掴み投げ散らすと再び
起き上がりきる前に走り出そうとした。そして また転んだ。転び転び走ってきた。
私は目を凝らしてその男を見た。
整
私の口から彼の名前が零れ落ちる。
整は一心不乱に女の元へと駆け寄っていく。
そこに横たわる女と同じくらい青白い顔をし ひどく引きつらせていた。
こんな整を私は見たことがなかった。私は整の元へ駆け寄れなかった。
人々は黙って整を見ている。
駆け寄る男の姿を見ても 誰一人声を掛けられない。
ただただ
鬼のような形相で
狂ったように走ってくる整のために 人々は女へと続く道をあけた。
整は
横たわる女を見て両膝を砂浜に落とした。
身体の重みは砂をどかし整の膝を飲み込んだ。
そして
泣きあげた。
拳を砂に埋め込み
そして砂を掴み 砂を叩き払った。誰の目を気にすることなく
整は 泣き叫んだ。
涙は 海風の静止を振り切って砂に溺れる。
落ちても落ちても 地はそれを欲する。底なし沼のように
整の涙を欲する砂地が恐ろしいものに思える。
誰一人として
目の前で泣く この男に声を掛ける者はいない。
皆口を閉じていた。
私は静かに整のそばへと近づき 肩へと手を伸ばそうとした。
その時
整が言った。
「ごめんな 久ちゃん ごめんな
ごめんな」
整は女の顔にかかる髪を撫でてどかした。
泣きはらす整の前で 横たわる女は 私だった。
「ごめんよ ごめんよ」
何度も何度も謝りながら
死んだ私の身体に 整が思う様に触れる。
私の身体はもう 抵抗をしない。
整を押しのけはしない。
整が私の手を握る。
でも
私からの握り返しが 整へと戻ってきていない。
私は 死んだんだ
なのに私は
今
ここに居る
誰にも認知されないものとして 無いように存在している私の前で
整は
止められなかった自分を責める。
探し出せなかった自分を責める。
幸せを見せてやれなかった 自分を 責める。
整の声は私の無い胸を引き裂こうとする。
整の持った罪悪感と後悔 自責の念は
黙する私の身体の前で
整の魂に ゆっくりと 埋め込まれていくのが分かった。
その有様を見て 私の胸は引きちぎれそうになる。
幾度も幾度も
角度を変えながら 整の魂の中へ 埋め込まれていく。
それは
整が自分自身で 行っている 罰のようだった。
転がる私の肉体の姿形さえ忘れないように
自分の魂の中へと刻み込んでいく。
だめだ
と整を抑えようとしても 触れられない。
どんなに腕を振っても 整にあたらない。
指一本触れられない。
私がいくら首を振っても見えていない。
抵抗が一切 効かない。
その前で整は
もうこんなことにならないように
もう二度と 誰かを 死なせてしまわないように
もう何があっても
誰かを 傷つけてしまわないようにと
整が持った感情を 整の魂が 誤ったまま引き継いでいく。
違うと言っても私の声は届かない。
整の腕を掴もうとしても
私には掴めない。
何も出来ない私の肉体の前で
居るのに居ない
実態の無い私の前で
整の苦しみは
二度と忘れることのないものとして
二度と起こすべき出来事で無いものとして
魂に誓い合わせを頼んでいく。
誰からも咎められない
責められることのない
罰を与えられない苦しみというものは
時に自らに 過大な甚大な 罰を与え続けなければ 償えないという
信じ込みの中へ
自分自身を
閉じ込めてしまうのだ。
整は
一つも悪くない
整に一つもの間違いはない
整は違う
私が
どう泣いて叫んでも
整に私の声は届かなかった。
整の耳には届かないままだった。
違う 違う
整 あんたが悪いんじゃねえ
あんたさんが
悪いんじゃねえ
どんなに大声を出して 泣き叫ぼうが私の声は
聞き入れられることはなかった。
整が悪いんじゃない
私が悪いのに
なのに
私は
整を
加害者にしてしまった。
整の優しさが
自分を
加害者として存在することへ同意をさせる。
その同意の中には
死なせてしまったと思わせた私が居た。
勝手に死んだ私は
勝手に
被害者になっていく。
そして
勝手に死んだ私を前に
整は
勝手に
加害者になっていった。
自らの魂を潰したものの罰は
死んだ後の抵抗が一切許されねえんだ。
生きたもんへの呼びかけが一切通じねえ
残ったものの声を聴き
残ったものの感情を見
自分によって 狂った人生の中生きる
残ったものを 目をかっぴらいて 見続けていかなければならねえんだ。
訂正は 持たせられねえ
否定は 受け付けられねえ
違った
なんてな
聞き入れられねえんだ。
その身を捨てたが故に 持つ制裁 だ。
声は
もう いくら願ったって届かねえ
生きている整と死んでいる私
見える世界と見えない世界を隔てて
今被害者と被害者として 存在することになった。
整は泣いていた。
泣き続けていた。
人々は整を置いて一人 また 一人とその場から去って行った。
自らで途絶えさせた命が
この世に残してしまったもの。
整を見て私は初めて気づいた。
肉体を持たない私には
整の苦しみを解くことが もう 許されないのだということ。
それが
死んだ私に課せられた 解けることのない苦しみだ。
そこに横たわる肉体に後悔はない。
それは生きるという役目を終えた物体だ。
肉体が終わっても
終わりじゃない。
整の姿を見て持った後悔は
確実に今ここで
生まれちまったんだからな。
死んだ肉体をよそに産み落とされた感情。
生きている時には 無かった感情の 生誕だ。
肉体より遥かに重い
罪悪感と自責というものだった。
整の泣き声を ただ耳にしながら
私は私の死体を尻目に
空を見上げた。
死んだ後にだって
目に映るものは
生きている時と同じなものってあるんだな
死んだ後に
ようやく
見えてくるものっていうものも
あるんだな
鼠色の空の下には
私が身を投げた時と同じ 鼠色した海が在った。
その真ん中で
嘘っぱちの加害者と
嘘っぱちの被害者が 生み出されていた。
冬になる前の秋の朝のことだった。




