第9話 閉まる防水扉
『渡った。こっちは向こう側だ』
電話の笹倉は、そう答えた。
尚匡は銘板から顔を上げた。今の笹倉の肩は緊張している。向こうの声には少し息切れがあるが、普通に話していた。
「棒は。警備用のが残ってる」
『使える。下流の圧が引いてからだ。こちらは今、動いていない』
「どこへ差せばいい」
笹倉が訊いた。相手は位置を説明した。尚匡は聞きながら、棒の受け口の下を見た。古い塗装が削れ、金属の色が出ている。そこが操作する位置なのは間違いなさそうだった。
だが、下流の圧という言葉が残った。
「いま動いてないのは、何がですか」
尚匡は横から尋ねた。
返事の最初が笹倉の声と重なった。二人とも止まったときには、残り表示が零になっていた。接続先、九時五十分。その数字も消えた。
笹倉は受話器を戻し、すぐに棒を持ち直した。
「待って。条件を、先に」
「圧が引けば通る。ここはそういうところだ」
笹倉は壁の目盛りを指した。水位を示す古い目盛りらしい。見えている水面は、その中ほどより下にあった。
尚匡は水位と圧力は同じではないと言おうとした。何の圧を、どこで見るのか。その前に笹倉の棒が受け口へ入った。短く回すと、扉の機構で鈍い音がした。
上がっていた扉が僅かに持ち上がり、止まる。笹倉は棒を横へ倒し、両手で押さえた。
尚匡は表示を見た。白い線が動き、停止の位置らしい印の手前に来ていた。笹倉が棒を握ると、その線も止まる。操作に反応していることは分かった。しかし、それが安全な固定を意味するのか、今だけ力で保っているのかは、線だけでは分からなかった。
尚匡がそこを訊くと、笹倉は保持している間に通ればいいと答えた。自分が最後に抜く、という声には、自分だけが逃げたいという響きはなかった。尚匡は棒を握るその手を見て、言いかけた言葉を止めた。
「俺が残る。皆は先へ」
榎坂が扉の下を見た。頭上には止まった厚い板があり、足元の通路は向こう側へ続いている。先には乾いた床が見えた。扉のこちら側の床には、壁際から薄い水が来始めていた。
「向こうに解除の手段があるか、見る」
榎坂が先に抜けた。友乃葉の手提げを受け取り、屈んだ彼女を通す。御厨、穂奈実と続いた。尚匡は最後に残り、笹倉の立つ位置を見た。
「一人で押さえられますか」
「早く行け。あとで抜けばいい」
笹倉の頬に汗が出ていた。怒っているように見えたが、掌は棒を握り直し続けている。尚匡は扉の向こうへ身体を通した。抜けたところで振り返り、新しい銘板の下段を光で照らした。
先ほど泥を払った部分の続きが、扉の位置が変わったことで見えた。
中央冷却戻り系運転中。旧停止手順適用外。
小さな文字が並んでいた。
尚匡は頭上の配管を見た。排水槽へ向かう太い管の継ぎ目で、振動が続いている。床の水が壁沿いだけでなく、笹倉の靴の周りへ走った。向こう側にいたと電話の男は言った。そこへ着いたとき、何を待ったのか。何が動いていなかったのか。
今、ここでは止まっていない。
「笹倉さん、圧が引いてない。旧手順は使えません」
笹倉がこちらを見た。
「何?」
水位の警告灯が赤く点いた。今まで消えていた灯りだった。榎坂が向こう側の壁を照らし、解除の表示を探す。尚匡は笹倉へ、棒から身体を離せるかと訊いた。
笹倉は棒を引いた。
抜けなかった。
彼は一度力を緩め、角度を変えてもう一度引いた。金属が擦れる。扉の重さか、水の力か、噛み込んだ棒が横へ撓んだ。
「前は、これで」
笹倉が言った。
尚匡の耳に、その四文字が残った。知らないと否定する声ではなく、知っているものを探す声だった。
榎坂が引き返そうとした。尚匡は壁を見た。扉の厚み、笹倉までの距離、棒の傾き。止める操作盤は、こちら側には見当たらない。
「そのまま、身体だけ――」
言い終わらなかった。
固定部が折れる音がした。大きな破裂音ではなく、硬いものが短く切れる音だった。扉が下がった。笹倉が片手を離し、肩を引こうとする。棒が床を打ち、その向きへ水が跳ねた。
笹倉の顔が、急に低くなった。
榎坂が飛び込もうとした。尚匡は腕を掴んだ。穂奈実も反対側から榎坂の服を引く。止めるための言葉は出なかった。扉の下へ腕を入れたら、そこへ同じ板が来る。
「笹倉さん!」
榎坂が呼んだ。
笹倉は声を出そうとした。尚匡のほうへ手が一度動いた。指先に、古い札の鎖が引っ掛かっていた。
尚匡はその手へ自分の手を伸ばしかけた。届く前に、水が扉の下へ噴き出した。足元の光が揺れ、手の位置が見えなくなる。
榎坂がもう一度名を呼んだ。
尚匡は壁の表示を探した。非常操作、停止、手動。そうした文字があるところを目で追う。受け口は扉の向こうだ。棒も向こうへ転がっている。こちらにあるのは、圧のかかった扉の面と、赤く点く警告灯だった。
別の場所から止める方法があるかもしれない。
榎坂が壁の点検蓋を引いた。動かない。尚匡はそこに錠があるのを照らし、素手では開かないと伝えた。榎坂は隣の箱へ移った。中には細い線と端子が並んでいた。名前の読めない線を切れば、扉が上がるとは限らない。止めたいもの以外まで止まれば、今度は足元の水がどうなるか分からなかった。
尚匡は、分からない、と言った。その声に榎坂が顔を歪めた。責めるためなのか、自分でも分からないことへの苛立ちなのか、尚匡には判断できなかった。榎坂は線へ手を出さず、扉へ戻った。
その別の場所まで、今すぐ手は届かない。
「どこか、上げるもの」
榎坂が言った。尚匡は周囲を見た。携帯、手提げ、壁に固定された細い配線の箱。扉の重さを支えられるものはなかった。自分の工具袋があっても持ち上がらない。そんな判断をしていることが、笹倉を見捨てる計算のようで嫌だった。
友乃葉は少し離れた壁際に立ち、携帯の光をこちらへ向けていた。震えで光の輪が動く。その向こうに、御厨の白い顔が見えた。
「水、上がってる」
穂奈実が言った。
穂奈実は壁の継ぎ目を照らした。さっきまで水面の上に出ていた横の線が、水の下へ隠れていた。誰かの感覚で急がせているのではなかった。
尚匡はその線を見て頷いた。榎坂にも見えるよう、光を動かす。
尚匡は足元を見た。敷居の線が見えなくなっていた。水は自分たちの靴へ広がり、通路の低いほうへ流れている。止まったと思っていた扉も、まだ僅かに軋んでいた。
榎坂が肩で息をした。笹倉の名を呼ぶ間隔が短くなる。
尚匡は壁の上の表示へ光を戻した。先の高い通路へ向かう矢印がある。扉を上げる方法ではなく、ここから離れる方法だった。
「離れなきゃ、駄目です」
自分の声だと分かるまで、少しかかった。
榎坂が振り向いた。その目を見て、尚匡は言い直しそうになった。もう少し探しましょうと。何かあるはずだと。言えば自分は、諦めなかった人間の側に立てる気がした。
だが、榎坂の踵まで水が来ていた。
「今、ここに残ると。ほかの人も」
それだけ言った。
穂奈実が友乃葉を呼び、御厨へ高い側へ進むよう頼んだ。友乃葉は光を消さず、後ろ向きに一歩動いた。榎坂はまだ扉を見ていた。尚匡も見る。笹倉の手は、もう動かなかった。
最後まで、電話の続きは聞こえてこなかった。
九時四十五分。
接続先だと表示された九時五十分まで、まだ五分あった。そこには、渡れたと答えた笹倉の声があるはずだった。
今、自分たちのいる場所では、名を呼んでも返事がなかった。
尚匡は右手の傷を握り込んだ。痛みが走る。その痛みは、この五分を飛び越えずに残っていた。
榎坂が一歩、こちらへ退いた。
尚匡は彼と並んで扉から離れた。歩きながら五人を数え、最後に、数え直した。




