第8話 安全だと言った男
笹倉は小さな蓋へ指を掛けた。
探す手つきではなかった。壁に並んだ継ぎ目のうち、一つだけを選び、下から爪を入れた。蓋が持ち上がり、中から短い金属の棒が現れる。彼は留め具を外し、その棒を引き出した。
尚匡は右手を下げたまま、その動きを見た。
古い工具だった。握る部分の塗装が擦れ、先端に四角い切り欠きがある。自分の会社で使うものではないが、何かの機構へ差し込み、手で位置を変えるための棒だとは見当がついた。
「ここ、初めてですか」
尚匡が訊くと、笹倉の手が止まった。
「似た施設を知ってるだけだ」
蓋の内側には旧警備用と印字されていた。その下の会社の印を、尚匡は見た。笹倉の胸元で、細い鎖が上着の襟から出ている。棒を持ち上げた拍子に、その先の札が覗いた。同じ印があった。
名札とは違う。首に掛けていた、小さな古い札だった。
札の角は丸く減っていた。一時的に借りただけのものには見えない。尚匡は自分の会社の身分証を思い出した。紐の内側だけが汗で濃くなり、表の文字が擦れ、誰も気にしない使い癖が残る。笹倉の札にも、そういう時間があった。
覚醒室では、笹倉は職業を言わなかった。こちらも立ち入らなかった。今はそこに、単に自己紹介を省いたのでは済まないものが挟まっている。施設との接点があるなら、閉じ込めた相手を知っているかもしれない。逆に、自分と同じように仕事で呼び出されただけかもしれない。古い札一枚では、そのどちらにも届かなかった。
友乃葉が携帯を上げた。笹倉は肘を寄せ、札と棒を隠す。
「今、そんなことを調べてる場合じゃない」
「使えるものを、記録したいです」
友乃葉は画面を笹倉へ向けた。撮り終えた写真を見せたのではなく、撮る前に確認を求めていた。笹倉は首を振った。友乃葉は携帯を下ろしたが、メモの画面は閉じなかった。
尚匡は目の前の男に、知っているなら先に言ってほしかったと思った。
同時に、それを言う自分の口が重かった。自分も、さっきの空調室で目的を忘れたとき、最初は一回しか見ていないと答えた。知らないことを知らないと言うより、できるはずのことができなくなったと認めるほうが難しかった。
笹倉がこの場所を知っているのなら、彼にとっては、なおさらかもしれない。
「その棒、何をするものですか」
尚匡は扉を見る。太い枠と、上下へ動く構造だった。今は人の背丈より高いところまで上がり、下の通路を塞いではいない。上部に大きな軸が二つある。扉の下端は厚く、靴で押さえて止めるようなものではなかった。
「停止用だ。防水扉の位置を、手で固定する」
笹倉は棒の切り欠きを示した。
壁の受け口には、確かに同じ形が見えた。適当な棒を拾ったのではない。その事実は、笹倉が話したことの一部を支えた。しかし、ここで使ってよいかは別だった。
尚匡は受け口の周囲へ目を移した。
古い札の上に、新しい銘板が重ねてある。下から覗く札には停止という文字があるが、その前後は隠れて読めない。上の銘板には運転の区分が細かく並び、水滴と泥の筋が二行を横切っていた。
金具の形は古いままだった。札だけが新しい。尚匡は地図の改訂日を思い出した。
「手順が変わった可能性は?」
「こんなもの、変えられない。安全のための扉だ」
笹倉は棒を持つ手を少し下げた。怒鳴ってはいない。むしろ、説明の手間が省けることを期待するような顔だった。知っている人間が一人いて、専用の道具もある。六人がここまで苦労して来た以上、頼れるものに頼りたい気持ちは尚匡にもあった。
ただ、札を読み終わっていなかった。
尚匡は、新旧の板を留めるねじを見比べた。下のねじには錆が出ているが、上のものは新しい。かつて安全のために作った扉が、そのままの役割で使われているとは限らない。電話の配線も、新しい金具で古い壁に留めてあった。
笹倉は棒の先を受け口へ合わせ、まだ差し込まずに形を確かめていた。専用品だから合う。そのことを確認する指の動きに迷いがなく、尚匡はまた少し安心しかけた。
尚匡は袖で拭こうとした。右手を上げたところで掌が痛んだ。ガーゼの端に、さっきの金網の汚れが付いている。自分の作業着も、あの空調室を通ってきた服だった。
「何か、拭くものを」
言い終わる前に、穂奈実がハンカチを出した。小さく畳んだ角を差し出してくれる。
尚匡が左手で受け取ったとき、笹倉は電話の前へ移っていた。
観測区画へ入る防水扉にも、一台ある。発信ボタンは白い。まるで、棒と札だけでは迷う人間のために、最後の確認手段が用意されているようだった。
「向こうの俺に聞けば済む」
尚匡は顔を上げた。
もう少し待ってください、と言う時間はあった。銘板を先に読ませてください、でもよかった。実際に棒が使えるのかを電話で訊くにしても、先に何を訊くか決められたはずだった。
それでも、笹倉の掌が照合板へ載るのを見ていた。
ここを知っている男が、その場所を既に通った自分に尋ねる。これ以上確かなものがあるだろうかと、ほんの一瞬考えた。その瞬間に、何を確かだと思っているのかを見失った。
笹倉の持つ古い札に、携帯の光が反射した。
仕事の現場でも、経験があるという言葉には重みがある。初めて来た人間が図面を読み、経験者が黙って専用の工具を出す。その場面だけなら、自分が口を挟むほうが遅く、邪魔に見える。
尚匡は、後輩が怪我をした現場の朝を思い出した。確認したつもりだった。上司が見たと言ったから、二人が確認したことになった。実際には、同じ一つの見落としを二人で持っていただけだった。
穂奈実がハンカチの残りを手に持ち、こちらを見た。
尚匡は新しい銘板へ布を当てた。読めるところから読めばいい。棒を挿す前に止めればいい。そう思って、水滴を横へ払った。
板の上の泥が筋になった。文字の一部が浮かぶ。中央冷却、戻り系。尚匡はもう一度布を返し、まだ隠れた行を探した。排水槽に中央の冷却系が繋がっているのか。地図にあった太い線は、その戻りだったのだろうか。
背後で、榎坂が皆の位置を確かめた。友乃葉は壁際へ寄り、御厨は眼鏡を掛け直していた。六人とも、笹倉が電話を使うのを待っている。
電話を聞けば、その後で読む時間もある。尚匡はそう考えた。そこにある機械は、電話の三十秒のあいだ止まって待ってくれるように、いつの間にか感じていた。
尚匡は布を持ち替えた。右の掌が引きつった。
床の下で低い音が変わった。短く強くなり、また元に戻る。
尚匡は銘板の端に指を置いた。細かな振動が来ていた。停止中の設備にある静けさとは違う。だが、音だけで扉が動くとは言い切れず、口にする言葉を選び始めた。
九時四十分。
笹倉が受話器を上げた。
尚匡が聞いたのは、発信ボタンを押す小さな音だった。その音は、重い扉が動く音よりずっと軽かった。




