第7話 排水槽
右端の扉を開けると、梯子が下へ延びていた。
尚匡は扉の枠から身体を出さずに照らした。下の水面まで、三メートルほどある。梯子は途中の細い縁へ繋がり、その先に金網の足場があった。足場は水の上に架かっている。通路というより、設備の脇へ一人で立って作業をするための場所だった。
向こうの自分は、一人なら渡れると言った。
尚匡はその一人が、なぜ一人だったのかを考えた。皆と別れて先に来たのか、皆が別の道を選んだのか。ほかが歩けなくなったあと、自分だけが進んだのか。電話の返事は、そのどれも否定してくれなかった。
「まず、俺が下を見ます。次の人は、呼ぶまで降りないでください」
榎坂が上から足元を照らした。尚匡は携帯を胸のポケットへ入れ、梯子へ両手を掛けた。乾いて見えた横木は冷たかった。靴の土を落として一段ずつ下り、縁へ片足を移す。
靴底に、ざらついた塗装が触れた。ここは立てる。上へそう伝えた。
金網へ右足を載せると、薄い板が僅かに沈んだ。音が短く鳴り、隣の板も揺れる。尚匡は荷重を戻した。金網の四隅のうち、見える二か所で留め金が外れていた。
「六人、続けて来ると揺れます」
下から声を上げた。言葉が排水槽の壁に返り、思ったより大きく聞こえた。榎坂が皆を扉から離し、尚匡一人の分だけ光を残す。
真下の水は、ゆっくり流れているように見えた。浮いた細かな泡が、金網の下で急に速くなり、配管の陰へ消えた。落ちてから泳げばいい、とは考えられなかった。
尚匡は光の端に、隣の点検足場を見つけた。そちらは壁に幅広い金具で留められ、金網ではなく穴の空いた板が載っている。最初の段へ足を移せれば、六人が時間を掛けて進めそうだった。
問題は、その段が濡れていたことだった。
梯子から身体を捻って届く位置にあるが、手を離すとき、靴が滑る。自分ならと考えかけ、上の友乃葉の顔を見た。友乃葉の腕では、同じ位置の支えへは届かない。
「一度、戻ります」
尚匡は梯子へ戻った。足場が動くと思うだけで、腿に余計な力が入る。登る途中で右手を掛け替えたとき、金網の切れた端に掌を擦った。
熱い痛みが走った。
手を離さずに上がり切り、踊り場へ膝を置いてから掌を開いた。浅い筋に血が滲んでいる。榎坂が見て、清潔そうな布はあるかと訊いた。穂奈実が鞄を開き、個包装の小さなガーゼを出した。
「これだけ。仕事で擦ることがあるから」
尚匡は礼を言った。榎坂に押さえてもらっている間、皆が下を見た。右の未来で自分は渡れた、という一行が、急に頼りなくなっていた。
「これ、下へ敷けますか」
友乃葉が手提げから折り畳みの座布団を出した。講義の空き時間に外で座るとき使うという。片面は布、裏側には滑り止めの細かな点があり、折り畳んだ状態を留める帯が付いていた。
尚匡は受け取り、端を指で押した。濡れた板へただ置けば、敷物ごと滑るかもしれない。柔らかいから、足を載せた瞬間に端が浮くこともある。
「帯、ここへ掛けられる?」
穂奈実が折り目を開いた。榎坂が携帯の光を下へ戻す。尚匡は梯子から点検足場への段差と、乾いた角の位置を指した。
「段の奥の角なら。ただ、身体を支える帯にはできません」
「滑らせないためだけ、だな」
榎坂が確認した。友乃葉が頷いた。
「私物を濡らすなよ」
笹倉が言った。
友乃葉は一瞬、手提げの口を閉じた。引っ込めるのかと思ったが、座布団を渡す手は下がらなかった。
「使うために持ってたので」
尚匡は、使わせてください、と言った。友乃葉はそれで少しだけ肩を下げた。
二度目は榎坂が下りた。尚匡は上に残り、さっき自分が使った手の位置を伝える。榎坂は座布団の帯を乾いた段の角へ回し、引いた。足を載せずに手で横へ押し、ずれを確かめる。一度緩んだ帯を掛け直してから、荷重を少しずつ移した。
尚匡は上から、その順序を友乃葉に見せた。
「あそこまで下りたら、榎坂さんが声を掛ける。足を移すのは、それから」
友乃葉は梯子の横木を目で数えた。荷物は身体に掛けず、別に手渡すことにした。穂奈実が自分の鞄の長い紐を短くまとめる。笹倉も上着の裾を押さえた。
電話の穂奈実が警告したのは、荷物だった。今、言われたとおりに変えることはできる。しかし、それで同じ先へ出られる保証を買ったわけではない。尚匡は空いている手で、梯子の先を照らした。
友乃葉が下りた。最後の二段で足が止まった。
榎坂は下から手を伸ばし、掴めと言わず、見えるか、と訊いた。友乃葉が顔を上げる。尚匡はその間、次の人を梯子へ入れなかった。
友乃葉の靴が座布団の上へ移った。布が僅かに沈む。帯は角から外れない。友乃葉が息を吐き、榎坂の示す点検足場へ身体を移した。
「渡った。次、いいぞ」
榎坂の声を聞いてから、尚匡は御厨を呼んだ。
御厨は眼鏡を外し、胸のポケットへしまった。下がよく見えないのではと訊くと、近くなら、とだけ答えた。横木へ足を移すたび、靴の踵で二度確かめる。尚匡は急がせず、上着が引っ掛からないかを見た。
下から榎坂が、右足をもう一段、と言った。御厨は左を動かしかけ、止まった。尚匡の手が背中に触れそうになったが、上から押されればかえって姿勢を崩す。触れずに待ち、榎坂が同じ言葉を繰り返すのを聞いた。
御厨は顔を横へ向け、足元を見た。その向きでは胸のポケットの眼鏡が落ちそうだった。尚匡が先に預かりましょうかと言うと、彼は首を振った。手を離すことのほうが怖いらしい。
結局、榎坂が足の置き場を光で示し、御厨はそこへ靴を動かした。顔が見えなくなるまで、尚匡は踊り場で待った。
先へ進め、と言われたら自分も急いだかもしれない。電話の相手へ向ける質問にはあんなに慎重だったのに、今、目の前の人へは簡単な一言を投げそうになる。尚匡は次に下りる穂奈実へ、待ってもらったことをそのまま伝えた。
穂奈実、笹倉と続いた。誰かの荷物が下へ届くまでは、次の人が動かない。点検足場の先へ進む榎坂も、後ろの友乃葉が止まると止まった。六人の動きは、尚匡が一人で下りたときとは全く違う速さになった。
最後に尚匡が下りた。
尚匡は、荷物を預ける前に友乃葉が鞄の留め金を確かめていた姿を思い出した。携帯まで鞄へ入れかけ、穂奈実に声を掛けられて慌ててポケットへ戻していた。落とせば、記録だけでなく照らすものまで失う。人が渡ることだけ考えていては、そういうものを置いていく。
尚匡も胸のポケットに手をやった。携帯はあった。足場へ出たあと使う光を、自分で確かめた。
右手を握るたび、傷に熱が戻る。左手へ任せすぎると身体が傾くので、痛い手も支えに使うしかない。足場へ移り、座布団の帯が緩んでいないかもう一度確かめた。
外して持って行こうとすると、友乃葉が向こうから、そこに置いてもいい、と言った。
「戻るなら、また使うかもしれない」
尚匡は帯をそのまま残した。汚れた青黒い布が、乾いた角に引っ掛かっている。
壁沿いの足場を進む間、誰も電話の答えを口にしなかった。目の前の靴と、掴めるところを見ていた。尚匡は踏み板の向きが変わるたびに止まり、後ろまで合図が届くのを待った。
観測区画側の縁へ六人が上がり切ったとき、時計は九時三十九分だった。
踊り場で六台の通話を終えてから、十三分。右端の電話が示した九時三十分も、既に九分過ぎていた。
友乃葉が息を整えるあいだ、尚匡は時計から目を離した。
友乃葉が皆の名を呼んだ。六つの返事があった。
尚匡は右手のガーゼを押さえた。布の端が赤くなっている。穂奈実がその色を見て、あとで替えられるものを探そうと言った。今すぐ何も痛くなくなるわけではない。そのくらいの約束なら、信じられた。
御厨が壁に背をつけ、目を閉じた。笹倉はその脇を通り、観測区画の入口へ向かった。先ほどまで皆の足元を見ていた男の視線が、今度は壁の一点へ真っ直ぐに向いている。
尚匡はそれを追った。
見える取っ手とは別の、小さな継ぎ目がそこにあった。




