第10話 無音の意味
高い通路へ上がっても、榎坂は扉のほうを向いていた。
笹倉を呼ぶ声が、まだ喉に残っているようだった。尚匡が何か言おうとすると、榎坂は地図を見せてくれと言った。観測区画の周りに、別の通路がないか指で追っている。
尚匡も横から見た。排水槽へ戻る線は、今通った防水扉へ集まっている。壁沿いの点検路も途中で切れ、こちらから入れる場所は図にない。
その図が古いことを、希望にしたかった。
尚匡は近くの壁に沿って歩き、継ぎ目を探した。通路の先には扉が二つあるが、排水槽へ戻る表示はない。耳を寄せても、低い機械音しか聞こえなかった。
笹倉のいた場所へ、声を戻す方法もなかった。
防水扉の電話は一度使い終わっている。受話器を上げ直せば九時五十分の笹倉が答えてくれる、と考えかけたが、灰色のボタンの見た目を思い出した。都合よくもう一回だけ使えるとは、どこにも書いていない。
友乃葉が通路の端に座った。泣く音はしなかった。携帯を両手で持ったまま、画面を暗くすることもできずにいる。
「写真、撮ってなかった」
彼女が言った。
「札。棒も。ちゃんと残せてたら」
尚匡はしゃがんだ。右の掌が脈を打つ。
「俺、銘板を読んでた。それでも、間に合わなかった」
「私、電話の条件を先に書けば」
「一人に全部は、無理です」
言ってから、自分が責任を薄めているように聞こえ、尚匡は口を閉じた。友乃葉は頷かなかった。ただ、暗くなりかけた画面へ指を置いた。
穂奈実が隣に腰を下ろし、彼女の携帯を一緒に見た。尚匡は少し離れて立った。
御厨は高い通路の角にいた。壁へ手をつき、服の裾を見ている。靴の周りは濡れていた。何かを落としたのかと訊くと、違う、と答えた。それ以上はこちらを見なかった。
九時五十分になった。
誰もその時刻を読み上げなかった。尚匡は自分だけで数字を見た。電話の笹倉がいたはずの時間が、普通の一分として過ぎていく。扉の向こうから呼ぶ声はなかった。
榎坂が地図を返した。
「先に進む。ここから停止できるところを探す」
尚匡は頷いた。見つかると言えなかった。見つけても間に合うと言えなかった。榎坂も、そうした返事を待ってはいなかった。
穂奈実が尚匡のガーゼを見て、押さえ直したほうがいいと言った。榎坂が持っていた小さなテープで端を留めてくれる。笹倉のいた場所を見た手で自分の浅い傷の手当てを受けることに、尚匡は抵抗があった。
「これ以上、使えなくしないためだ」
榎坂が言った。その指先も震えていた。
五人は観測室の手前まで進んだ。
通路の壁際には小さな作業棚があった。榎坂が下を覗き、尚匡も残っているものを見た。割れた樹脂の箱と、使い切った布の芯。持ち上げる道具も、身を守る装備もない。長い棒があればと一瞬考えたが、笹倉の持っていた棒でさえ、あの扉を支え切れなかった。
棚には折り畳まれた避難経路図も残っていた。尚匡は携帯の写真と大まかな道筋を照らし、榎坂へ渡した。紙の改訂日も古かった。
棚の横に、外れたホースが一本あった。尚匡は両端を照らした。片方が裂けている。それを何かに使えると言えば、皆が一度は立ち止まってくれるだろう。止まった時間に相応しい使い道を、自分は持っていなかった。
榎坂がそれを見る尚匡へ、使えるかと訊いた。
「今は、何にも繋げられないです」
答えると、榎坂はホースを拾わなかった。尚匡は、自分が希望を一つ潰したような気持ちになった。だが、持ち運べば何かができるはずだと五人の手を塞ぐことも、違っていた。廊下が分かれ、一方は広い室内へ、もう一方は圧力点検区画へ続いている。後者の扉に電話が付いていた。白い発信ボタンが、今までより明るく見えた。
榎坂が前へ立った。
友乃葉が時刻を確認し、穂奈実が録音を用意する。質問を先に決めようと尚匡は言った。榎坂は、通れるか、何が動いているか、そこに停止の設備があるか、と短く答えた。
十時ちょうど。
榎坂が掌を置き、発信した。
「榎坂だ。聞こえるか」
返事はなかった。
尚匡は皆を見た。誰も喋っていない。受話器の先に、低い音があった。三度唸り、少し途切れる。空調室の電話でも聞いた間隔だった。
「どこだ。声を出せるか」
榎坂が口を近づける。尚匡は本人照合の表示を見た。接続先、十時十分。残り時間は進んでいる。
擦れるような音がした。
榎坂が一瞬顔を上げ、また受話器へ向く。喉で出せるだけでもいい、聞こえたら何か鳴らしてくれ、と言った。返事らしいものはなかった。
三十秒が終わった。
榎坂は受話器を持ったまま、扉を見た。
「死んでる」
声が平たかった。
「こっちは駄目だ」
尚匡は窓へ近づいた。厚いガラスの向こうに機械がある。室内に人の姿は見えなかった。それで十分後にも誰もいないと分かるわけではない。
「声がなかった。それ以外は、まだ」
穂奈実が言った。
「さっき、目の前で一人死んだんだぞ」
榎坂の声が廊下に響いた。言い終えると、彼自身が口を閉じた。穂奈実は目を逸らさず、録音を止めた。
尚匡は窓の向こうを照らした。壁際に、酸素欠乏の恐れ、という点検警告の札が掛かっていた。計器の現在値ではない。今ここがどういう空気なのか、その札だけで決めることはできなかった。
ただ、声が出ない理由は一つではなかった。
尚匡も空調室で、言葉が繋がらなくなった。あの状態で電話を受けたら、相手が訊いたことに答えられたかどうか分からない。無音の先に死んだ榎坂がいると想像したのと同じくらい、倒れたまま何かを伝えようとする榎坂も想像できてしまった。
「入らなければ、この先の榎坂さんと同じことにはならないかもしれない」
尚匡は言った。
「でも、死んでるかどうかを確かめるためには、入れません」
榎坂は窓を見た。やがて受話器を戻した。
受話器が台へ収まっても、彼の手は離れなかった。
「何か鳴らせって、言った」
榎坂が低く言った。
「返事がなかったら、次はどうすればいいんだ」
尚匡は答えを持っていなかった。現場で倒れた人なら、近づいて確かめられる。今の電話で話そうとした相手は、扉の向こうにいるとは限らない。十分後にしかいない人へ、今の自分の手は届かない。
「ここには、榎坂さんがいます」
尚匡は言った。
「今、先へ行ける榎坂さんが」
榎坂は初めてこちらを見た。そんなことは分かっている、という顔だった。それでも、受話器から手を離した。尚匡はその手がポケットへ入るまで待った。
穂奈実が録音を小さく再生した。音量を上げると、低い唸りの間に擦れる音が二度あった。息か、衣服か、機械か。尚匡には区別できなかった。
「何か生きてる音だって、言いたいわけじゃないです」
穂奈実は言った。
「分からないまま残します。死んだと書くと、あとで別の音に気づいても、そっちに合わせて聞いてしまうから」
榎坂は返事をしなかった。友乃葉がメモを出す。無音、と打ち、消して、声なし、と直した。隣に機械音、擦れる音、と加える。
尚匡は窓の札の写真を撮った。警告であって測定値ではないことも、記録に足してもらった。札の意味を確かめた穂奈実が頷く。
こうして書き分ければ、皆が助かるわけではなかった。笹倉の名前は、どの言葉を選んでも六人目として返事をしない。尚匡はその名前のある行を見た。友乃葉は消していなかった。
五人は圧力点検区画へ入らず、開けた観測室へ向かった。榎坂が最後に残り、窓へもう一度光を向けた。
尚匡は待った。
足音が一つ、足りなかった。誰も欠けた間隔を詰めようとはしなかった。尚匡は前を歩く友乃葉の光が角を曲がるまで見届け、それから自分の光を先へ向けた。
榎坂はやがて光を下げ、こちらへ歩いてきた。尚匡は何も尋ねず、彼が並べる幅を空けた。




