第11話 救わないでくれ
観測室の机には、椅子が六脚あった。
尚匡はそれを数えてから、数える必要のないものを数えたと気づいた。友乃葉が一脚へ手を掛けたが、座らず、携帯を載せるだけにした。榎坂は壁の案内を見ていた。
中央設備室へは、ここから二つの経路がある。
短いほうは古い測定室を通り、細い連絡路へ出る。外周を回るほうは長く、途中に試料観察室とある。尚匡は最初の地図の写真と、観測室の図を並べた。細かな設備の印は違うが、二本の道の位置は合っていた。
短ければ、戻るための設備を早く探せる。
榎坂はその線を先に指した。笹倉の名前は出さなかったが、尚匡も同じことを考えていた。
測定室側の扉は閉じていた。小窓から携帯で照らすと、床の途中に段差がある。先の照明は半分消え、配線を通す溝が暗かった。通れないと判断するほどのものは見えない。ただ、歩きながら図を見る場所ではなさそうだった。
ここにも電話が一台、付いている。
尚匡は白いボタンへ目をやった。電話を使う人を替えたほうが、違うことが分かるかもしれない。自分で聞くことを避ける理由も、それらしく考えられた。
「俺が使います」
口に出すと、穂奈実が頷いた。
「どこまで進めたか。それと、道の状態を」
「はい。誰が一緒かも」
友乃葉がその三つを見える位置へ書いた。尚匡は右手をゆっくり開いた。ガーゼがあるまま照合できるのか気になったが、掌を置くと本人照合の文字が点いた。
十時十分。
発信すると、いきなり自分の声が来た。
『志摩野さんを連れてくるな』
尚匡は穂奈実を見た。彼女は受話器の音が聞こえる位置にいる。表情は変わらなかった。
「何がある」
『足をやる。運んでたら抜けられない』
「今は怪我してない」
『こっちはしてる。置いてこい』
「お前は誰だ」
『右手、金網で擦った。お前と同じだ』
尚匡は掌を見た。相手は続けた。
『俺が助かったほうがいい。お前は俺だろ』
「置いてきたら、彼女は」
『知らない。俺は出られる』
尚匡が次の言葉を探す前に、三十秒が終わった。
受話器を戻す音が大きく響いた。右手が痛かった。さっきまで、この傷が今の自分のものだと確かめていた。その傷を知っている声が、誰かを置いて来いと言った。
偽物だと思いたかった。
傷はつい先ほど付いたものだ。何者かが見ている可能性はある。傷を言い当てただけで未来の本人だとは確定しない。それでも、偽物でなければ許せないことを言われたから偽物にする、というのは違った。
前の職場の合図を思い出した。見る、切る。もう一度、見る。身体が先に返す言葉は、正しく働くためのものだった。返す人間の判断まで正しくしてくれるものではなかった。
榎坂が訊いた。
「何が起きて、怪我をするんだ」
尚匡は首を振った。
「そこまでは、聞けませんでした」
友乃葉がメモに指を置いたまま待っている。尚匡は隠さず、置いて来いと言われたことを繰り返した。最後の、俺は出られる、も言った。自分が出た先に何があるかも聞いていない。その返事を、出口へ着いたという意味に変えないようにした。
御厨が、他の誰かは一緒だったのかと訊いた。尚匡は首を振った。最初に決めた三つの質問のうち、二つは形にもできなかった。
「一方的に言われたなら、仕方ないです」
友乃葉が言った。
尚匡は礼を言いかけ、言葉を飲んだ。慰めが欲しいわけではない。そう言い切れるほど、自分は強くもなかった。
電話の向こうに、自分の顔を置いてみた。足元を照らし、脇に倒れた誰かがいて、その人を見ないようにしながら受話器を握る。自分だけなら動けると思ったとき、助けを頼むのではなく、置いて来いと言う。そんな自分の姿は想像できないはずだった。それなのに、受話器を握る手の感触だけは、ひどく容易に思い浮かんだ。
尚匡は右手を開いた。自分の傷を知っている声に、分かっているだろうと言われた。それを聞いて、事情を知らないのに責めていいのかと考えた一瞬があった。逡巡している間も、穂奈実はそばで待っていた。
「私は、ここに残るとは言っていません」
穂奈実が言った。
尚匡は顔を上げた。
「はい」
「足を怪我するなら、原因を見たい。別の道なら避けられるのかも知りたい。未来のあなたが困るから消えてくれ、では、話が違います」
「そうですね」
返事が薄く聞こえて、尚匡は口を閉じた。
彼女を助ける、と言いかけた言葉を飲み込んだ。
「ここから、どう進みたいですか」
尚匡は訊いた。
穂奈実は二本の経路を見た。
「短いほうの入口を、外から確かめる。それで分からなかったら、外周のほうも見る。足を踏み入れてから、怪我する場所を探すのは避けたい」
榎坂が頷き、測定室の窓へ光を当てた。尚匡も隣から覗いた。段差の先で、何かの板が斜めに浮いている。手前から見えるのは端だけで、どのくらい支えが残っているかは分からない。
尚匡は見えた範囲を携帯で撮った。
「ここが原因かもしれない。でも、そうだとは決められません」
穂奈実は写真を拡大して、浮いた端の向こうを見ようとした。画像は暗く、線が崩れた。撮り直せば分かるというものではなさそうだった。
榎坂が押し棒へ手を置いた。少し開けて中へ光を入れることはできる。尚匡はその手を見て、自分の足を見た。
入って確かめる。その一歩が、相手の言ったことを自分で作る一歩になるのかもしれない。逆に、確認して避ければいいだけかもしれない。電話の仕組みが分からないせいで、普通ならできる判断まで重くなった。
「先に、外周を見ませんか」
尚匡は言った。
榎坂がこちらを向いた。遠回りになる、と言うのを尚匡は待った。榎坂は時計を見て、頷いた。
「入口が見えるところまでは、そうしよう」
友乃葉が短い経路の欄へ、足の怪我の予告、原因未確認、と書いた。その下に、放置しろという要求も残している。
御厨は、時間が掛かる道でも中央には出るのかと訊いた。尚匡は図の線が合流しているところを示した。今の設備が地図どおりなら、と付け加える。御厨は納得したようにも、不満を押し込めたようにも見えた。
尚匡は図の横へ、五人、と書いてもらった。電話の向こうの一人に、今の相談へ席を与えるつもりはなかった。こちらには、まだ答えを言える人間が五人いる。黙っている御厨にも、友乃葉にも、通れるかどうかを自分の身体で考えてもらう必要があった。
穂奈実は自分の靴紐を結び直した。右、左と足首をゆっくり動かす。
尚匡は自分の足元も見た。爪先へ濡れた粉が付いている。掌ばかり気にして、靴底の状態を見ていなかった。敷居の乾いたところで片足ずつ確かめ、歩く向きを変える。
尚匡は友乃葉と御厨にも、歩きにくいところはないか訊いた。御厨は膝が少し、と答えた。怪我ではないらしいが、階段を急げる状態でもない。短いほうなら全員早く着くと、図の長さだけで考えていたことに気づいた。
穂奈実が歩みを止め、足首をもう一度動かした。
「今は、痛くないです」
尚匡は頷いた。
五人は観測室の外周側へ移った。尚匡は最後に、短い経路の電話を振り返った。もう一度かけられたら、向こうの自分へ何を言っただろう。卑怯だと言うだけなら、三十秒も要らない。
しかし、そう言った自分が十分後に同じ要求をしないと、どう証明すればいいのか分からなかった。
尚匡は受話器から目を離した。今から何をするかでしか、それを確かめる方法はなかった。




