第12話 音の下の音
外周の連絡廊下には、小さな配線表が残っていた。
尚匡は穂奈実を呼び、壁の板を照らした。まず近くへ来てもらってから、足元の配管を跨ぐ位置を示す。彼女は自分で見て跨いだ。その普通の動作を、尚匡は先ほどの電話を聞く前より注意して見ていた。
先に手を貸すべきか迷ったが、穂奈実の歩く速さは変わらなかった。尚匡は手を伸ばさず、代わりに管の端が見える位置から照らし続けた。彼女は渡り終わってから、ありがとう、と言った。何に礼を言われたのかがはっきりしていて、尚匡も頷きやすかった。
冷却配管の図と、通話系統の図が左右に並んでいる。電話の黒い線は、いくつもの部屋から中央の一点へ集まっていた。
穂奈実はすぐに図を見るのではなく、友乃葉に録音を開いてもらった。
「この辺の音、少し比べたいです」
最初は空調室の友乃葉の通話だった。受け皿について話す声。その後ろで、低い音が三度続き、一度切れる。次は枝口の尚匡。言葉に重なっていた同じような唸りが、今度は少し小さく聞こえた。
榎坂の無音の通話にも、それはあった。
穂奈実は悲鳴や途切れた返事のところを、必要以上に再生しなかった。前後の数秒を選び、友乃葉と二人で時刻を確認する。尚匡は隣で壁の配管の線を追った。
「どこも、三回鳴って、一回切れる」
穂奈実が言った。
「同じ装置から来てるのか、同じ動きの別の装置なのか。そこは音だけでは決められない。でも、共通する低い音があります」
「未来の相手が、同じ場所にいる?」
友乃葉が訊いた。
「それは別。離れた部屋にも、配管や壁を伝って聞こえるから」
尚匡は壁へ耳を近づけた。今いる廊下にも、僅かな振動があった。携帯の録音ほどはっきりしない。水の流れる音や、皆が服を動かす音にも紛れる。
配管の図で、中央冷却から戻る線を辿った。空調、測定、排水。途中で別々に分かれ、また中央装置の下で集まる。電話で聞いた部屋が離れていても、音の通る道はありそうだった。
「笹倉さんのところも、中央からの戻りが動いてました」
尚匡は言った。
榎坂が図を見た。短く息を吐き、停止を操作する場所は中央かと訊く。
「ここでは、そこまでしか読めません。途中に止める機構があっても、図に出てないかもしれない」
尚匡は断言しなかった。図面の線を指すだけで、笹倉のいる場所へ手を差し伸べたような気になるのは嫌だった。
御厨が横から、中央へ行くしかないのか、と言った。彼は機械音より時刻を気にしている。尚匡がその顔を見ると、御厨は十三時までに外へ出たいのは皆同じでしょう、と付け足した。
尚匡は最初の部屋で見た冷却限界の表示を思い出した。何が十三時に起きるのか、説明はまだ聞いていない。音が中央から伝わるなら、今動いている冷却が電話の装置と無関係だとも考えにくい。
だが、音が止まれば出られる、とは言えなかった。排水槽では、止まっていないものを止まった前提で扱い、一人を失った。今度は逆に、動いているものを切れば全部解決すると思い込むわけにはいかなかった。
友乃葉が次の録音へ指を掛けた。先ほど尚匡が受けた、穂奈実を置いて来いという通話だった。彼女の動きが止まる。
「そこも、聞いていいですか」
友乃葉は穂奈実へ訊いた。
「音だけなら。小さく」
穂奈実は答えた。尚匡は横で聞いた。俺が助かったほうがいい、という自分の声の後ろにも、同じ周期の音がある。
穂奈実が録音を止めてもらい、配線表を見た。
「電話の線も、ここを通ってるんですね」
「途中まで、非常通話の系統と同じです」
尚匡は表の凡例を照らした。細い破線が、未来通信の装置の線に合流し、その先でまた分かれている。片方の行き先には地上受信盤とある。
友乃葉が顔を上げた。
「外に繋がる?」
「可能性はある。でも、今は図の上で繋がってるだけ。使えるかは分かりません」
線が同じ場所を通るからといって、電話のボタンを何か押せば普通の電話になるわけではなかった。地上の盤が生きているか、外の誰かへ届くかも、ここでは確かめられない。
尚匡は図を撮り、地上受信盤の文字が読めるか拡大して見た。中央へ進む目的が、一つだけ増えた。未来の自分に出口を教えてもらう以外の方法だった。
榎坂が、地上側からこの場所を開けられるのかと訊いた。尚匡は首を振った。通話先と扉の操作は別で、その機能があるかも分からない。
「連絡できれば、住所は伝えられる」
尚匡はそう言ってから、最後に覚えている依頼書の施設名を確かめた。友乃葉が自分の呼び出されたときのメールを出す。電波がなくても、保存された文面は読めた。尚匡の依頼書と同じ地名だった。御厨も頷く。
五人が同じ場所へ来たのなら、外の人間に探してもらう手掛かりはある。今まで、目の前の扉の名前ばかり気にして、その当たり前の地名を揃えていなかった。
友乃葉は施設名を新しい行へ書いた。電話へ読み上げるとき慌てないように、住所の分かる部分も写した。圏外の端末が、今は外へ伝える言葉を置く場所になった。
五人は外周点検室の扉まで進んだ。測定室側より入口の幅が広い。点検窓から見る限り、床に大きな段差はなかった。途中から曲がっているため、中央まで見えるわけではない。
電話は未使用だった。
「私が訊きます」
穂奈実が言った。
尚匡は頷いた。足を怪我しないかだけを訊きたいと思ったが、訊くことを決めるのは穂奈実だった。彼女は友乃葉へ、中央が見えるか、道の状態はどうか、を先に告げた。
「足も、最後に訊きます」
尚匡を見て言ったのではなかった。それでも、自分の心配が全部無駄だと言われたわけではないことに、少し息がつけた。
十時二十分。
穂奈実が掌を置き、発信した。
「志摩野です。今、どこまで?」
『中央が見える。曲がった先の窓から』
「床は。危ないところある?」
『入口の先、左に低い管。跨ぐとき、荷物を引っ掛けないで』
「低い音、今も三回ずつ?」
『そう。足元にも来る』
「足は痛い?」
『痛くない。怪我はしてない』
三十秒が終わった。
穂奈実は受話器を戻した。窓へ光を向けると、左の壁沿いに低い管が通っていた。入口のすぐ先ではなく、少し進んだ位置にある。踏み越える前に荷物を持ち替えればよさそうだった。
「同じことを、先に聞いた」
友乃葉が言った。
受け皿のときと同じように、小さな観察が合う。それだけで道の全部が安全になるわけではない。友乃葉は自分で、管の位置、窓から確認、と書き加えた。
続けて接続先の時刻を十時三十分と打ち、現在の時刻と別の欄へ置いた。今はまだ、未来の穂奈実が窓から見た中央の様子は確かめられていない。友乃葉はその行の横だけ空けておいた。
穂奈実は二本の経路の図を出した。
「片方では私は足を怪我してる。もう片方では、してないと言ってる」
尚匡は短いほうの線を見た。
「道が違えば、起きることも違う」
「そう考えれば説明はつく。でも、嘘を言った可能性や、誰かの行動が違った可能性も残ります」
穂奈実は自分の名前を二つの線の脇へ書いた。
「怪我するほうを試して確かめるのは、嫌です。もっと危なくないことで比べられるなら、そうしたい」
友乃葉が顔を上げた。尚匡も頷いた。電話の説明を信じるか、全部偽物として捨てるか、その二択ではなくてもよさそうだった。
榎坂が扉を開けた。中の空気を感じ、足元を照らす。五人は低い管の手前で一度止まり、荷物を持ち替えてから進んだ。穂奈実は自分で跨ぎ、足首を庇う仕草はしなかった。
曲がり角の先に窓があった。中央設備室の一部が見える。床の下で、三度続く音が少し強くなった。
尚匡は壁に触れず、その振動を靴の底で感じた。十分後の相手に言われたことが、いま確かめられる形で一つずつ近づいている。
だが、近づいているのが同じ未来なのかは、まだ分からなかった。




