第13話 分かれた十分
試料観察室の扉には、大きな窓があった。
尚匡は中を照らした。小さな部屋で、左右の壁に棚があり、中央には低い台が一つある。設備の操作に使いそうなものは、台の奥の観測卓へ集められていた。床は乾き、空調室で嗅いだ匂いもなかった。
それだけで安全と決めたわけではない。榎坂と二人で入口から見える範囲を確かめ、動いている機械や床の穴がないことを確認した。観測卓の表示は点いているが、触らなければ何かが動く様子はなかった。
「札、ありますね」
友乃葉が棚を指した。
赤と青の四角い札が、同じ高さに掛かっていた。機械へ繋がった線はなく、試料の区分を示すための札らしい。手前の台には、何も載っていない。
「これなら、人が怪我するかどうかを試さなくていい」
彼女は電話と棚を交互に見た。
「私が電話で場所を聞いて、切れてから動かす。十分後に、どっちにあるか比べませんか」
尚匡は窓へ近づいた。札の位置は外から見える。窓の下に電話があり、発信ボタンは白かった。友乃葉の案なら、予告を確かめるため危険な道へ進む必要はない。
穂奈実が、動かす先も決めておこうと言った。台の中央。誰も触らない。その間、札を見える場所から確認する。赤い札は動かさず、周りの位置関係も写真に残す。
尚匡は頷いた。大袈裟な準備に見えたが、後で場所を取り違えたのではないかと揉めるよりよかった。
榎坂は時計を見た。
「十分、ここで使うんだな」
友乃葉の手が止まった。
尚匡も、笹倉の名前を思い出した。中央へ行く時間を削って、札の位置を確かめる。その選択を、自分がしていいのだろうか。
「待ってる間、配線の表を読めます」
尚匡は窓の向こうの観測卓を指した。壁に、廊下で見た図より細かい表がある。
「ただ、電話をどう扱うか、何も分からないまま先へ行くのも怖いです」
榎坂は頷いた。
「俺は部屋と先の通路を見る。入って何か変なら、そこでやめる」
友乃葉がありがとうございますと言った。榎坂は礼を受け取るような顔をせず、彼女の録音の準備が整うまで待った。
十時二十五分。
友乃葉が照合板へ手を載せた。受話器を上げ、青い札が棚にあるのをもう一度見てから発信した。
「友乃葉です。いま、どこ?」
『試料観察室。皆が配線の表を読んでるから、待ってる』
「青い札は、どこにある?」
『棚。最初の場所』
「この電話をかけた覚えは?」
『いま話してる。かけた覚えは、ない』
「空調室の受け皿は?」
『落ちた。電話で聞いた――』
返事の途中で切れた。友乃葉は受話器を戻し、皆の顔を見た。
「前の電話は、覚えてる」
尚匡は頷いた。自分が排水槽の手前で聞いた返事と似ている。電話の記憶が全部なくなるわけではない。今の一本だけ、相手にはかけた記憶がない。
榎坂が扉を少し開け、中を確かめた。誰もいない。尚匡は窓から見えなかった死角を照らし、足元に異常がないか見た。五人は入口を塞がない位置へ入り、友乃葉が棚へ向かった。
青い札を外す。
その瞬間まで、何かが鳴るのではないかと尚匡は身構えた。札は軽い樹脂でできていた。裏には小さな傷があり、友乃葉が表裏の写真を撮った。台の中央へ置くと、乾いた音がした。
十時二十六分を少し過ぎていた。
友乃葉は台と棚が一緒に写る角度から写真を撮った。穂奈実も別の携帯で残す。尚匡は札が台の縁から落ちない位置にあることを確かめ、それ以上近づかなかった。
台の上へ置くとき、友乃葉は一度だけ棚を振り返った。そこに物を戻さなければならないと思わせる何かがあるわけではない。ありふれた札のありふれた移動なのに、皆の視線が集まっているせいで、決定的な操作のように見えた。
「戻しちゃったら、分からなくなりますよね」
「そのときは、戻したって書けばいい」
尚匡は答えた。
「都合のいい結果に合わせる必要はないです」
友乃葉は頷き、台から手を離した。何も触れない時間が始まった。
それから、配線表を読んだ。
地上受信盤への線は、ここでも中央装置の脇を通っている。電源の区分が細かく、途中で表示名が変わる。尚匡は見覚えのない略号を無理に補わず、そのまま写真へ収めた。
榎坂は室内を一周してから、先の廊下へ顔を出した。友乃葉は入口寄りに残り、札を見ている。御厨が観測卓へ近づいたが、穂奈実が、まだ何も操作しないでください、と言った。彼は手を引いた。
尚匡は表示の中に、扉番号と通話履歴を見つけた。
十時二十五分。接続先、十時三十五分。先ほど使った扉の番号。記録の横に、基準分岐、と書かれた細い欄がある。その下には、受信後分岐。二つの番号は異なっていた。
「これ、撮ってた?」
尚匡が訊くと、友乃葉は入室直後の写真を出した。台の奥の観測卓が小さく写っている。拡大すると文字は潰れたが、枝分かれした二つの欄があるのは分かった。
穂奈実が隣へ来た。
「今の番号が違う。それで、電話の相手と同じ道じゃない、という表示かもしれない」
「札を動かしたから?」
「その前に話を聞いて、動かすと決めてる。どこから分けたのかは、表示だけじゃ決められないです」
尚匡は通話履歴をもう一枚撮った。装置自身が出した説明だった。嘘の仕掛けなら、説明も仕掛けの一部になり得る。それでも、聞いたことと目の前にあることを繋ぐ材料が増えた。
十時三十四分。
尚匡は時計を見る回数が増えていた。札が台にあることを見て、配線表へ目を移す。その間に動いたかもしれないと思い、また見る。受け皿が落ちたときの音まで思い出していた。
機械の警告音はしない。水も流れて来ない。今、恐れているのは危険な設備ではなく、見たことのない決まりに自分たちが逆らっているかもしれないという感覚だった。
穂奈実は札を見張る友乃葉へ、何か変わったら声を掛けて、と言って、自分も配線表へ目を戻した。その態度が尚匡にはありがたかった。五人が息を止めて見つめなければならない儀式にせずに済んだ。
尚匡はまだ読めていない略号へ指を戻した。時計の秒針が、一周した。
友乃葉は時計と札を同じ画面へ入れようとして、腕を伸ばした。穂奈実が自分の時計を台の近くへ持って行く。札には触れず、その位置も動かさない。尚匡は皆の位置を見た。五人とも部屋の中にいる。
十時三十五分になった。
青い札は、台の中央にあった。
何も起こらなかった。札が消えることも、誰かの手が勝手に棚へ戻すこともなかった。十分後の友乃葉が棚にあると答えたものは、今の友乃葉の前では台にあった。
友乃葉がゆっくり息を吐いた。
「合わない」
尚匡は頷いた。受け皿が落ちたときは、合ったことが恐ろしかった。今回は、合わないことが少し怖く、少しだけありがたかった。
「相手が嘘をついた可能性は、残ります」
穂奈実が言った。
「はい」
友乃葉はすぐに答えた。
「でも、違うことをしても、十分後に無理に戻されるわけじゃなかった」
尚匡は観測卓を見た。基準分岐、受信後分岐。相手にこの発信の記憶がないこと。青い札が台にあること。その三つを一緒に置くと、電話を聞かずに扉を開けた場合の道と、聞いた今の道が別れている、という説明が通った。
すべての仕組みを解けたわけではない。しかし、聞いたことを避けようとしたら結局そこへ着く、という考えだけに縛られなくてよさそうだった。
友乃葉が写真へ時刻を付ける。穂奈実が確認してから、青い札を棚へ戻していいと言った。友乃葉はもう一度台を撮り、それから手を伸ばした。
友乃葉が青い札を棚へ掛け直した。裏の小さな傷が、一瞬こちらを向いた。




