第5話 聞かなかった言葉
通路の空気を二度吸ってから、尚匡は歩き出した。
頭痛は残っている。壁の案内を読んで、その内容を次の角まで覚えていられるか確かめた。排水槽、下り階段。その表示を覚えたまま角を曲がると、足元に下向きの矢印があった。
榎坂が先に立ち、穂奈実が最後尾へ回った。急がないが、閉じた空調室のそばには留まらない。御厨が一度振り返ったので、尚匡も見た。青い服は見えない。あの扉を開け直さなければ、見えることはなかった。
「忘れた感じ、残ってますか」
友乃葉が訊いた。
「残ってる。何を忘れたか、はっきりしないのが嫌だ」
「私も。メモに書いてないこと、何か抜けたかもしれない」
尚匡は彼女の画面を覗き込まなかった。記録する役を引き受けただけで、記録できなかったことまで背負う必要はない。
「書いたものが残ってるだけで、助かってます」
友乃葉は短く頷き、携帯を持ち直した。
階段の手前で、また電話が見つかった。
尚匡は今度、先に周囲を見た。扉の向こうへ下る階段は、細い点検窓から少し見えている。手すりが右側にあり、下の踊り場に薄い灯りが点いていた。水面は見えなかった。
扉の名称は排水槽連絡路。地図では、右を選んだ場合の通路が先で近づき、観測区画へ繋がっている。覚醒室の右の電話を使い直せるわけではない。目の前の扉には、目の前の一回があるだけだった。
白い発信ボタン。その下に、今まで気づかなかった赤い小さなボタンがあった。透明の蓋が被せられ、封印の帯が巻かれている。
「返送?」
友乃葉が文字を読んだ。
尚匡は覗いた。二文字の脇に細かな注意書きがあるが、蓋と封印が重なって読めない。帯を剥がさなければボタンは押せず、今、壊して調べる理由もない。
「ほかの電話にも付いてたか、分かる?」
穂奈実に訊かれ、尚匡は覚醒室の写真を出した。説明の上半分ばかりを撮っていて、電話の下は切れていた。
「撮れてないです」
「じゃあ、ここを撮っておこう」
友乃葉が正面から一枚、斜めから一枚撮った。赤い色だけで非常停止と決めていたら、触っていたかもしれなかった。尚匡はその手前で自分の指を止めた。
「これで戻せるんじゃないの」
笹倉が言った。
「電話の声を、ですか」
「さっきみたいになったとき。やり直すとか」
尚匡は返送の文字を見た。戻せると、書いてあるようには見えなかった。何をどこへ送るかさえ分からない。笹倉もそれ以上は言わず、封印には触れなかった。
九時十五分が過ぎた。
「次、相良さんがかける?」
榎坂が訊いた。
尚匡は掌を見た。火傷の痕はある。空調室で危うく忘れかけたことを考えると、また名前を否定されるのが怖かった。それでも、自分に訊きたいことが一つできていた。
「はい。皆がどうなったかも訊きます。先に一つ、電話のことを」
友乃葉が録音を始めた。穂奈実が周りへ目で合図をし、六人が静かになった。機械の低い音は廊下にも僅かにある。どこか遠くで、水が管を落ちていった。
九時十六分。
掌を載せ、受話器を上げた。本人照合。発信。
「今、この電話をかけた覚えがあるか」
『ない。何の話だ』
尚匡の声だった。さっきよりはっきりしている。
「覚醒室の左で、自分の名前が分からない声を聞いたのは?」
『それは聞いた。今の電話は、かけてない』
「青い上着は」
『置いてきた。下の分かれ道にいる。柵、押すな。水が――』
「皆いるか」
息が擦れた。次の言葉を待つ間に、三十秒が尽きた。
尚匡は受話器を戻した。灰色のボタンの横には、〇九時二六分、という数字が消え残っていた。
友乃葉がすぐに時刻と内容を打ち始める。尚匡は、皆いるか、の答えがなかったことを自分でも書いた。訊けば教えてもらえると思って、最後へ回してしまった。
「向こうも、袖を置いてきたって」
御厨が言った。
「こちらと同じことを、しているんですね」
その言い方に、尚匡は引っ掛かった。同じなら、今の電話をかけていないという返事はおかしい。自分が電話した過去が、向こうにない。
「また、忘れてたんじゃないか」
笹倉が指先でこめかみを叩いた。
「あの部屋で。自分の名前を忘れるくらいなら、電話一つくらい」
説明としては通る。尚匡も、今朝の水を飲んだ先は覚えていない。覚えていない出来事がなかったとは言えない。
しかし、青い服を置いたことも、左の電話で聞いた内容も、向こうは話せた。忘れたのが全部ではないとしても、なぜ今かけた一本だけ抜けるのだろう。
尚匡は自分がした質問を、友乃葉のメモと照らした。最初は、今、この電話をかけた覚えがあるか。次は、覚醒室の左の電話について。違う二本を訊いたつもりだった。向こうが取り違えた可能性も、ないとは言えない。
「俺の訊き方、曖昧だったかな」
「相手は、今の電話と左の電話を分けて答えてました」
穂奈実が言った。
「録音も残ってる。あとで比べられます。今、全部の理由を決めなくても」
尚匡は頷き、録音が保存されているのを確かめた。
「袖は、私たちも置いた」
友乃葉が確認するように言った。
「名前も、九時十三分に言えた。じゃあ、さっきの私たちと、この電話の人は」
彼女はそこまでで止まった。画面の九時三分と九時十六分を、指で交互に示した。
穂奈実がしゃがみ、携帯を見やすい高さにしてもらった。
「一つ目の左の電話は、青い服を持って出たかもしれない人。今回の相手は、置いてきたと言ってる人」
「違う人なの?」
「まだ、そこまでは。同じ人でも、違うことをしたら状態は違うでしょう。それと、今かけた記憶がない。今は二つとも残しておこう」
友乃葉は、理由、という欄を消した。代わりに、相手の返答、と書き直す。
尚匡は説明の紙に目を戻した。開けた場合の、十分後。ここで電話をかけた場合の十分後、とは書いていない。その違いに意味があるのか、単に省略しただけなのかは分からなかった。
「電話を聞かずに、そのまま開けたらどうなるか、ってことかもしれない」
穂奈実が言った。
尚匡は彼女を見た。
「それなら、聞いたこっちと、向こうの人は」
「違うものを知ってることになる。でも、今は考え方の一つです」
榎坂が点検窓へ光を当てた。右側の手すりの下に、何かが垂れている。錆なのか、水滴なのか、窓越しには見分けにくかった。
「確かなのは、まだ降りてないってことだ。柵を押すなと言われたなら、押さずに確かめる。今は、それで進まないか」
尚匡は頷いた。分からない仕組みを解かないまま扉を開けるのは、負けたような気分になった。だが、十三時の数字は、自分が納得するまで待ってはくれない。
九時十七分。
友乃葉はメモの上に、皆いるか、答えなし、と書いた。尚匡はその一行を、自分の携帯にも写した。
榎坂が扉を開けた。湿った空気が足元へ流れてくる。階段の最初の数段は乾いていた。尚匡は踏み板の継ぎ目を照らし、手すりを握らずに最初の段へ足を置いた。
後ろから、友乃葉が時刻を読み上げた。
「この扉、使用済みです」
出発を知らせる、点呼のような声だった。
尚匡は灰色になったボタンを振り返った。何か訊き忘れたたびに戻って来られる場所ではなかった。右の悲鳴も、左の名前も、今の記憶の食い違いも、もう新しく問い直せない。
階段を一段下りると、足音が短く返った。
次の段では、少し長く返った。下の空間が広い。水の匂いも強くなる。尚匡は自分の携帯へ、柵、押さない、と一行書き足してからポケットへ入れた。
覚えているつもりのことほど、書いておきたかった。




