第4話 名前を落とす部屋
棚の上の服は、青かった。
尚匡は一歩手前で止まった。制服のようにも、薄い作業用の上着のようにも見える。畳んだ胸の部分に白い四角があり、試料作業用という札と同じ細い字が印刷されていた。
榎坂がその袖口を持ち上げかけた。
「触らないで」
思ったより大きな声が出た。榎坂の手が止まった。尚匡は自分の灰色の袖を見せてから、棚を指す。
「左の電話。青い袖を持ってくるな、って」
榎坂は袖を離した。服が棚の上で潰れ、軽く埃が舞った。奥の設備から風が来て、それを左側の壁まで運んだ。
甘いような匂いがした。食べ物の甘さとは違う。鼻に残り、喉へ薄い膜を張るような匂いだった。尚匡は鼻先を袖で覆いそうになり、その袖も安全なのか分からず、手を下ろした。
「何か漏れてる?」
穂奈実が訊いた。
「設備の名前が、まだ」
尚匡は棚の向こうの銘板を読もうとした。試料循環装置。自分が普段扱う建物の空調機とは違った。知っている配管の形を探して、奥へ顔を寄せかける。
小さく咳が出た。
携帯の光の中に、水滴とも埃ともつかないものが流れた。風は奥から手前へ来ている。床の水は右側に広がり、六人はそれを避けて左へ集まっていた。匂いの流れる側へ、揃って寄っていたことになる。
「そこで止まってください」
尚匡は五人へ言った。
次に何を確かめるつもりだったか、一瞬、抜けた。
銘板を見る。そうだ、銘板を見て、何の機械か知る。尚匡はまた携帯を上げた。見たばかりの文字が照らされる。試料循環装置。読める。それなのに、読んだあとでどうすればいいのかが繋がらなかった。
「相良さん」
穂奈実に呼ばれた。
「今、同じところを三回見てます」
尚匡は振り返った。三回、という数が、ひどく遠い。
「一回です」
「銘板を見て、下を見て、また銘板。私の前で」
彼女は責めていなかった。そのせいで、自分の返事が怖くなった。額の奥がずき、と痛んだ。眼球の裏を指で押されるような痛みだった。
友乃葉が携帯を見下ろしていた。画面には六人分の名前と、九時八分の通話の記録が出ている。
「私、何を書こうとしてたんだっけ」
尚匡は友乃葉の顔を見た。さっきまで聞き取った言葉を一つずつ確かめていたのに、今は文字を打つ位置に指を置いたまま、動かせずにいる。
「出る。全員、出よう」
榎坂が言った。
入口へ引き返そうとして、尚匡は床の水を見た。入って来たときより、左側へ伸びている。水を踏まずに戻れる幅が、もうほとんどない。
榎坂もそれを見て足を止めた。笹倉が背後で、次の扉は、と訊く。尚匡はその言葉を追うように奥を向いた。
緑の避難表示は、棚の向こうではなく左手の小さな扉を示していた。地図では清浄側の保守通路に繋がっていたはずだった。尚匡は携帯で撮った図を探そうとして、カメラを開いた。
「写真。地図の写真です」
穂奈実が隣から言った。尚匡は画面を彼女へ向けた。手順を一つずつ言ってもらい、保存した図を出す。
「こっち。細い通路へ出る。今の風も、あの扉の下から来てる」
穂奈実が指した方向で、床に落ちた細い紙片が室内へ向けて揺れていた。そこが安全だと断定できるわけではない。それでも、匂いの濃い棚の前に留まる理由はなかった。
榎坂が扉へ進み、少し開いた。廊下の灯りが見えた。水はない。中へ風を送る隙間に手をかざし、皆を呼んだ。
御厨が先に扉を抜けた。笹倉が友乃葉の肘に手を添える。友乃葉は大丈夫、と言いながら、携帯を同じポケットへ二度入れようとした。
尚匡の右側に、半開きの仕切り板があった。棚と機械を囲うためのものらしい。青い服はその内側にある。仕切りの取っ手は通路側へ出ていた。
「閉められます。これを――」
「戻って触るなよ」
榎坂が言った。
「ここから。取っ手だけです」
尚匡は足を動かさず、手を伸ばした。青い服へ触れない位置で、板を引く。途中で引っ掛かり、焦って強く引きそうになる。穂奈実がそばで、足元、と言った。
尚匡の爪先のすぐ先まで、水が来ていた。
腰を引いて板の角度を変えると、仕切りが動いた。閉じ切るまで待たずに手を離す。完全に匂いを止められたかどうかは、確かめに戻らなかった。
保守通路へ出ると、榎坂が尚匡の肩を掴んだ。強く引くのではなく、こちらへ、と歩く向きを示してくれた。穂奈実が最後に出て扉を閉める。尚匡は壁から身体を離したまま、冷たい風の来る側へ数歩進んだ。
そこで初めて、皆が一緒にいるか数えた。
一人足りない気がした。
榎坂、友乃葉、笹倉、御厨、穂奈実。
自分を数えていなかった。
尚匡は膝に手を置いた。榎坂がしゃがむかと訊いたが、立っていたかった。座り込んだら立つ目的を忘れそうで、その理由を口に出すのも怖かった。
友乃葉は壁にもたれ、名前の一覧をゆっくり読んだ。御厨がハンカチを差し出す。受け取る手が震え、彼女はそれを口へ当てず、膝の上で握った。
「換気、回ってたのに」
笹倉が閉じた扉を見た。
「回ってるだけじゃ、外へ出てるとは限らないです」
尚匡は答えてから、知っていることを言えたと気づいた。難しい説明ではない。ただ、その順序が頭の中で繋がったのがありがたかった。
穂奈実が友乃葉の携帯の記録を見せた。九時九分、受け皿落下。九時十分台、匂い。相良、確認を反復。三戸部、記録の目的を忘れる。
「今は、十一分です」
彼女が言った。
「ここで様子を見る。悪くなったら、もっと離れる。何だったか確かめに戻るのは、やめましょう」
尚匡は頷いた。棚の札の全文を読めなかった。それが気になり、戻って一枚写真を撮ればいいと思いかけた。写真は撮れても、自分が戻って来られないかもしれなかった。
頭痛はまだあった。空気が変わったからすぐ治る、というものではなかった。友乃葉が自分の名前を言い、学部の名を言って、途中で首を傾げる。思い出せないことを埋めるように、榎坂が代わりの言葉を足すことはしなかった。
御厨が、壁の下の給気口を見ていた。尚匡がそちらへ視線を移すと、御厨は一歩離れた。聞きたいことがあったが、まだ言葉を並べるのに時間が掛かった。
「ここの設備、知ってますか」
「いいえ。取引先の資料で、名前を見た程度です」
「さっきの機械は?」
御厨は首を振った。尚匡はそれ以上訊かなかった。分からない相手を責めているような声になりそうだった。自分だって、あの銘板の次に何をするか忘れていた。
榎坂は皆に、それぞれの携帯でもう一度通報を試すよう頼んだ。誰の端末も外へ繋がらない。それでも通話画面を開き、番号を押す手順を皆が自分で行えた。友乃葉が画面を閉じずに、少し待ってみる、と言った。電話が切れたあとも、その先に現実の誰かがいることを、尚匡も信じていたかった。
尚匡は携帯に自分の名前を打った。相良尚匡。変換候補にいつもの字が出た。次に会社名を打つ。出る。家の最寄り駅も出る。
左の電話の声が、急に近くなった。
名前は知らない。それでも、火傷は見える。身体に染みついた職場の合図なら、考えるより先に返せる。そういう状態へ、自分も向かいかけていたのではないか。
「あの人、嘘じゃなかったのかも」
尚匡が言うと、穂奈実は閉じた扉を見た。
「名前を忘れてた、ということ?」
「青い袖を持って出て、あの空気を吸い続けてたら」
「そうかもしれない。でも、同じところまで試す必要はないです」
尚匡は頷いた。説明がつきそうだからといって、確かめたいわけではなかった。
九時十二分になった。
右の相手が悲鳴を上げていた時刻だった。誰も扉を叩いていない。今の六人は、乾いた廊下に立っている。尚匡は右を開けなかった。その違いを、どう考えればいいのかはまだ分からなかった。
九時十三分。
「相良尚匡」
自分の声で言った。五人が顔を上げる。
「今は、分かります」
友乃葉が画面へ指を置き、そのままゆっくり入力した。自分の時刻に、自分の名前が残るのを、尚匡は隣で見ていた。




